紅妖奇譚9
鬼火の滝でたくさん寝たせいか、眠気がまったくこない。
葵と緋色は朝まで作戦を詰めた。
言葉にして確認するたび、怖さが形を変える。漠然とした恐怖が、具体的な手順に変わっていく。
夜が明けると、二人は買い物に出た。
必要なものを揃え、ついでに細々した用事も片づける。人のいる昼の街は平和すぎて、昨夜の出来事が嘘みたいだった。
昼を過ぎた頃、さすがに瞼が重くなってきた。
行動を起こすのは今夜だ。二人は早めに布団に入る。
部屋の暗さが増すと、胸の奥に沈めていた不安が浮かんできた。
「……あいつらが自首するなら万々歳だけど」
葵がぽつりと言う。
「もし喧嘩になったら、どうする?」
SDカードを見せつけたところで、本当に自首するのか。
自首しないなら、何が起きるのか。
襲いかかられたら――緋色はともかく、葵は勝てる気がしない。
「大垣は」
緋色があっさり言う。
「私が叩き潰す」
葵が思わず苦笑する。
「……言い方」
「だってさ」
緋色は真剣な声のまま続けた。
「佳奈先輩にしたこと、許せる?」
許せるはずがない。葵は小さく首を振る。
「全ての女の敵だからね」
緋色は吐き捨てるように言う。
「とにかく大垣は私がキッチリ地獄に落とすよ。真朱姉から貰ったものも使えそうだしね」
緋色なりの秘策があるのだろう。ニヤリと笑う。
「……で」
緋色が静かに言う。
「葵はどうしたい?」
暗闇の中でも、赤い瞳がこちらを見ているのが分かる。
「田淵とは、話したいんじゃない?」
葵の喉が鳴った。
話したい。
でも、話したくない。
田淵の声を思い出すだけで、胃が痛くなる。
「俺は……」
葵はしばらく言葉を探した。
そして、ようやく吐き出す。
「……本当は、怖い」
情けないほど正直な言葉だった。
「また、あの時みたいになるのが」
熱いアスファルト。
押さえつけられる頭。
吐き気。
忌まわしいあの言葉。
「でも」
葵は息を吸う。
「逃げたままだと、一生終わらない」
緋色が黙って聞いている。
葵は続けた。
「俺、田淵に勝ちたいとか、殴り返したいとか……そういうのじゃない」
葵は拳を握る。
「ただ――」
声が少し震えた。
「あいつと話すのが、俺が前に進むために必要なんだと思う」
緋色が小さく頷く。
「それが答えだよ」
葵は目を閉じる。
「だから今夜、言う」
暗闇に向かって言い切った。
「俺の口で、俺の言葉を言う」
布団の中で、緋色がそっと葵の手を握る。
「うん。がんばれ、葵」
短い声援が、やけに心に響いた。
――少し間が空く。
葵は天井を見つめたまま、小さく呟く。
「……あと」
「ん?」
「喧嘩になったとしても、勝てる気がしないんだが……」
「なんで?」
緋色の返事は軽い。まるで全く問題にも思っていないみたいに。
「なんでって……」
葵は唇を噛んだ。
「喧嘩に強かったら、今までこんなに虐められてないよ」
言っていて情けなくなる。
自分で自分にダメ出ししているみたいだった。
「……うーん」
緋色が唸る。
「葵の場合、心で既に負けてるからダメなんじゃない?」
葵は眉をひそめる。
「闘いは心だよ。心が折れたら、勝てる勝負も勝てない」
「そんなもんか……」
葵がぼそりと言うと、緋色がじっと見てきた。
「だいたいさ」
赤い瞳が、少しだけ細くなる。
「私は殴れて、田淵は殴れないって言うの?」
「……それは」
言葉に詰まる。
「そもそも」
緋色が続ける。
「葵だって錫から稽古受けたことあるでしょ」
葵は黙って頷いた。
「天狗に稽古つけてもらった人間なんて、そうそういないんだから」
緋色は少しだけ得意げに言う。
「そもそも私と取っ組み合いの喧嘩出来てる時点でそこらの一般人より充分強いよ?」
「我が妹ながら化け物だと思うよ」
葵が思わず突っ込むと、緋色が小さく笑った。
その笑いが、妙に救いだった。
次の瞬間。
「心で負けるな」
緋色が、葵の胸を――どん、と押した。
強くはない。けれど、芯まで届く押し方。
葵の息が一瞬止まる。
「……っ」
「勝てるかどうかは、正直わからない」
緋色の声は真剣だった。
「でも“逃げない”は、葵が決められる」
赤い瞳が、まっすぐ葵を捉える。
「ね。葵」
葵は喉を鳴らし、ゆっくり頷いた。
「……逃げない」
言った瞬間、不思議と胸が少し軽くなる。
緋色は満足そうに頷いて、布団に潜り直した。
「よし。じゃあ寝よ」
「切り替え早すぎだろ」
「本番は今夜だもん」
緋色の声が、少しだけ柔らかくなる。
「葵。ちゃんと起きれる?」
「起きるよ」
葵は目を閉じた。
怖い。
でも、逃げない。
今夜は――自分の言葉で、終わらせる。




