紅妖奇譚4
白岩高校へ着いたのは、二十時半を少し回った頃だった。
昼間とはまるで違う。ぽつりぽつりと灯る街灯以外は闇に沈み、学校全体が別の場所のように見える。
誰にも見られないように暗がりを選びながら、学校の周囲を一周する。職員室にも校舎にも明かりはない。
フェンスに囲まれた敷地の中へ、葵は野球部のバックネット裏にある通用口から侵入した。こんな時間の学校に忍び込む非日常感に、緊張と妙な高揚が入り混じる。
通用口の鍵は開いていた。
「第一関門突破……」
今のところ計画は順調だった。
グラウンドを抜け、部室棟を通って旧部室棟へ向かう。昼間佳奈がいた部屋の前に立ち、ドアノブを回すが、やはり鍵はかかっている。
裏手へ回り、昼と同じ窓をゆっくり開ける。赤錆の浮いたサッシが耳障りな音を立て、静まり返った夜の学校に不必要なほど大きく響いた。
人ひとり通れるほどまで窓を開け、慎重に室内へ滑り込む。ペンライトの細い光が、真っ暗な部屋を照らした。
旧部室棟の中は、昨夜佳奈の記憶で見たままだった。
葵は記憶の中で大垣がカメラを取り出していた棚へ向かう。ペンライトを咥え、手元を照らしながら中を探るが、それらしいものは見つからない。
(置き場所を変えたのか……?)
棚の奥のコンテナを探ろうと、葵は身を乗り出した。
そのとき、背後で扉が閉まる音がした。
「……だから昼間に言っただろ? 旧部室棟は危ないって」
声に振り返った瞬間、頭へ強烈な衝撃が走る。視界が白く弾け、次の瞬間には床へ倒れていた。
視界が明滅する。朦朧とした頭を持ち上げると、大垣が目の前に立っていた。
隣の男へ金属バットを渡している。どうやらそれで殴られたらしい。
「……まさか、お前とこんな所で会うなんてな、葵。今度は何をするつもりなんだ?」
頭上から聞こえる嫌な声。田淵だとすぐにわかった。
起き上がろうとしたところで、背中を勢いよく踏みつけられる。肺から空気が押し出され、咳き込む。
「とりあえずさ。話を聞こうか。一年生君。こんな時間にこんな所で何をしてたのかな?」
大垣は穏やかな口調で言う。けれど、その声には温度がまるでなかった。
葵は必死で言い訳を探す。
「……ひ、昼休みにこの近くで落とし物をして……それを探してたら、窓が開くことに気づいて……肝試しがてら……」
我ながらひどい言い訳だった。
大垣が微笑んだまま近づいてきて、葵の頭を鷲掴みにした。
「そうか。それじゃあ、なんで棚を探ってたのかな? そこに何があると思った?」
頭皮が剥がれそうなほどの痛みが走る。
答えられるはずがない。
「……黙秘か。そういえば田淵、こいつと知り合い?」
「……中学の同級生っすよ。昔からしょうもない奴で。幽霊が見えるとか嘘ついて、皆の気を引こうとしてたんです。うちの隣に犬の死骸を埋めて、自分で掘り当てるような頭のおかしい奴ですよ。こいつも妹も異常なんです」
葵は絶句した。
あの場にいたくせに。赤ん坊を掘り当てた瞬間を見ていたくせに。よくもここまで平然と嘘を重ねられるものだ。
あの事件の後、岩橋と川下は転校した。田淵の父親が口止め料を払ったという噂も聞いた。爺さんのところにも金を持ってきたらしいが、爺さんは受け取らなかった。
そこからだ。
事件の内容をねじ曲げた噂が広がり始めたのは。
「お前らのせいで、うちがどれだけ迷惑したと思ってる!」
髪を掴んでいた手が離れたと思った瞬間、腹へ激しい蹴りが入る。内臓が揺さぶられ、葵は思わずうずくまった。
迷惑。
自業自得のくせに。
「何とか言えよ! また土下座して謝れや!」
その言葉で、過去の記憶が一気によみがえる。毎晩見ている夢とまったく同じ構図だった。頭が重くなり、腹の底に黒い感情が沈んでいく。
「まあまあ田淵。一旦これくらいにしとこうか」
大垣が制したかと思えば、今度は髪を掴まれて無理やり立たされる。
「それで? ここに来た目的は?」
「……落とし物を……探し――」
言い終わる前に、鋭い蹴りが腹へ突き刺さった。田淵のものとは比べものにならない重さだった。支えを失った体が吹き飛び、木製の棚の下段へ頭から突っ込む。
コンクリートの床に手足を打ちつけ、全身の皮膚が擦りむける。棚の下には土埃や空き缶、壊れた防具の残骸が転がっていた。
その中に、一つだけ不自然に汚れていないものが見えた。
違和感の正体を確かめる間もなく、足を掴まれて棚から引きずり出される。
「殺さない程度に加減はしたつもりなんだけどな。最初の一発でも気絶しないし、俺の蹴りにも耐えるし。格闘技でもやってた?」
大垣は笑いながら、葵へ馬乗りになって殴りつける。
「まあ、どうでもいいけどね。何を察してここへ来たのか知らないけど、ここには何もないよ。残念だったね。それに、田淵の話を聞く限りじゃ、お前が何か騒いだところで大した影響もなさそうだし」
口の中に血の味が広がる。顔を殴られすぎて視界も歪んでいた。
このまま殴られ続けたら、死ぬかもしれない。そんな錯覚が頭をよぎる。
「無様だなぁ。俺は久しぶりにお前を殴れてスッキリしたよ。でももう飽きた。また土下座して、ここにはもう近づきませんって言うなら見逃してやるよ」
田淵が葵の頭を踏みつけながら言う。
顎がコンクリートに押しつけられ、骨が砕けそうな痛みが走る。心臓へ氷の杭を打ち込まれたような感覚だった。
「また言えよ。昔みたいに惨めったらしく、『生まれてきてごめんなさい』ってな。お前みたいな無価値の人間は、目立たず分相応に生きてろ」
顔を上げられない。視界の端に、大垣と田淵の歪んだ笑みだけが映る。
もう疲れた。
これ以上殴られるのは嫌だ。
もう一度謝れば終わるのなら――。
「……あ……ごめ――」
その瞬間だった。
ドアが激しくノックされる。ガチャガチャとドアノブが乱暴に回される。だが鍵がかかっているせいで開かない。
「やばい! 逃げるぞ!」
大垣と田淵は、窓から一目散に逃げていった。
葵も逃げようとしたが、体のダメージが大きく、すぐには起き上がれない。結局、立ち上がれたのはノックが始まってから十分以上経ってからだった。
不思議なことに、その間、窓から誰かが覗くことは一度もなかった。
よろよろと窓から外へ出て、恐る恐る旧部室棟の入口を回り込む。だがそこには、誰もいなかった。
「……痛い」
誰に向けるでもなく、葵は呟く。
「…………痛い」
全身が痛んだ。半袖から露出していた腕も顔も、コンクリートで擦れてじくじくしている。腹も、頭も、痛い。
「……くそ」
さっき、自分は何を口にしかけた。
人生で一番後悔している場面と、まったく同じだったじゃないか。
思い出すだけで胃の中が焼けるように熱くなる。
「……はぁ」
大きく息を吐く。
やっぱり、幽霊に関わるとろくなことがない。高校に入ってからは田淵とクラスが分かれ、比較的平和だった。なのに、佳奈を成仏させようなどと余計なことを考えた途端にこれだ。
……関わるんじゃなかった。
学校を出ても、暗い感情が頭の中を満たしている。歩くたびに体のどこかが痛み、思考はどんどん悪い方へ沈んでいく。
疲れた。
佳奈も、こんな気持ちだったのだろうか。
真面目に生きていても、結局は大垣みたいな人間に食い物にされる。こんなつまらない人生なら、いっそ――。
「こんばんは。紅少年」
不意に声をかけられ、葵ははっと顔を上げた。
自販機の横に、白衣姿の男が立っている。
「こんな時間に帰宅かい? 不良だね」
穏やかな声で笑うその男は、白岩医療センターで働く雨塚悟志だった。中学の頃から、学校帰りに病院の前を通る時間と彼の休憩時間が重なることがあり、自然と挨拶を交わすようになっていた。歳は20代後半くらいで身長が高くやせ型で黒縁メガネをしている。
「……こんばんは」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「いやいや、ちょうど休憩中に紅くんが歩いていくのが見えたからね。しかしあれだね、君の髪色は見間違えようがなくて便利――」
そこで言葉が止まる。
雨塚が、葵の顔を覗き込んだ。
「……その顔、どうしたの?」
鏡で確認していなくても、自分の顔がひどいことになっているのはわかる。殴られ、擦りむいたのだから当然だ。
「――これは……なんでも、ないです……」
しどろもどろになりながら答えると、雨塚は何も言わず、じっと葵の目を見た。
他人に真っ直ぐ見つめられるのは怖い。
葵が目を逸らすと、雨塚は短く頷いた。
「ちょっと待ってて」
そう言って、小走りで病院の中へ戻っていく。
十分ほどして出てきた雨塚の手にはビニール袋があり、中には消毒液や絆創膏の類が入っていた。
「少し沁みるけど、ごめんね」
消毒液を含ませた綿で、雨塚が手際よく傷を処置していく。顔に薬液が触れるたび、鋭い痛みが走る。腕や肘にも次々と厚みのある絆創膏が貼られていく。
「……こんなしてもらって申し訳ないんですけど、この絆創膏、市販で見たことないんですが……高いやつじゃないですか?」
普通の絆創膏より明らかにしっかりしている。医療用なのだろう。
「気にしなくていいよ。期限が今月のやつが余ってたから。捨てるよりは使ってもらったほうがいい」
そう言って貼り終えると、雨塚は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ただ……他の人には内緒にしておいてね。流石に怒られるから」
その笑い方に、葵は少しだけ張り詰めていたものが緩むのを感じた。
「どうして……俺なんかに親切にしてくれるんですか?」
思わず口からこぼれた言葉だった。
葵には理解できなかった。雨塚とは知り合いと言っても、登下校の途中でたまに挨拶を交わす程度の関係だ。
そもそも知り合うきっかけだって、葵の目立つ白髪に雨塚が興味を持って話しかけてきた――それだけの、他愛もない理由だった。
それなのに、この人はこうして傷の手当てまでしてくれている。
「お互い挨拶をする仲だからね。それだけでも親切にする理由にはなると思うけど」
雨塚は穏やかな声でそう言った。
少しだけ考えるように視線を宙へ向け、それから言葉を続ける。
「……それにね。君、ものすごく思いつめた顔をして歩いていたから」
葵は思わず顔を上げた。
「大人として、そんな顔をした子供を見かけたら……普通は放っておけないよ」
その言葉に、葵は何も返せなかった。
胸の奥が、じわりと痛む。
どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。
どうして学校には、この人のような優しさを持った人間がいないのだろう。
――いや。
それよりも。
どうして自分は、こんなにも優しくされているのに。
この優しさを、素直に受け取ることができないのだろう。
沈黙が落ちる。
しばらくして、雨塚がぽつりと口を開いた。
「……本当は誰かに殴られたの?」
葵の肩がびくりと震える。
誤魔化そうかと思った。
けれど、嘘をつく気力も残っていなかった。
「……ちょっと、学校で」
言葉を濁す。
雨塚はそれ以上深くは聞いてこなかった。
「そうか」
ただ、それだけを言った。
責めるでもなく、同情するでもなく。
ただ静かに頷くだけだった。
「……なあ、紅くん」
「はい?」
「一つだけ、人生の経験者からの忠告をしてもいいかな」
葵は黙って頷いた。
「君が今抱えている問題は、たぶん一人で抱えるには少し重すぎる」
雨塚は缶コーヒーを一口飲み、一呼吸置いてから続ける。
「人間ってね、追い詰められると視野がどんどん狭くなるんだ。そうすると、選択肢もどんどん減っていく」
夜の病院の灯りが、白衣を淡く照らしていた。
「事情は知らないけど、我慢なんてする必要はないんだよ」
葵の胸がどきりと跳ねた。
今の置かれている状況など、何一つ話していない。
それなのに、雨塚はまるで見透かしたように言葉を重ねてくる。
雨塚は少しだけ笑った。
「逃げてもいいし、助けを求めてもいい。もちろん、戦ってもいい」
そして、葵をまっすぐ見た。
「選択肢は、思っているよりずっと多いんだ。自分で視野を狭めないようにね」
葵の胸が詰まる。
雨塚の言っていることは、間違っていない。
むしろ正論だ。正論すぎるほどに。
……だけど。
雨塚は、葵の置かれている状況を知らない。
彼は正しい。
だけど、正論だけで人の心が動くわけではない。
「……もっとも、こんな他人が何を言っても受け入れられないとは思うけどね」
雨塚は苦笑した。
「おっさんの小言だと思って聞き流してくれていいよ」
そう言うと、手にしていた缶コーヒーをゴミ箱へ放り込む。
「それじゃあ引き止めて悪かったね。傷の処置は終わったから、気を付けて帰るんだよ」
雨塚は歩き出しながら振り返った。
「その絆創膏、防水だから風呂に入っても大丈夫。四、五日したら自分で剥がしてね」
軽く手を振ると、そのまま病院の中へ戻っていった。
残された葵は、しばらくその背中を見送っていた。
やがて踵を返し、家へ向かって歩き出す。
ただ――
先ほどまで胸の奥に溜まっていた黒い靄は、ほんの少しだけ薄くなっている気がした。




