紅妖奇譚3
目を覚ますと、頭の下の氷枕がひんやりと冷たかった。
「せっかく臨時休校だったのに、残念だったね」
氷枕を取り替えながら、緋色が苦笑する。
「……不甲斐ない」
あれから昼過ぎまで眠れたのはいいが、葵は熱を出していた。咳や鼻水こそないものの、三十八度近い熱は全身の気力を奪っていく。
せっかくの平日休みなのに、布団から起き上がる気力もない。
微熱にうなされながらぼんやりしていると、緋色が寝室の隅に置かれた古いブラウン管テレビの電源を入れた。今ではテレビとしての役目は果たしていないが、スーパーファミコン専用機として紅家ではいまだ現役だ。
緋色が懐かしそうに横スクロールアクションゲームを始める。その画面を眺めながら、葵はふと思い出した疑問を口にした。
「そういえば……なんで斎藤先輩、この山の中にまで入れたんだ?」
「結界のこと?」
「そう。あれって、悪意あるものは人間だろうと妖怪だろうと阻むんじゃなかったっけ」
中ボスに苦戦しながらも、緋色は答える。
「あれはね、この山に住む者へ悪意を向ける存在を阻む結界なの。だから佳奈先輩が葵に悪意を持ってなかったなら、普通に入れるよ」
「悪意はなくても、実害はもろに受けてるんだけど……」
記憶の追体験なんて、洒落にならない心的負担だった。
「ところで、朝方消えていったよな。あれって成仏したんじゃないのか?」
淡い期待を込めて尋ねると、緋色は即答した。
「何言ってるの。あれほどのことをされたのに、そんな簡単に成仏できるわけないじゃない」
何度も中ボスに負け、緋色はコントローラーを置いた。そして仰向けの葵の腹へ勢いよく後頭部を乗せる。重みで葵は思わず上半身を起こしかけた。
「……え? だって俺の目の前で消えたけど? あれって漫画とかアニメだと成仏の演出じゃないのか?」
「逆に聞くけど、あれだけのことをされて、もし葵だったらどうする?」
膝枕の形に収まった緋色が、下から真っすぐ見上げてくる。
あんな目に遭って、命まで絶たされて。もし自分だったら――。
「私だったら、関係者全員皆殺しにするね。そこまでしても怒りは収まらないし、死んだあとも魂を縛って延々地獄を見せる」
緋色の赤い瞳に、冷たい怒りが宿っていた。女性として、許せないのだろう。
「……じゃあ、どうしたら成仏できるんだ?」
「そんなの人によるわ。生前の後悔とか、未練とか、それを解消できれば成仏するかもね」
いつも爺さんや緋色は、悪霊を簡単に祓っているように見えた。今回もそうしてくれるものだと、葵はどこかで思っていた。
「そしたら――」
「ちなみに私は今回、除霊しないからね」
先手を打たれて、言葉が止まる。
「……なんで?」
いつもなら率先して手伝ってくれるのに、今回は妙に冷たい。
「だって佳奈先輩、葵に助けを求めたんでしょ? 私も隣にいたのに、葵にだけ過去を見せた。ってことは、何かしら葵に頼る理由があるんじゃないの?」
「でも――」
「……頼られたなら、答えてあげようよ。葵なら助けてくれるって思ったから、取り憑いたんでしょ?」
そう言われると、何も言い返せなかった。確かに緋色には直接関係のない話だ。自分が関わってしまった以上、自分で向き合うべきなのかもしれない。
「……わかったよ」
渋々頷くと、緋色は満足そうに笑う。
「そんなに気を落とさないで。私が除霊しないってだけで、手伝いはするから」
そう言って緋色は再びコントローラーを握った。葵も二人用のコントローラーを手に取り、サッカーボール型の中ボスへ挑む。二人で戦うと、さっきまで苦戦していた相手を驚くほどあっさり倒すことができた。
翌日には熱も下がり、葵はいつも通り学校へ向かった。
朝の全校集会で、校長が昨日の件について説明する。非常に残念な事故だったこと。悩みがあるなら自殺などせず、教師や家族へ相談すること。昨日の光景を見て気分が悪くなった生徒は、いつでも相談に来ること。
淡々とした言葉だった。
けれど体育館のざわめきは一向に収まらない。
集会が終わると、学校は何事もなかったかのように授業へ戻った。生徒が一人死んだというのに、日常は思ったよりあっさり続いていく。
昼休み、弁当を食べ終えた葵は机へ突っ伏したまま、周囲のひそひそ話に耳を傾けていた。
『昨日自殺したの、三年の斎藤佳奈先輩なんだって』
『成績もいいし、バスケ部のエースだったのにね』
『柔道部の大垣先輩と付き合ってたんでしょ? あんなイケメンの彼氏がいて何が不満だったんだろ』
断片的な情報が次々に耳へ入る。
そして、話は徐々に嫌な方向へ転がっていった。
『……斎藤先輩、麻薬やってたらしいよ』
『家もあんまり裕福じゃないから、小遣い少ないって言ってたって』
『パパ活して妊娠して、中絶する金がなくて自殺したんだって』
『マジかよ。大垣先輩かわいそうだな。彼女にそんな裏切りされたら立ち直れないだろ』
「っ、なん――!」
思わず立ち上がっていた。
一斉に教室中の視線が葵へ向く。
「……あ」
言葉が出ない。
人の視線が怖い。
何も知らないくせに、噂だけで佳奈を貶めているその空気が、どうしようもなく怖かった。
葵は視線から逃げるように、教室を飛び出した。
人のいない場所を求めて、あてもなく歩く。気づけば校舎裏へ回り込み、さらに進むと旧部室棟が見えてきた。
新しい部室棟とは違い、旧部室棟はトタンが剥がれ、鉄骨は赤錆に侵食され、今にも崩れそうな有様だった。
人間が怖い。
確証もない噂を、あんなにも簡単に信じ込む人間たちが。
佳奈はきっと真面目に生きてきた人間だった。それなのに、たった一つの噂で人格までも捻じ曲げられてしまう。
気分が悪い。
そんな思いで立ち尽くしていると、旧部室棟の一階奥から禍々しい気配がした。
黒い靄が揺れている。
よく見れば、その中に佳奈の姿があった。
じっとこちらを見つめていたかと思うと、次の瞬間には霧のように散って消える。
(……なんだ?)
気になって近づく。佳奈が立っていた扉のドアノブを回してみるが、鍵がかかっていて開かない。裏へ回り、窓から中を覗こうとするが、すりガラスで見えない。
それでもダメ元で窓に触れると、赤錆の浮いたサッシが嫌な音を立てながら、わずかに開いた。
指一本分の隙間から中を覗く。
その瞬間、昨夜見た記憶が鮮明に蘇った。積み上げられた古いマット。壊れた野球ヘルメット。錆びた鉄骨の柱。
佳奈が縛られていた場所だ。
途端に恐怖と吐き気がこみ上げ、葵はたまらず旧部室棟を離れた。
校舎へ戻ろうと吹き抜けの廊下へ差しかかったとき、旧校舎のほうから三人組の男子生徒が歩いてくるのが見えた。全員、胸ポケットのプレートは黄色。三年生だ。
すれ違おうとしたそのとき、真ん中の男の顔を見て、葵の全身が強張る。
短く整えられた髪。百八十センチを超える長身。人懐っこく笑っているように見える整った顔立ち。
大垣祐一。
斎藤佳奈を自殺へ追い込んだ張本人。
目が合う。
「……あれ? 君、一年生? そっちから来たの?」
気さくな声だった。
その声すら、昨夜の記憶と重なる。
「は、はい。まだこの高校に慣れてなくて、ちょっと散策してました」
自分でも驚くほど自然に嘘が口をついた。
「そうなんだ」
大垣は特に不審がる様子もなく通り過ぎる。けれど葵の全身からは冷や汗が止まらない。
「一年生君」
背後から再び呼び止められ、心臓が強く跳ねた。
「は、はい」
「旧部室棟は老朽化が進んでて危ないから、あまり行かないほうがいいよ。先生にも注意されるから気をつけてね」
そう言って、大垣は仲間と一緒に去っていく。
葵は校舎へ戻るや否や、その場へ座り込んだ。
意味がわからない。
人を一人、自殺へ追い込んだ人間が、どうしてあんな平然としていられるのか。
理不尽すぎる。
腹の底から怒りがせり上がってくる。
そのとき、さっきの三人組の声が再び聞こえてきた。どうやら近くの自販機で飲み物を買って戻るところらしい。葵はとっさに空き教室へ転がり込んだ。
扉に背を預け、息を潜める。
『……大垣。あんまり気に病むなよ』
『そうだよ。お前みたいな彼氏がいながら浮気した挙句に自殺するなんてな……』
取り巻きたちが大垣を慰めている。
「二人ともありがとう……。こんなことになってしまったのも、俺が不甲斐なかったからだと思う。俺が……もっと早く気づいてやれていれば、こんなことにはならなかったのに……」
涙を堪えたような声だった。
葵は唖然とする。
よくもそんな口が利ける。
あれだけのことをしておいて、被害者のふりをするのか。
胸の奥底で、暗い感情がじわじわと膨れ上がっていく。足音と話し声が完全に遠ざかるまで、葵は空き教室から出ることができなかった。
結局その後の授業はほとんど頭に入らず、気づけば下校時間になっていた。校内のざわつきは相変わらずで、飛び交うのは根も葉もない噂話ばかりだ。
死んだ後ですら貶められる佳奈が、不憫でならなかった。
そのとき、昨夜見た記憶の中で、大垣が旧部室棟の棚からビデオカメラを取り出していたことを思い出す。脅しのためか、金のためかは知らないが、あいつらは確かに動画を撮っていた。
だったら。
旧部室棟の窓は開いた。夜に侵入し、ビデオカメラか記録媒体を回収して、それを学校や警察へ突きつければいいのではないか。
そうすれば佳奈を貶める噂は消えるかもしれない。大垣たちの悪事も暴けるかもしれない。佳奈も成仏できるかもしれない。
次々と、都合のいい筋道が頭の中で形になっていく。
そうと決まれば、もうじっとしていられなかった。
葵は学校を出ると近くの百円ショップへ向かい、ペンライトを買った。時間を潰すためにファミレスへ入り、その途中で電柱の上にとまっていた烏を見つける。
昔、緋色が言っていた。町の烏は鴉天狗のネットワークだと。
半信半疑のまま、葵は周囲に人がいないことを確認して話しかけてみた。
「緋色に、今日は帰りが遅くなるから先に夜ご飯食べててくれって伝えて」
烏はひときわ大きく鳴くと、羽を広げて鬼火山の方へ飛んでいった。
「おお……本当に伝えてくれるのか」
半信半疑だったが動物と意思疎通できたため、妙に感動してしまう。
ファミレスではからあげ定食を食べ、教科書を広げるふりをしながら、これからの段取りを考えた。
部活が遅いところでも十九時には終わる。教師たちも二十時にはだいたい退勤するだろう。二十一時ごろなら、学校へ忍び込んでも見つかる可能性は低い。旧部室棟に入り、ビデオカメラかデータを押収してすぐ撤収。うまくいけば十分もかからないはずだ。
時計が二十時を回った頃、葵は会計を済ませて店を出た。




