紅妖奇譚5
自宅に帰り、食事と入浴を済ませて床に就く。
夕食の際、緋色は葵の顔に貼られた絆創膏を見て、明らかに怪訝そうな表情を浮かべた。
だが、何も聞かなかった。
ただ一度だけ、赤い瞳でじっと葵を見つめ、それから何事もなかったかのように食事を続けただけだった。
それがかえってありがたかった。
今は、誰にも説明する気力がない。
布団に体を沈めると、今日一日の疲労がどっと押し寄せてくる。
殴られた箇所がじんじんと痛み、体のあちこちが重い。
(……最悪な一日だった)
目を閉じる。
すると、すぐに意識が沈んでいった。
気づくと、葵はまた暗闇の中に立っていた。
冷たい空気。
湿った臭い。
(……まただ)
嫌な予感がする。
視界が徐々に明るくなり、景色が形を持ち始める。
そこは、見覚えのある場所だった。
旧部室棟の物置。
積み上げられたマット。
錆びた鉄骨。
散乱した古い部活用具。
そして――
割れた鏡を見ると自身の姿が映し出される。柱に縛り付けられている少女。
斎藤佳奈だった。
両手を後ろで縛られ、口には猿轡。
制服は乱れ、目には涙が浮かんでいる。
(……やめろ)
葵は思わず呟く。
だが、声は出ない。
体も動かない。
まただ。
これは夢ではない。
佳奈の記憶だ。
足音が聞こえる。
物置の扉が開き、三人の男が入ってくる。
一人は――
大垣。
そしてもう一人は。
田淵涼真。
葵の体が強張る。
田淵は、どこか落ち着かない様子で佳奈を見ていた。
顔には、興奮と緊張が入り混じったような表情が浮かんでいる。
「ほら田淵。今日くらいはお前も参加しろよ」
大垣が笑いながら言う。
「いつも見てるだけじゃつまんねえだろ?」
「……いや、俺は別に」
田淵は視線を逸らした。
だが大垣は肩を叩く。
「何言ってんだよ。お前まだ童貞だろ?」
軽い口調だった。
「ちょうどいいじゃん。練習台がいるんだから」
佳奈の体が震える。
猿轡越しに、かすれた声が漏れる。
「ん……んっ……!」
必死に首を振っている。
やめてほしい。
助けてほしい。
その意思が痛いほど伝わってくる。
だが誰も気にしない。
大垣は楽しそうに笑う。
「ほら見ろよ。薬のおかげでちゃんと濡れてる」
その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥で何かが軋んだ。
(やめろ……)
田淵はしばらく黙っていた。
だがやがて――
ゆっくりと佳奈に近づいた。
佳奈の目から涙がこぼれる。
その瞬間。
葵の胸に、佳奈の感情が流れ込んできた。
恐怖。
絶望。
嫌悪。
そして――
助けて。
(やめろ……)
葵は叫ぶ。
(やめろおおおおおお!!)
だが声は届かない。
田淵の手が佳奈の制服に伸びる。
その瞬間。
葵の中で何かが弾けた。
「――っ!!」
葵は飛び起きた。
全身が汗で濡れている。
呼吸が荒い。
暗い天井を見上げながら、葵はしばらく動けなかった。
胸の奥が焼けるように熱い。
隣で寝ていた緋色も、驚いたようにこちらを見ている。
そして――
部屋の隅には、黒い靄をまとった佳奈の姿が立っていた。
恨めしそうな目で、じっと葵を見つめている。
その瞬間。
葵の中に、どす黒い感情が噴き出した。
「……いい加減にしてくれ!」
思わず叫ぶ。
「毎回毎回、俺に夢を見せて……なんのつもりだ!?」
拳を握りしめる。
「俺に何かできるとでも思ってるのか!?」
声が震える。
「……できるわけねえだろ!!」
怒りなのか。
恐怖なのか。
それとも悔しさなのか。
自分でも分からない感情が胸の奥で暴れている。
「俺はただの人間だ! 霊が見えるってだけで、なんの取り柄もない!」
葵は佳奈を睨みつけた。
「お前がされたことだって……全部見た……!」
喉が詰まる。
思い出すだけで、胃の奥がひっくり返るような吐き気が込み上げてくる。
「でも俺にどうしろって言うんだよ……!」
声がかすれた。
「……俺に、何ができるんだよ……」
部屋が静まり返る。
佳奈は何も言わない。
ただ、じっと葵を見つめていた。
その瞳の奥には――
怒りでも、恨みでもなく。
ただ、底の見えない悲しみだけがあった。
――一瞬。
佳奈が、ほんのわずかに悲しそうな顔を浮かべた。
次の瞬間、その姿は霧のように揺らぎ、ふっと消える。
そのときだった。
佳奈の口が、わずかに動いた。
何か言葉を紡いだように見えた。
だが、ほとんど聞き取れない。
『……たい』
かすれるような、風に溶ける声。
それだけを残して、佳奈の気配は完全に消えた。
部屋の中には、再び静寂が戻る。
葵はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
今のは、何だったのか。
何を言おうとしていたのか。
――そのときだった。
「……葵」
静かな声がする。
振り向くと、緋色が布団の上に座っていた。
赤い瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
「……少し散歩しない?」
思いがけない言葉だった。
「……は?」
葵は眉をひそめる。
「こんな時間に?」
時刻は日付が変わる前だ。
「うん」
緋色はあっさり頷いた。
「今、家の中にいるとさ」
窓の外を見る。
「葵、たぶんずっと同じこと考え続けるでしょ」
図星だった。
葵は何も言えない。
緋色は立ち上がる。
「外の空気、ちょっと吸ったほうがいいよ」
そして玄関の方へ歩きながら、振り返る。
「それに――」
少しだけ笑った。
「さっきの、気になるでしょ」
「……何が」
「佳奈先輩」
葵の胸が、わずかにざわつく。
緋色は言う。
「ちゃんと聞いてあげないと」
静かな声だった。
「先輩、かわいそうだよ」
葵はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……わかった」
そう言って布団から立ち上がった。
どうせ、このまま寝たところで眠れる気がしない。
夜の鬼火山は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
不断だとうるさいくらいに聞こえる虫の声が、深夜だと不気味なくらいに静まりかえっている。
木々の隙間から差し込む月明かりが、細い山道をぼんやりと照らしていた。
葵と緋色は並んで歩いている。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。
沈黙を破ったのは緋色だった。
「……ねえ、葵」
「なに」
「さっきのことだけど」
葵の足が、わずかに止まりかける。
「佳奈先輩、また記憶を見せてきたんでしょ」
「……」
答えなくても、緋色には分かっているらしい。
「どんな夢だったの?」
葵はしばらく黙っていた。
だが、どうせ隠しても意味がない。
「……別に、同じような夢だよ」
吐き出すように言う。
「田淵が……」
言葉が続かない。
喉の奥が、嫌な感覚で詰まる。
「……田淵?」
緋色の足が止まる。
月明かりの下で、赤い瞳がゆっくり細くなった。
「……いや、なんでもない」
「……そう」
それだけ言って、緋色はまた歩き出した。
しばらく沈黙が続く。
やがて、緋色がぽつりと言った。
「葵はさ。佳奈先輩を助けようとは思わないの?」
その一言に、葵の言葉が詰まる。
「……俺には無理だよ」
ぽつりと呟く。
俺には、緋色のように霊を祓う力なんてない。
……俺には、なにもない。
そう思った瞬間、胸の奥に沈んでいた言葉が、堰を切ったように溢れ出した。
「俺には関係ない」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「だいたい迷惑なんだよ。関係ないのに夢なんか見せてきて」
言いながら、胸の奥が痛む。
それでも止まらない。
「どうして俺なんだよ」
夜道を睨む。
「俺がなにかできるとでも?」
ふと、思いついたように言う。
「……そうだ」
葵は緋色を見た。
「緋色が除霊すればいいじゃないか」
緋色の表情が固まる。
「前に柏手した時、悪霊が消し飛んだだろ」
自嘲気味に笑う。
「それと同じことすれば、成仏するんじゃないのか?」
思ってもいない言葉が、次々と口からこぼれる。
自分でも分かっていた。
これは本心じゃない。
ただ――
怖いだけだ。
あの地獄に、これ以上関わるのが。
そのときだった。
「……葵」
緋色の声が、低く響いた。
足が止まる。
葵が振り向いた瞬間。
頬に衝撃が走った。
視界がぐるりと回転する。
気づいた時には、地面に仰向けに倒れていた。
殴られたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「今の、本気で言ってるの?」
「……」
「迷惑?」
緋色が一歩、倒れた葵に近づく。
「佳奈先輩が?」
葵は視線を逸らす。
「……だってそうだろ」
吐き捨てるように言う。
「俺には関係ない」
その瞬間。
「ふざけないで!!」
緋色の怒鳴り声が、夜の山に響いた。
葵は思わず目を見開く。
緋色がこんな声を出すのは、ほとんど見たことがない。
「何それ!?」
赤い瞳が怒りで燃えている。
「葵、全部見たんでしょ!?」
「……」
「佳奈先輩がどんな目にあったか!」
一歩、葵に詰め寄る。
「それで関係ないって言えるの!?」
葵も思わず怒鳴り返す。
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
拳を握る。
「俺はお前みたいに強くない!」
「……」
「お前みたいに特別な霊力だってない!」
「……」
「戦えるわけでもない!」
「……」
「だから無理なんだよ!」
その瞬間だった。
緋色が葵の胸ぐらを掴んだ。
華奢な腕からは想像できない力で、倒れていた葵の体が持ち上げられる。
「無理?」
声が震えている。
「葵」
顔を近づける。
「佳奈先輩、なんて言った?」
「……」
「助けてって言ったんでしょ?」
葵は何も言えない。
緋色の手が震えている。
「それを」
緋色の声が、かすれた。
「迷惑って言うの?」
次の瞬間。
緋色は葵を思いきり投げ飛ばした。
葵の体は宙を舞い、腰の深さほどの川へ背中から叩きつけられる。
衝撃と痛みで思い切り息を吸おうとした瞬間、鼻から水が入り、盛大にむせた。
深夜の川の水は、想像以上に冷たい。
しかし、葵の頭は冷めるどころか逆に血が上った。
「どうしろって言うんだよ!!」
叫ぶ。
そのまま水をかき分けて立ち上がり――
葵は、生まれて初めて緋色を殴った。
鈍い音が夜に響く。
緋色の体がわずかによろめく。
二人の間に、沈黙が落ちた。
川の流れる音だけが聞こえる。
……生まれて初めて人を殴った。
それも、自分の妹を。
恨んでいる田淵ではなく。
実の妹を。
殴った右手が、ずきずきと痛む。
罪悪感と後悔が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。
そのときだった。
「――――っ!!」
鋭く、そして重い衝撃が腹部を突き抜けた。
視界が弾ける。
葵の体は再び宙を舞い、川の中へ叩き込まれた。
今までいじめで散々殴られてきた。
だが、それとは比べ物にならない衝撃だった。
(……なんだよ、今の)
川の中で咳き込みながら思う。
いったい、緋色のあ体のどこからこんな力が出るのだろうか。
美しいと思えるくらいの見事な後ろ回し蹴りだった。
「……女の子の顔を殴るなんて最低」
頬をさすりながら、緋色が近づいてくる。
「……兄貴を蹴り飛ばすのはいいのかよ」
葵は吐き捨てる。
再び川から這い上がり、緋色に掴みかかろうとする。
だが。
あっさりと躱された。
まるで、大人が子供を相手にするように。
胸の奥に溜まっていた感情が噴き出した。
「ふざけんなよ……!」
怒りとも悔しさともつかない声だった。
「俺たち、捨て子だっただろ!」
緋色の動きが止まる。
「拾ってくれた爺さんには恩しかない!」
拳を握る。
「だから俺は学校行ってるんだ!」
声が荒くなる。
「ちゃんと勉強して、まともに働いて!」
「それが一番の恩返しだろ!!」
息が荒くなる。
「なのにお前は……!」
緋色を睨む。
「簡単に学校行かなくなって!」
「毎日妖怪と遊んで!」
「好き勝手して!」
胸の奥の感情が、止まらない。
「なんで俺だけ……!」
声がかすれる。
「なんで俺だけ、我慢して生きてんだよ……!」
しばらく沈黙が続いた。
川の流れる音だけが聞こえる。
やがて。
緋色が静かに口を開いた。
「……学校に行ってほしいって」
赤い瞳が、まっすぐ葵を見る。
「お爺ちゃんが言ったの?」
葵の言葉が止まる。
「……え」
緋色は続ける。
「葵」
一歩、近づく。
「お爺ちゃん、本当にそんなこと言った?」
葵は答えられない。
緋色の声は、怒っていなかった。
むしろ、静かだった。
「葵はさ」
ぽつりと言う。
「“自分で”そう思ってるだけじゃないの?」
葵の胸が、どくりと鳴る。
緋色の言葉が、葵の胸の奥に深く突き刺さった。
「うるさい!お前に何がわかる!!」
怒りのまま、葵は緋色に体当たりした。
だが勢い余って、二人とも川の中に倒れ込む。
足はつく。
だが川の流れは思った以上に速かった。
水に足を取られ、二人はもみ合いながら流されていく。
葵は拳を振り上げた。
だが――
簡単にいなされる。
その直後。
お返しとばかりに拳が飛んできた。
一発。
二発。
三発。
気づけば五発は殴られている。
(……なんなんだよ!)
頭の中で怒りが爆発する。
今まで必死に耐えてきた。
いじめられても、殴られても、我慢してきた。
それが正しいと思っていた。
それしか道がないと思っていた。
(それが全部無駄だったって言うのか……?)
そんなはずはない。
それを認めてしまったら――
今までの自分を全部否定することになる。
どうせ何倍にもなって返ってくる。
それでも。
感情のまま、拳を振り上げてしまう。
そのとき。
「……葵はさ」
緋色の声が聞こえた。
拳が止まる。
「もっと相談するべきだったんだよ」
川の水が二人の足を流していく。
「お爺ちゃんにも」
赤い瞳が、真っ直ぐ葵を見る。
「私にも」
葵は何も言えない。
「……困ったことがあったらさ」
緋色が静かに言った。
「相談に乗るのが家族なんじゃないの?」
その瞬間。
葵の胸の奥で、何かが軋んだ。
そのときだった。
足元の川底が、急に消えた。
「――っ!?」
葵の体が一気に沈む。
流れが急激に速くなる。
川が、滝へ落ちている。
「緋色!!」
葵は咄嗟に緋色の腕を掴んだ。
だが流れが強すぎる。
二人の体はそのまま引きずられるように――
鬼火の滝の縁へ流されていく。
そのとき。
雲の切れ間から満月が顔を出した。
月光が滝壺を照らす。
水面に、もう一つの月が浮かぶ。
揺れる水面に映る、満月。
高所から落ちていく、不気味な浮遊感。
葵は歯を食いしばる。
(……死ぬ)
そう直感した。
考えるよりも先に、体が動く。
葵は緋色の頭を胸に抱き寄せた。
せめて、こいつだけでも。
その瞬間。
二人の体は滝壺へ落ちた。
轟音とともに、冷たい水が全身を包み込む。
肺から空気が一気に押し出される。
水の衝撃で視界が白く弾けた。
体が深く沈んでいく。
流れに巻き込まれ、上下の感覚が分からなくなる。
……くそ……)
水の中で目を開ける。
暗い。
上下の感覚もない。
だが葵は、緋色を抱きしめたまま必死に水面を目指して泳ぐ。
肺が焼けるように痛い。
もう長くはもたない。
水の中で目を凝らすと、朧げだが淡い光が見えた。
葵はその光を目指して泳ぐ。
腕が重い。
それでも必死に水を掻いた。
やがて。
水面を突き破る。
「――はぁっ!!」
大きく息を吸い込む。
肺に空気が流れ込む感覚に、全身が震える。
だが。
葵はすぐに息を呑んだ。
眼前には、これまで見たことのない景色が広がっていた。
何度か来たことがある鬼火の滝。
だが――
以前見た景色とは、まったく違っていた。
滝の上から流れてくるのは水だけではない。
色とりどりの炎だった。
青。
緑。
紫。
金。
無数の炎が、滝のように流れ落ちている。
だがそれは燃え広がることもなく、ただ静かに揺れていた。
水の中に入っても鎮火することはない。
ゆらゆらと、意思を持つように漂っている。
しかも、一つや二つではない。
滝の上から流れ落ちてくる炎は、数えきれないほどだった。
それらが滝壺に流れ込み、水面の上を静かに漂っている。
「……葵」
胸の中で、小さく声がした。
腕の中の緋色が、ゆっくり顔を上げる。
水に濡れた黒髪が月光に照らされ、水に溶けた炎が緋色の髪にまとわりついている。
赤い瞳が、周囲を見回した。
そして。
緋色は小さく呟いた。
「……昔聞いたことがあるの」
どこか納得したような声だった。
「……この山にはいろんな異界があるって」




