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紅妖奇譚6

 葵は周囲を見渡す。


 鬼火が、水面をゆっくり漂っている。


 炎なのに、熱くない。


 触れても燃え広がらず、ただ静かに揺れている。


「……異界?」


 葵は眉をひそめる。


「つまり……ここは現実じゃないってことか?」


「うん」


 緋色は頷いた。


「たぶん」


 そう言いながら、水面に浮かぶ火を指でそっと触れる。


 青い炎がふわりと揺れた。


 緋色の指先が燃えているように見える。


 だが、熱さは感じない。


 皮膚も焼けない。


 指を水の中に沈めると、炎はそのまま水中へゆっくり沈んでいった。


「お爺ちゃんが言ってた」


 緋色は空を見上げる。


「この山には、昔から“境目”があるって」


「境目?」


「うん」


 緋色は水面を指さす。


「人の世界と、そうじゃない世界の境目」


 葵は水面を見つめる。


 鬼火が静かに漂っている。


 揺れる炎が、水面に映る満月を歪ませていた。


 異界というものは確かに存在する。


 有名な話だと、昔話の「おむすびころりん」。


 あれはネズミ浄土と呼ばれる異界の一つだと、爺さんが話していたことがある。


 つまり――


 ここも同じなのだろう。


 現実世界ではない。


 境目を通って、偶然入り込んだ異界。


「そして鬼火の滝は」


 緋色が続ける。


「この山に住む妖怪たちの妖力が地面に染み込んで、それが湧き水に乗って滝に流れ込むんだって」


 水面に浮かぶ鬼火を見つめる。


 いろんな妖怪たちの妖力だから様々な色に溢れている。

 

「その妖力の残りが鬼火」


 少し考えてから言う。


「しかも熱くないから……陰火かな」


 葵は黙って周囲を見渡した。


 静かすぎる。


 水の音も、虫の声もない。


 ただ鬼火だけが漂っている。


「この異界への入り方は」


 緋色は肩をすくめた。


「自分で調べろって言われて、結局わからず仕舞いだったけど」


 水面に流れる鬼火を手ですくう。


 水に溶けた色とりどりの炎が、指の隙間を伝い、再び水面へ戻っていく。


「こんな形で入れるとは思わなかった」


 あまりにも急な出来事で、葵の頭はまだ追いついていない。


 隣を見る。


 緋色も同じような顔をしていた。


 目を丸くして、辺りを見回している。


 鬼火の炎に照らされた赤い瞳が、やけに綺麗に見えた。


 ふと。


 緋色と目が合う。


 数秒の沈黙。


 そして。


「……ぷっ」


 どちらからともなく、笑いが漏れた。


「……はは」


「……あはは」


 二人して笑い出す。


 さっきまで殴り合いの喧嘩をしていたというのに。


 あまりにも現実離れした光景のせいか、緊張の糸が一気に切れた。


 鬼火が漂う水面の上で、兄妹はしばらく笑い続けた。


 やがて。


 笑いが少しずつ収まる。


 静かな空気が戻る。


 鬼火だけが、ゆらゆらと揺れている。


 その中で。


 葵はふと呟いた。


「……さっき」


 声が少し低い。


「殴って悪かった」


 緋色は少し驚いた顔をした。


 だがすぐに、ふっと笑う。


「……うん」


 軽く頷く。


「私も殴ったし」


 葵は苦笑する。


「……あれは殴るってレベルじゃないだろ」


「女の子の顔を殴るのが悪い」


「それは……」


 言葉が詰まる。


 しばらく沈黙が続いた。


 鬼火がゆらゆらと漂う。


 その光が、水面で揺れる。


 やがて。


 葵は小さく息を吐いた。


「……でも」


 視線を落とす。


「さっき言ったことは」


 拳を握る。


「半分くらいは……本音だ」


 緋色は黙って聞いている。


 葵は水面を見つめながら続けた。


「俺さ」


 少し笑う。


 自嘲するような笑いだった。


「ずっと怖かったんだ」


 鬼火がゆらりと揺れる。


「関わったら」


 ぽつりと言う。


「また、あの時みたいになるんじゃないかって」


 佳奈の姿が脳裏をよぎる。


 夢の中の光景。


 あの部屋。


 あの声。


 それ以上に、毎晩のように夢に見る中学の頃の体験。


 二度と、あの経験はしたくない。


 葵はゆっくり息を吐いた。


「……俺」


 言葉が少し震える。


「本当は」


 拳を握りしめる。


「助けてやりたいんだよ」


 声が震える。


「……だけど、俺には力がない。どうすればいいのかもわからない」


 優柔不断な自分が、ひどく情けなかった。


「それに……田淵とも、もう関わりたくない」


 あいつと関わると碌なことがない。


 中学生の頃から刻まれた恐怖とトラウマが、葵の心を締め付ける。


「……大丈夫」


 緋色がそっと抱きしめてくる。


 冷たいはずの服越しの体温が、不思議と温かく感じた。


「前も言ったでしょ?」


 耳元で優しく言う。


「私も手伝うって」


 そして、少し体を離す。


 緋色はいたずらっぽく笑った。


「……私が喧嘩で負けると思う?」


 さっきの喧嘩を思い出す。


 今日は田淵に散々殴られた。


 だが、その威力は――


 緋色の拳や投げ技に比べれば、正直お粗末なものだった。


「……思わねえな」


 葵は苦笑する。


 二人はまた、顔を見合わせて笑った。


 鬼火がゆらゆらと漂う。


 その光が、水面に映る満月を揺らしていた。


 しばらくして体も冷えてきたため、葵と緋色は滝壺から這い上がる。


 濡れた服が肌に張り付き、夜気が体温を奪っていく。


 改めて周囲を見渡す。


 平地は、滝壺を中心に半径三十メートルほどだろうか。


 それ以上先は、木々が壁のように密集している。


 まるで、この場所を閉じ込めるように。


 緋色が試しに木の隙間を突破する。


 数秒後。


「葵ー」


 背後から声がした。


 振り返ると、緋色が滝壺の反対側の森から出てきている。


「……なるほど」


 葵は頷いた。


「この異界、広くないな」


「うん」


 緋色も辺りを見回す。


「たぶん、この滝の周囲だけ」


 どうやらこの異界は、滝壺の周囲三十メートルほどしか範囲がないらしい。


 まるで、小さな箱庭のようだった。


 そのときだった。


「……あれ?」


 緋色が声を上げる。


 葵も視線を向ける。


 滝壺の端。


 鬼火の光に照らされた場所に、妙なものが置かれていた。


「……キャンプ道具?」


 そこには。


 折り畳み式の椅子。


 テント。


 アルミのケトル。


 さらに、テントの中にはマットや布団一式が置かれている。


 異界には、あまりにも場違いだ。


 葵は眉をひそめる。


「……誰か来たのか?」


 緋色もしゃがみ込んで調べる。


「うーん……」


 落ちているインスタントラーメンの袋を拾い上げる。


 賞味期限を見る。


「……二十年前」


 葵も目を細める。


「だいぶ昔のものだね」


 そのとき。


「っくちゅん!」


 緋色が盛大なくしゃみをした。


 さっきまでえげつない格闘術を披露していた人物と同一とは思えない、可愛らしいくしゃみだった。


 葵は思わず笑う。


「……お前、風邪ひくぞ」


「誰のせいだと思ってるの」


 緋色が不満そうに言う。


 濡れた服が肌に張り付き、夜気が体温を奪っていく。


 このままだと本当に体を壊しかねない。


「火、起こすか」


 葵はキャンプ道具を漁り始めた。


 アルミの鍋。

 バーベキューコンロ。


 だが――


「マッチもライターもない」


「え」


 緋色もテントの中を探る。

 出てくるのは古びた食器と、空の袋ばかりだった。


「……ほんとだ」


 緋色が肩を落とす。


「火起こし道具がない」


 葵は溜息を吐いた。


「そうだ! 火なら滝のところにいっぱいあるだろ。あれ使おうぜ」


 名案とばかりに言ったが、緋色はやれやれと肩をすくめる。


「あの火、熱くなかったでしょ?」


「……まあ」


「あれは陰火。熱がない、見せかけだけの炎だよ」


「じゃあどうすんだよ」


「とりあえず薪が置いてあるから、火が付きやすいように組んで」


「はいはい」


 葵が薪を組み終えると、緋色がふいに濡れた靴と靴下を脱ぎ、薪の中央に足の小指を向けた。


 短く、息を吐く。


「――狐火」


 小指の先から炎が迸り、一瞬で薪に火が付いた。


 ぱちぱちと乾いた音が鳴り、焚き火が橙に燃え始める。


「すげえ!!」


 葵は思わず身を乗り出した。


 何気に緋色が妖術の類を使うのは初めて見た。


「すごいけど……なんでそんな微妙なとこから火が出んの?」


 緋色はため息まじりに言う。


「霊力が強すぎて火力調整できないのよ……」


 焚き火に手をかざしながら、さらっと続ける。


「手から出したら、ここら一帯が爆心地になるけど――それでもいい?」


「よくねえよ!!」


 葵の即答に、緋色は小さく笑った。


 兄妹といえど、さすがに濡れた服を脱ぐところを見せ合うのは抵抗がある。

 二人は無言で頷き合い、別々にテントへ入った。


 葵は服を脱ぎ、適当に丸めて足元へ置く。暗いテントの中で手探りで毛布を引っ張った、そのとき――


 ぱさり。


 枕の隙間から、何かが落ちた。


 薄い袋。手触りで分かる。


(……コンドーム?)


 心臓が跳ねた。


 意味が分からない。二十年前のキャンプ道具だというのに、どうしてこんなものが――。


 咄嗟に葵はそれを掴み、慌ててテントの隅へ押し込む。

 見なかったことにした。


 外へ出ると、緋色もすでに毛布を肩にかけて焚き火の前に座っていた。

 赤い瞳が火の光を映して、さっきまでより少しだけ柔らかい顔をしている。


 濡れた服はテントにあったパラコードで木に結び、即席の物干しを作って干した。

 焚き火の熱がじわじわと広がり、冷え切っていた指先に感覚が戻ってくる。


 しばらく火に当たっていると、身体の芯まで温まってきた。

 同時に、どうしようもない眠気が襲ってくる。


「……眠い」


 緋色が呟くと、葵も小さく頷いた。


「俺も」


 毛布は一枚しかない。布団も一組だけ。

 いつも布団は並べて寝ているため、特に抵抗もなく二人は同じ布団に潜り込んだ。

 

 背中合わせで寝ているため、背中にお互いの体温を感じる。


 二十年前の毛布と布団。

 なのに不思議と黴臭さはない。むしろ、どこか懐かしい匂いがした。


 焚き火のぱちぱちという音が聞こえる。


「……緋色」


 眠っているなら、それでいい。

 いっそこのまま眠っていてほしい――そんな勝手な願いを抱えたまま、葵は声をかけた。


「……どうしたの?」


 願いは叶わない。

 小さな声で緋色が返す。


「……起きてたか」


 今日は緋色と本気で喧嘩した。

 少し心は晴れたが、心の底にはまだしこりが残っている。


 二年前の忌まわしい記憶。

 毎日見る悪夢。


 今まで話す気にもなれなかった。

 けれど――打ち明けるなら、たぶん今日しかない。


「……緋色。……俺」


 言葉が詰まる。


 意を決して緋色の方を向いた。


 赤い瞳と目が合う。

 焚き火の残り香と、二十年前の毛布の匂いが混じって、どこか懐かしい。


「待って」


 緋色が人差し指を葵の唇に当てた。


「……辛いなら、無理して言わなくていいよ?」


 優しい声音だった。

 いつものふざけた調子ではない。


 葵の喉がきゅっと締まる。


「ありがとう」


 かすれる声で言って、葵は首を横に振った。


「でも……話させてくれ」


 緋色は指を離し、黙って頷いた。

 暗いテントの中で、赤い瞳だけが静かに見つめてくる。


 葵は天井を見上げる。

 言葉を探すように息を吸って、吐いた。


「……二年前のことだ」


 声が震える。


「田淵に……」


 名前を口にした瞬間、胃の奥がひっくり返るような気持ち悪さが込み上げた。


 それでも続ける。


「俺、あいつに……」


 唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。


「……いじめられてたんだ」


 緋色の表情が、わずかに変わる。


 葵は視線を逸らしたまま、言葉を絞り出す。


「たくさん殴られた……。熱いアスファルトに、顔を押しつけられて……」


 手が震える。

 指先が冷たい。

 冷たい指を緋色の温かい手が優しく包み込む。


「……『生まれてきてごめんなさい』って、誤ったんだ」


 その一言を吐き出した瞬間、胸の奥が裂けそうになった。


 葵は笑おうとした。

 けれど、笑えなかった。


「……あの瞬間」


 声が小さくなる。


「俺は、死んだんだと思った」


 緋色が息を呑む気配がした。


 葵は続ける。


「それからずっと……生きてる気がしない」


 唇が震える。


「毎日夢で見る。起きても、まだあの熱さが残ってるみたいで……」


 喉が詰まって、言葉が途切れる。

 情けないくらい息が荒くなる。


「……俺さ」


 拳を握る。


「強くなりたいとか、立ち向かいたいとか」


 乾いた笑いが混ざる。


「そんなのじゃなくて」


 息を吐く。


「ただ――もう、あの場所に戻りたくないんだ」


 言った瞬間、堰が切れた。


「怖いんだよ」


 声がかすれる。


「また、同じこと言わされるんじゃないかって」


 涙が出そうで、必死に堪える。


「……俺、情けないよな」


 自嘲するように言うと、緋色の手が伸びてきて葵の頭を抱きしめる。


 そして、そのまま引き寄せるように抱きしめた。


「情けなくない」


 耳元で緋色が言う。


 その声も涙声で、震えていた。


「……そんなの、当たり前だよ」


 葵は抵抗できなかった。

 胸に顔を押しつけたまま、呼吸がうまくできない。


 緋色の声が続く。


「……その時、それだけ殴られて」


 息を吸う。


「死んじゃうかもしれないって思ったんでしょ?」


 抱きしめる力が強くなる。


「だったら、無理やり言わされただけだよ。自分の意志で言ったわけじゃない」


「だが――」


 葵が言いかけた瞬間、緋色が遮った。


「――だけど」


 震える声で言う。


「葵はきっと、自分が許せないんでしょ」


 言葉が、静かに落ちる。


「二年も悩み続けるほど」


 葵の喉が鳴る。


 緋色は少しだけ体を離し、葵の顔を覗き込んだ。


 赤い瞳が、まっすぐ葵を映している。


「ねえ、葵」


 優しく呼ぶ。


「“生まれてきてごめんなさい”って言葉はね」


 一瞬、唇を噛む。


「……葵の言葉じゃない」


 葵の心臓が、どくんと鳴った。


「田淵の言葉」


 緋色が言う。


「田淵が、葵の口を使って言わせただけ」


 葵は息を呑む。


 分かっている。

 頭では分かっている。


 でも、心が追いつかない。


「葵」


 緋色の指が、そっと葵の頬の絆創膏に触れる。


「痛かったよね」


 その一言が、決定打だった。


 葵の目の奥が熱くなる。


 涙が、勝手に溢れそうになる。


「……っ」


 堪えようとした。


 男のくせに、泣くなと。


 ずっとそうやってきた。


 でも。


 緋色の赤い瞳が、涙で揺れているのを見た瞬間。


 葵の中で最後の支えが折れた。


「……っ、う……」


 声にならない声が漏れる。


 涙が、頬を伝った。


 止まらない。


 情けない。


 なのに止まらない。


「……ごめん……」


 絞り出すように言うと、緋色は首を振った。


「謝らなくていい」


 緋色の声も泣いていた。


「葵が謝ることじゃない」


 そう言って、もう一度強く抱きしめる。


 緋色の胸が葵の頬に当たる。柔らかい。温かい。

 抱きしめられると、息が少しだけ楽になった。


「……ずっと、ひとりで抱えてたんだね」


 葵は嗚咽を噛み殺しながら頷く。


 泣いていいのか分からない。


 けれど、緋色の腕の中は――泣いてもいい場所のような気がした。


 これで、すべてが解決して前向きになれるわけではない。

 明日になればまた怖くなるかもしれない。

 田淵の名前を聞くだけで、胃が冷たくなるかもしれない。


 それでも。


 今まで止まっていた葵の時間が、ほんの少しだけ動き出した気がした。


 兄として情けない、と頭のどこかで思いながら。

 葵は緋色の胸の中で泣き続けた。


 やがて涙が枯れる頃には、まぶたが重くなり、呼吸が落ち着いていく。


 緋色の心音が、遠い波の音みたいに規則正しく響いていた。


「……情けないな……。俺は……」


 緋色が頭を振る。


「……ううん。……学校に行きたくないって自分の部屋に閉じこもってた扉を開けただけだよ」


 不登校は緋色のほうだが……。


 いや、一緒だろう。葵も只々、惰性で登校していただけなのだから。


 緋色の心音が聞こえる。その音に抱かれるようにして、葵は眠りに落ちた。


 不思議とその夜は、昔の悪夢も、佳奈の夢も見なかった。

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