紅妖奇譚8
「忘れ物ない?」
高校生の男女が深夜に出歩く。補導されないように、二人は黒を基調にした服装へ着替えた。
葵は帽子を深く被り、白髪が目立たないようにする。
持っていく道具は、昨日買ったペンライトくらいでいいだろうか――葵が考えていると、緋色は小さなリュックを背負って立っていた。
「ない」
葵が答えると、緋色が小さく頷き、深夜の外へ踏み出す。
「こんな時間に出かけることないから、なんか新鮮だな」
「いつもだったら寝てるもんね」
普段なら、こんな深夜に出歩くことはない。
だが鬼火の滝でたっぷり眠ったせいか、葵には眠気がまったくなかった。
(……なるほど)
時間が遅く進む異界は便利だと思ったが、出てくるタイミングによっては昼夜逆転という代償もあるらしい。
二人は他愛もない話をしながら歩いた。
田舎の深夜らしく人影はなく、たまに車が通る程度だ。そのたびに帽子を深く被り、街灯の影へ身を寄せる。
(このまま何事もなく――)
そう思った瞬間、葵の背筋に悪寒が走った。
目の前には、地区の消防団の詰所らしき古い建物。
その脇で赤い警告灯がちかちかと明滅している。
――違う。
葵の視線が吸い寄せられたのは、その横の何の変哲もない電柱だった。
影だと思った。
だが、影の輪郭が揺れている。
黒い靄のようなものが、電柱に貼りついている。
そこから、人間のものとは思えないほど大きな眼球がぎょろりと動き――葵と目が合った。
『――見だな』
「――っ!」
葵の喉が凍りつく。
深夜に出歩かない理由を、忘れていた。
夜は霊や妖が活発になる。そして葵のような“見える側”は、それだけで刺激になってしまう。
直感で分かる。
こいつは、まずい。
佳奈の怨念も確かに強かった。
だが、これは種類が違う。
目の前のそれは、悲しみではなく――悪意そのものだった。
(逃げる)
葵は緋色の腕を掴み、踵を返そうとした。
その瞬間。
深夜の闇を裂くように、乾いた音が響いた。
ぱん。
柏手――たった一度。
次いで、断末魔が上がる。
『――見だなああああぁぁ……』
葵が思わず振り返ると、先ほどまで電柱に貼りついていた禍々しい存在は跡形もなく消えていた。
それだけではない。
さらに遠くからも、短い悲鳴のような声がいくつも連なり、次々と途切れていく。
葵の足が止まった。
「……なにした?」
隣を見ると、緋色は何事もなかったように歩いている。
「なにって、手を叩いただけだよ?」
柏手。
神社の参拝で打ち鳴らす、あれだ。場を清め、邪気を払うためのもの――。
だが。
「いやいやいや……」
葵は声が裏返った。
「今の、明らかにヤバい奴が一瞬で消えたんだけど!?」
遠くから、まだ微かに声が聞こえる。
そして空気が変わっていた。さっきまでの重さが嘘みたいに、道が澄んでいる。
まるで大きな神社の境内を歩いているような、清らかさ。
「……私に喧嘩売ってきたから」
緋色は恥ずかしそうにおずおずと答える。
目が合っただけで襲いかかろうとした悪霊も悪霊だが、柏手一発でこの一帯の空気ごと変えてしまう緋色も大概だ。
「だとしても一回手を叩いただけで、ここまで変わるのかよ……」
「大丈夫」
緋色はあっさり言う。
「ダメージ入るのは悪意のあるやつだけだから」
葵は言葉を失った。
(……核兵器かよ)
心の中でそう突っ込みながらも、さっきより確実に呼吸がしやすいことに気づく。
緋色がちらりと葵を見る。
「邪魔はなくなったから行こうか」
葵は小さく頷き、ペンライトを握り直した。
行こう。――旧部室棟へ。
「――デン、デン、ドッ、デンデンデン」
誰もいないのを見計らい、葵と緋色は胸の高さほどの校門を軽く飛び越えた。
夜の校舎は昼と違って輪郭が薄く、街灯の光がコンクリートを冷たく照らしている。
(……また来てしまった)
旧部室棟へ向けて歩き出した、その背中で。
「――デン、デン、ドッ、デンデンデン」
緋色が小声で口ずさむ。
普段なら気にも留めない砂利を踏む音が、深夜の静けさの中では妙に大きい。
一歩ごとに心臓が跳ねる。
旧部室棟の裏手に回り込むのは、拍子抜けするほど簡単だった。
人影も、灯りもない。
葵は扉に手をかける。
――案の定、鍵がかかっている。
裏手に回り、葵が息を殺しながら窓枠に手をかける。その横で――
「――デン、デン、ドッ、デンデンデン」
まただ。さっきからミッションインポッシブルのBGMが真横から流れてくる。
葵のこめかみがぴくりと動いた。
「緊張感!!!」
思わず低い声で叫ぶ。
緋色がきょとんとした顔をする。
「え、だって潜入だよ?」
「潜入だからこそだろ!」
葵は窓枠に指をかけながら、歯を食いしばる。
「口ずさむな。音がする。目立つ。ばれる」
確信犯でふざけていたためか、望み通りの突っ込みをされて緋色が吹き出しそうになるのを、葵は手で制した。
「……いいから静かにしててくれ」
窓のサッシに指先を滑らせる。
赤錆がざらりと手に触れた。
(頼む、開いてくれ)
葵はゆっくり力を入れる。
耳障りな金属音が、小さく夜に滲んだ。
だが、窓はびくともしない。
「……開かない」
葵が呟いた瞬間、緋色がおもむろにリュックの中を探り始めた。
「……お、おい」
葵が止めるより早い。
緋色はガムテープを取り出すと、窓ガラスに手際よく貼っていく。
「いいから見てて」
緋色が小声で言う。
そして――
貼り終えた窓に、拳を叩き込んだ。
ガシャリ、と鈍い音。
派手に割れる音ではない。
テープが衝撃音を殺してくれているのが分かる。
緋色はすぐさまテープの端を掴み、ゆっくり剥がした。
ぱりぱり、と小さな音。
割れたガラス片がテープに張り付いたまま、まとめて外れていく。
葵は息を呑んだ。
「……え、なにそれ」
「漫画で読んで初めてやったけどうまくいった」
緋色が得意げに言う。
「こんな器物破損していいのかよ……」
「いいのいいの」
緋色は軽く言い切る。
「どうせここ、普段から不良の溜まり場でしょ? 窓の一枚や二枚、今さら」
葵は言い返したかったが、確かにこの旧部室棟は老朽化していて、すでにあちこちが壊れかけている。
それでも罪悪感が胸の奥でちくりとした。
緋色は割れ口に触れないよう慎重に腕を差し入れ、内鍵を探る。
カチ、と小さな音。
内鍵が外れた。
緋色が窓をそっとスライドさせる。
今度は音がほとんどしなかった。
「……入るよ」
緋色が囁く。
葵は頷き、ペンライトを握り直す。
窓枠を跨ぎ、暗い室内へ身体を滑り込ませた。
埃の匂いが鼻を刺した。
空気が、冷たい。
床に足がついた瞬間、葵の背筋が粟立つ。
(……ここだ)
昨夜の恐怖が、遅れて心臓を掴みに来た。
緋色が後ろから続けて入ってくる。
葵は地面にしゃがみ込み、祈るように棚の下を覗いた。
埃にまみれているはずなのに、不自然に綺麗な銀色が見える。
近くにあった箒で手前に寄せ、そっと手に取る。
夢で見た――あのカメラだ。
コンクリートに叩きつけられたせいで、あちこちが割れている。
葵は息を殺し、SDカードの入っているカバーを開けた。
指先が震える。
恐る恐る引き抜くと――
見た目に傷のないSDカードが、そこにあった。
(……あった)
葵は強く息を吸い込みそうになり、慌てて口をつぐむ。
無事に回収したSDカードをポケットに滑り込ませ、緋色と顔を見合わせる。
緋色が小さく頷いた。
もうここに用はない。
葵は窓から出ようと身を翻しかけ――そこで、緋色が何やらゴソゴソしているのに気づいた。
「なにやってんだ。早くずらかるぞ」
「いいからいいから」
葵は肩越しに覗き込み、ペンライトで緋色の手元を照らす。
緋色はメモ用紙に、迷いなく文字を書きつけていた。
――そして。
書き終えた紙を、これ見よがしに棚の上へ置く。
SDカードを抜いたカメラの残骸を、その横に転がして。
紙には、こう書かれていた。
お前たちが旧部室棟でやったことの証拠を手に入れた。
コピーは取らない。
返してほしければ、今夜1時にここへ来い。そして自首すると誓え。
自首して遺族の前で謝れ。
自首しなければ証拠は学校と警察に渡す。
ーー正義の忍者ゴエモン&ヤエ
葵は思わず緋色を見た。
満足げな顔だ。やり切った顔、と言ってもいい。
「……さすがにこれはない」
「えー。なんでー」
緋色が口を尖らせる。
「それに、今どきゴエモンが分かる高校生もいないだろ」
「まあまあ」
緋色は悪びれもせず肩をすくめた。
「もともと自首を促すのは計画の内だから、いいじゃない」
言いたいことは山ほどある。
だがこの手紙は、緋色と事前に話して“置く”前提だった。葵は言葉を飲み込む。
「……まあいいや」
葵はペンライトを消し、扉の方を指で示した。
「とりあえず帰るぞ」
「了解」
帰りは来た時と違い、扉の内鍵を開けて正面から外へ出た。
外気がひやりと頬を撫でる。
葵は周囲を見回した。
人影はない。巡回のライトもない。
(……よし)
緋色が出てくるのを待ち、葵はゆっくり扉を閉める。
錆びついた蝶番が鳴り、音がやけに大きく感じた。
来た時と同じように、校門を飛び越える。
「……成功、だな」
葵が小さく言うと、緋色が軽く頷いた。
「まだ半分」
緋色の声は真面目だった。
「本番はこれから」
その言葉に、葵の胃がきゅっと縮む。
ポケットの中のSDカードが、やけに重く感じられた。
――そうだ。まだ終わっていない。
二人は帽子を深く被り直し、闇の中を帰路へ急いだ。
家に着くなり、緋色はリュックを下ろす。
「葵」
振り返る赤い瞳が、真剣だった。
「壊れてないか、さっそく観てみよう」
葵は一瞬だけ躊躇した。
夢で見て知っている。
だが、夢と現実は別だ。――正直、実物を見るのが怖い。
「……ああ」
葵はポケットからSDカードを取り出し、掌に乗せた。
小さな黒い板。
なのに、この状況をひっくり返すだけの重さがある。
緋色が、昔真朱姉にもらった古いノートパソコンの電源を入れる。
画面が点き、ファンが回る音が静かな部屋に響いた。
葵は息を殺し、SDカードを差し込む。
読み込みのランプが、ちかちかと点滅した。
(……頼む。データ、生きててくれ)
画面にフォルダが開き、短い動画ファイルが表示された。
再生時間は、ほんの数分。
緋色がマウスに手を置いたまま、葵を見る。
「……見る?」
葵は喉を鳴らし、ゆっくり頷いた。
「……見る」
緋色がクリックする。
一瞬、画面が暗転した。
次の瞬間――スピーカーから雑音混じりの声が流れた。
『……ほら、カメラ回ってるぞ』
葵の全身が、氷水を浴びたみたいに冷たくなる。
夢の中で聞いた声。
でも、これは夢じゃない。
現実の音だ。
緋色が無言で音量を落とす。
指が、わずかに震えていた。
葵は視線を逸らしそうになって――奥歯を噛みしめた。
(逃げない)
逃げないと決めたのは、自分だ。
隣から緋色の手が伸び、葵の腕を握った。
動画が進むにつれ、その力は万力みたいに強くなる。
改めて見ても、酷い。
横目で緋色を見る。
真っ赤な瞳から涙が溢れ、頬を伝って落ちていく。
「……無理して見なくていいんだぞ」
葵が言うと、緋色は首を振った。
「……ううん。見る」
声は震えているのに、目だけは逸らさない。
見たくない。
それでも知っておかなければならない。
佳奈が、何を奪われたのか。
どれだけ踏みにじられたのか。
背後に、ひやりとした気配が落ちた。
振り向かなくても分かる。
斎藤佳奈が、そこに立っている。
画面が進むたび、背中越しに怒りが伝わってきた。
空気が重くなる。頭痛が強くなる。吐き気がこみ上げる。
それでも葵は、歯を食いしばって見続けた。
動画の終盤。
緋色は嗚咽を漏らし、堪えきれず泣き声がこぼれる。
葵の胸の奥も、ぎりぎりと削られていく。
やがて再生が終わった。
画面が止まり、部屋の中に機械のファンの音だけが残る。
「……許せないね」
緋色が、涙を拭いもせずに言った。
「……許せないな」
葵の拳が固く握られる。
爪が掌に食い込み、その痛みでかろうじて現実に踏みとどまった。
背後の気配が、さらに濃くなる。
葵の怒りなんて比べものにならない。
佳奈の怒りが背中越しに伝わってくる。
――当然だ。
あれだけのことをされたのだから。
冷や汗が滲む。頭痛と吐き気がせり上がる。
息を吸うたび、胸の奥がざらついた。
葵は目を閉じる。
背後の佳奈に向けて、声を絞り出した。
「……つらいよな」
喉が詰まりそうになるのを堪えて続ける。
「許せないよな……」
拳をさらに強く握る。
「必ず償わせる」
短く、はっきりと。
「俺たちに任せてください――」
葵は首を振るように、息を吐く。
背後の空気が、ほんのわずか揺れた。
佳奈は何も言わない。
それでも。
さっきまで刺々しかった気配の角が、ほんの少しだけ丸くなった気がした。
緋色が葵の肩に手を置く。
まとめて決着をつけてやる。




