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紅妖奇譚7

 目を覚ますと、周りはまだ暗かった。


 あれだけ泣いたのは生まれて初めてだ。瞼が腫れぼったく、瞬きをするたび少し痛む。


 それでも――こんなに眠れたのはいつ以来だろう。


 頭が妙にすっきりしている。寝起き特有の重さがない。


 隣を見ると、一緒に寝ていたはずの緋色がいない。


 代わりに、乾いた葵の服がきちんと畳まれて置かれていた。


(……いつの間に)


 いつまでも裸のままではいられない。葵は服を着込み、テントを出た。


 外は夜のままだった。


 焚き火は消えている。薪は黒くなり、灰がわずかに残るだけ。

 鬼火の光だけが水面を淡く照らしている。


 テントの外には、いつものシャツとジーンズ姿の緋色がいた。

 ズボンの裾をめくり、川の中に足を浸して、何事もなかったみたいにくつろいでいる。


「起きた?」


 緋色は葵の方を見ずに言った。


「……どれくらい寝てた?」


 昨夜、子供みたいに緋色の胸の中で泣きじゃくったことを思い出し、葵は少しだけ気恥ずかしくなる。


「七時間くらいかな」


 緋色は水面を見つめたまま答えた。


「私も寝てたし、時計がないから正確には分かんないけど」


 葵は周囲を見渡す。


 暗い。

 ずっと暗い。


 夜空には相変わらず満月が浮かんでいる。


「……おかしくないか」


「なにが」


「七時間寝たなら、少しは空が変わるだろ」


 緋色がようやく顔を上げた。

 赤い瞳が月光を受けて光っている。


 ――いや。瞳だけじゃない。目全体が充血して赤い。


「うん」


 緋色は短く頷く。


「やっぱりここ、時間の流れが違う」


 立ち上がり、濡れた足を草の上で軽く払った。


「……たぶんね」


 どこか確信めいた口調だった。


「どうやって戻るんだ?」


 葵が尋ねると、緋色は少し間を置いて言った。


「いろいろ試してみたけど……たぶん、来た時と同じやり方で戻れるんじゃない?」


「来た時と同じ……って」


 葵は思わず滝の上を見上げた。


「あそこから、また落ちるってこと!?」


「正確には」


 緋色は水面を指さす。


「水面に映った月の中に落ちる……かな」


 葵はもう一度滝を見上げた。高さは十五メートルはありそうだ。

 あそこから再び落ちるところを想像しただけで、足の裏がひやりとする。


「……そんな怖い顔しないでさ」


 緋色が肩をすくめる。


「せっかく異界にいるんだから、もう少しゆっくりしよう?」


 確かに、こんなふうに何も考えずにのんびりすることなんて滅多にない。

 葵は少し迷った。


「でもさ」


 葵は水面を見た。


「ここの時間がものすごく早かったらどうする? 戻った瞬間、浦島太郎みたいに急に歳とってたら笑えない」


「それは大丈夫」


 緋色は即答した。


「お爺ちゃんから聞いた。ここは逆。時間がものすごく“ゆっくり”進むんだって」


 緋色は鬼火の漂う水面を見つめながら続ける。


「だから今から向こうに戻っても、ほとんど時間は進んでないはず」


「なにそれ最高じゃん」


 葵は思わず口にした。


「テスト前とか、ずっと籠もれるじゃん」


 言ってから、葵は自分で自分に突っ込む。


(……いや、ダメか)


 条件が満月の夜限定なら、境目が開くのは月に一回程度。

 都合よく使える逃げ道ではない。


 それに――。


 逃げ場所にしてしまったら、戻れなくなる気がした。


「それより葵」


 緋色が、焚き火の残りに手をかざしながら言った。


「せっかく時間がいっぱいあるんだしさ。作戦会議しない?」


「作戦会議って?」


 葵が聞き返すと、緋色がにやりと笑う。


「もちろん」


 赤い瞳がいたずらっぽく細くなる。


「佳奈先輩を成仏させる作戦と――田淵たちを償わせる作戦」


 葵の心臓が、どくりと鳴った。


 “償わせる”。


 言葉は落ち着いているのに、中身は重い。


「……償わせるって」


 葵は思わず口をつぐんだ。


 田淵の顔が脳裏をよぎる。


 緋色は葵の表情の変化を見て、声を少しだけ柔らかくした。


「葵が嫌なら、やり方はいくらでも考える」


 葵は息を吐く。


「……関わりたくないに決まってる」


 自嘲気味に笑う。


「でも……」


 言いかけて、止めた。


 緋色が黙って待つ。


 葵は鬼火が漂う水面に視線を落とした。


「……でも、見ちゃったんだよ」


 佳奈の記憶。

 叫び。

 『たすけて』。


 見てしまった以上、知らなかったふりはできない。


「……分かった」


 葵は小さく頷いた。


「作戦会議、しよう」


 緋色が頷き、薪のそばに落ちていた小枝で地面に線を引き始めた。


「じゃあ整理ね」


 淡々と言う。


「目的は二つ」


 指を二本立てる。


「①佳奈先輩を成仏させる」

「②田淵と大垣たちに“償わせる”」


「……償わせる、か」


 葵が呟く。


 緋色は頷いた。


「“懲らしめる”だと子供っぽいからね」


 口元は笑っているのに、目は笑っていない。


「で、まず①」


 緋色は枝で丸を描く。


「佳奈先輩の未練を特定する」


 葵は思い出す。


 消える直前、佳奈の口が動いたこと。

 聞こえたのは、かすれた一音。


『……たい』


「……なにか『……たい』って言ってた。『したい』とか、その類だと思うんだけど……」


 葵がぽつりと言うと、緋色がすぐ反応した。


「『したい』……か」


 緋色は首を傾げる。


「単純に考えるなら――殺意?」


 赤い瞳がふっと冷える。


「それだけのことされたんだよ。『殺したい』でも不思議じゃない」


 葵の胸が締め付けられる。


「でも……仮に『殺したい』だとして」


 葵は言葉を選んだ。


「復讐を果たして、それだけで成仏できるのか?」


「分かんない」


 緋色は正直に言った。


「でも“恨み”を晴らしても成仏しない霊がいるのは事実」


 葵は水面の鬼火を見つめた。


 “殺したい”。


 確かに可能性はある。

 けれど――あの一音には、もっと切実な願いが混じっていた気もする。


 だが、今は確証がない。


「……じゃあ②は?」


 葵が切り替えると、緋色が枝を止めた。


 赤い瞳が、すっと葵に向く。


「②は、葵の方こそ何かアイデアない?」


 ――ある。


 というより、その策を一人でやろうとして、昨夜は田淵にボコボコにされた。


 旧部室棟。

 棚の下。

 カメラの残骸。


 もし、あの中に“無事なもの”が残っているなら――話は早い。


「……あるにはある」


 葵は短く言った。


 緋色が身を乗り出す。


「なに?」


 葵は一度だけ息を整え、昨夜のことを話し始めた。


 旧部室棟に忍び込んだこと。

 棚を探っていたこと。

 背後に気配がして振り向いたら、大垣と田淵がいたこと。

 殴られて、蹴られて、逃げてきたこと。


 そして――


 棚の下の埃まみれのゴミの中に、ひとつだけ不自然に汚れていない“何か”が見えたこと。


「……たぶん、ビデオカメラの残骸」


 葵が言うと、緋色が驚いた顔をした。


「……手に入れたの?」


 声が低くなる。


 葵は首を振った。


「無理だった。あの時は一瞬すぎて、掴めなかった」


 悔しさが滲む。


「でも、残骸は確かにあった。……たぶん、あいつらの証拠が残ってる」


 不安要素はいくつかある。

 ひとつは、データの破損。

 もうひとつは、あいつらに気づかれていないかどうか――。


「……葵」


 緋色が静かに言った。


「それが本当に残ってるなら――」


 言葉を切って、葵を見る。


「私たちの勝ちだよ」


 

 緋色と作戦を詰め、話がまとまったところで元の世界へ戻ることにした。

 だが帰還方法が地獄だった。

 十五メートルの滝を手足でよじ登り、息も絶え絶えのまま、もう一度滝壺へ飛び込む――それだけで体力がごっそり削られた。


 月に一度だけ開く異界への扉。だが、帰りの労力を思えば代償もなかなか大きい。


 せっかく乾かした服は結局また濡れてしまい、二人は足早に帰路についた。

 山道は暗く、冷えた空気が肌に刺さる。だが不思議と、葵の足取りは昨夜ほど重くなかった。


 家に着くなり、葵は浴室へ向かい、湯船にお湯を溜め始める。

 蛇口から流れる音がやけに現実的で、異界の静けさが遠い夢のように感じられた。


 ふと柱時計を見ると、時刻は深夜一時前だった。


 緋色と家を出たのは、確か零時前。

 なのに、ほとんど時間が進んでいない。


「……ほんとに、全然時間が進まないんだな」


 葵が呟くと、緋色は濡れた髪を拭きながら小さく頷いた。


 時間がゆっくり進む――緋色の言葉は本当だった。


 湯船にお湯が溜まったところで、ひとまず緋色に先に入ってもらう。

 脱衣所の向こうから水音が聞こえ、ようやく現実に戻ってきたのだと実感が湧いた。


 葵は台所の椅子に腰を下ろし、濡れた髪をタオルで拭きながら、頭の中でこの後の流れを組み立てる。


 やることはシンプルだ。


 ――大垣と田淵に気づかれる前に、もう一度旧部室棟に侵入する。

 ――棚の下に残っているはずの“カメラの残骸”を回収する。


 それができれば、状況はひっくり返せる。


 ただし。


 昨夜すでに侵入がバレかけている。

 あいつらが警戒していたら、残骸は回収されているかもしれない。

 最悪、別の場所に移されている。


(……時間がない)


 柱時計の針が、ゆっくりと進む。

 異界での夜が夢みたいに遠ざかる一方、現実の冷たさがじわじわ戻ってくる。


 昨日は結局、何も掴めなかった。


 だからこそ、次は必ず回収しないといけない。


 浴室の方から、緋色の声がする。


「葵ー。入っていいよ」


「……ああ」


葵は立ち上がり、脱衣所へ向かった。

 湯気が廊下に流れてきて、冷えた空気を少しだけ溶かしていく。


(風呂で頭を落ち着かせて、すぐ動く)


 そう決めた。


 葵が風呂から上がると、思わず唖然とした。


 脱衣所の前に――緋色が立っていた。

 それも、いつも緋色が好きなレトロゲームの“女忍者”の格好で。


 紫の装束。腰の布。手甲。

 やけに様になっているのが腹立たしい。


「……は?」


 葵の口から、間の抜けた声が漏れた。


「葵。これで侵入作戦はばっちりだよ」


 緋色が自信満々に言う。


「……どこでそんなの用意した」


「前、白雪に作ってもらってたんだ」


 緋色はさらっと言った。


 葵が言葉を失っている間に、緋色は畳んだ布を差し出してくる。


「葵の衣装もあるよ」


 青い忍者装束。どこか義賊っぽい意匠が入っている。


「この忍者義賊のコスチュームも頑張って作ってもらったんだ」


 満面の笑顔で、葵の胸に押し付けた。


「……いや、待て」


 葵は受け取りながら眉をひそめる。


「これから学校に侵入するのに、この格好は目立つだろ」


 葵は腕を交差して、ばってんを作った。


「……却下で」


「えー。侵入作戦と言ったらこの格好でしょ」


「こんな格好で夜道を歩いてたら、それだけで通報されるわ」


「とにかく! 普通の服装で行くぞ!」


 葵が押し切ると、緋色は未練がましく口を尖らせた。


「……つまんない」


「目立たないのが目的だろ」


 緋色はしぶしぶと装束を畳み、いつものジーンズとシャツに着替える。


 それでも、どこか納得していない顔をしていた。


「……じゃあ、どうするの」


 緋色が不満そうに言う。


「普通の服で学校に入ったら、逆に怪しくない?」


「怪しくないようにするんだよ」


 葵は息を吐き、頭を掻いた。


「そもそも、入る時点で怪しい行動なんだ。だから“見つからない”のが最優先」


 緋色は腕を組む。


「じゃあ、白髪はどうするの」


 葵は黙って、洗面台の鏡を見た。

 改めて見るまでもなく若者の白髪は、やっぱり目立つ。


「……帽子」


 葵が言うと、緋色が目を輝かせる。


「ほっかむりは――」


「却下」


「ひどい」


 緋色が頬を膨らませる。


 先が思いやられるがとにかく出発だ。


 時刻は深夜2時前になっていた。

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