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紅妖奇譚2

終業のチャイムで、葵ははっと現実へ引き戻された。


(……最悪だ)


 また昔の夢を見た。

 授業中の居眠りだったせいか眠りが浅く、頭痛まで残っている。水筒の冷たい茶を飲みながら次の数学の準備をするが、頭はぼんやりしたままだ。


 気分転換に窓の外を眺めた、そのときだった。


 頭から落ちていく女子生徒が見えた。


 一瞬なのに、異様に長く感じられた。目が合った気がした。憎しみ、後悔、悲しみ――そんな感情が詰まった目だった。

「――たすけ――」


 何かを伝えようと口が動いたかと思った次の瞬間。

 

 大量の水を詰めた風船を高所から落としたような、嫌な音が響く。


 クラスメイトの悲鳴が上がり、教室は一気に騒然となった。


 葵も立ち上がり、窓の外を見る。

 見間違いではなかった。


 さっきの女子生徒が、地面に倒れていた。いや、倒れているのではない。頭蓋は潰れ、脳漿がはみ出し、手足はありえない方向へ折れ曲がっている。血の中へ沈んでいる、と言ったほうが近い。


 教室は完全にパニックになった。教師の声など誰にも届かない。


(なんだ……?)


 窓の外から、禍々しい気配がする。

 背中を冷や汗が伝う。七月だというのに寒気が止まらない。


 見てもいないのにわかった。

 窓の外で、何かが立ち上がった。


 意を決して振り向く。


 真っ黒な靄に包まれ、髪を振り乱した女子生徒が立っていた。目には憎しみと怨みの火が灯っている。


『たす……け……て』


 その声を聞いた瞬間、葵の意識は途切れた。



 


「おお葵よ。死んでしまうとは情けない」


 目を覚ますと、聞き慣れた声がすぐそばから聞こえた。


「……死んでねえよ」


 緋色がけらけらと笑う。昔、二人で遊んだゲームのセリフだった。


 どうやら葵は保健室へ運ばれていたらしい。緋色は当たり前のように傍にいる。養護教諭の竹内先生も現れ、顔色が真っ青だったため心配したのだと言ってくれたが、葵の頭にはさっきの飛び降りの光景しか残っていない。


 その女子生徒は、三年の斎藤佳奈というらしい。

 飛び降り自殺だった、と聞いても、葵には到底現実味がなかった。


 学校を出ると、駐車場にはパトカーが並び、現場検証が続いていた。緋色と並んで帰りながら、葵はぽつりと漏らす。


「……やっぱり飛び降り自殺だったのか」


「竹ちゃん先生に聞いたけど、三年の斎藤佳奈って生徒らしいよ」


 佳奈。

 あの瞬間、彼女から流れ込んできた負の感情を思い出す。


 だが、詮索したところでろくなことにはならない。幽霊や妖怪の類とは関わらない。それが一番だ。そう自分に言い聞かせる。


 帰り道、緋色と他愛もない話をしながら歩いていて、ふと葵は口にする。


「今日、斎藤先輩が落ちてきた時、目が合ったんだ。すごい邪気に当てられて気絶したんだけど……絶対取り憑かれたと思ったんだけどな」


「……ああ。私が学校に行った時、学校からものすごい邪気が出てたけど、私が校門に入ったら散ったよ?」


「…………そうですか」


 緋色はそういう存在だ。霊感だけではなく、霊力そのものが桁違いに強い。調子の良い時の緋色が道を歩くだけで、悪霊や雑妖が蜘蛛の子を散らすように逃げていくほどに。


「まあ、邪気はある程度散ったけど、まだ取り憑かれたままだよ?」


「へー。そうなん……だ」


 今、何と言った。


「ほら。今も葵の後ろに」


 葵は恐る恐る振り返る。


 そこには、昼間よりは禍々しさを失っているものの、確かに斎藤佳奈が立っていた。


 その姿を見た瞬間、葵の意識は再び暗転した。


 


「おお葵よ。二度も死んでしまうとは情けない」


「……デジャヴ?」


 再び目を覚ますと、やはり緋色がいた。どうやら今度は家まで運ばれていたらしい。運ぶ際は鴉天狗の錫に頼んだのだと聞いて、葵はようやく納得する。


 夕食を作れと緋色にせっつかれ、なんだかんだでいつもの調子が戻ってきた、そのときだった。


「あ、そういえば葵――」


 寝室を出ようとドアノブを回し、扉を開ける。


 鬼火山の結界は、悪意あるものを拒む。

 そのはずだった。


 なのに、目の前には。


 悪霊と化した斎藤佳奈が、静かに立っていた。


「――佳奈先輩、憑いてきちゃってます」


 その一言を最後に、葵はその日二度目ならぬ三度目の気絶をした。


 葵は夢を見ていた。


 真っ暗な世界だった。目を開けているはずなのに、どこまでも続く闇しか見えない。


 横たわっていた体を起こし、周囲を見回す。だが、やはり暗闇しかない。試しに歩き出してみても、夢から覚める気配はなかった。


(……歩きづらい)


 足元は見えないのに、泥沼のような闇がまとわりついてくる。踏み出すたびに足を取られ、思うように進めない。


 こんな状況で考えるのも場違いだが、昔、緋色と一緒に行った干拓の潮干狩り体験をふと思い出した。


(夏になったし、また緋色と潮干狩りに行ってもいいな)


 終わりのない暗闇をどれだけ歩いただろう。いい加減うんざりし始めた頃、ようやく闇以外のものが視界に入った。


 誰かが座り込んでいた。膝を抱え、うつむいているせいで顔は見えない。だが、なぜか葵にはその姿に心当たりがあった。


「……斎藤、先輩……」


 呼びかけると、座り込んでいた人物がゆっくり顔を上げた。


 その顔には様々な負の感情が詰まっていた。眼窩は闇のように黒く、吸い込まれそうになる。眼球の形すら見えないのに、確かに目が合ったとわかった。


 その瞬間だった。


 佳奈の感情と記憶が、濁流のように葵の中へ流れ込んでくる。


 小さい頃の記憶。

 両親と弟とピクニックに出かけた記憶。


 ――幸福。喜び。安心。


 小学校への入学。


 ――期待。不安。


 初めての友達。


 ――希望。喜び。信頼。幸福。


 小学校卒業。


 ――恐れ。不安。悲しみ。


 中学校入学。


 ――期待。希望。不安。


 初めての恋。


 ――不安。恐怖。愛しさ。悩み。幸福。


 初めての失恋。


 ――悲しみ。切なさ。絶望。嫉妬。羨望。


 家族との喧嘩。


 ――苛立ち。苦悩。不安。自己嫌悪。


 中学校卒業。


 ――不安。動揺。恐れ。悲しみ。希望。期待。


 高校入学。


 ――期待。希望。不安。憂い。喜び。困惑。


 父から入学祝いにもらった、ずっと父が身につけていた時計。


 ――幸福。信頼。


 初めての恋人。


 ――喜び。幸福。期待。満足。愛しさ。


 そこで、いったん感情の波が途切れた。


 気づけば、葵は暗闇の世界から抜け出していた。


 だが、そこは現実ではない。


(ここは……)


 辺りは薄暗く、カビ臭い。積み上げられたマット、割れた野球のヘルメット、古びた備品が雑然と押し込まれている。狭い物置のような空間だった。


 体を動かそうとする。だが、動かない。声を出そうとしても、うまくいかない。


 混乱していると、高校生の男が目の前に現れた。


 さっき流れ込んだ記憶の中にいた男だった。


「こんなことになってごめんな。佳奈」


 爽やかな笑みを浮かべて、その男が言う。


 佳奈。

 今、自分は佳奈の視点にいるのだと葵は気づく。これは夢ではない。佳奈の記憶の追体験だ。


「だけど、こうするしかなかったんだよ」


 申し訳なさそうな顔をしながら、男は近づいてくる。学生服の胸ポケットについた黄色いプレートに彫られた名前が見えた。


 大垣祐一


 黄色のプレート。三年生だ。


「佳奈。お前が変な気を起こさずに、俺の携帯なんか見なければ、望みどおりに清く正しい交際ができてたのに」


 そう言って、大垣は佳奈の頬を撫でた。


 嫌悪感が走る。だが葵は佳奈の体の中に押し込められたまま、何もできない。


「ん゛――! ん゛――!」


 必死に声を出そうとしても、言葉にならない。どうやら猿轡をされているらしい。


「まあ、バレたならしょうがないかな。今までは隠し撮りだけでも小金が稼げてたけど、今度はしっかり稼がせてくれよ」


 大垣は棚から三脚とビデオカメラを取り出し、手際よく準備を始める。


「おい。お前たちも手伝えよな」


 呼ばれて、さらに二人の男が入ってきた。


 一人は同じく黄色いプレートの三年生。もう一人は、葵と同じ赤いプレートをつけた一年だった。


 その顔を見た瞬間、葵の全身が凍りつく。


 坊主頭。吊り目。見間違えるはずがない。


 田淵涼真だった。


「おい田淵。今日はお前も撮影係だ。カメラ回してるから早くしろ」


 三年生の男が佳奈へと近づく。胸を乱暴に揉み、そのままブラウスを引き裂いた。


「ん゛――!!」


 佳奈の恐怖がそのまま葵の中に雪崩れ込んでくる。


 ――恐怖。嫌悪。恐怖。恐怖。恐怖。後悔。


 縛られていない足を振り上げ、佳奈は近くで撮影していた大垣を蹴り飛ばす。大垣が尻もちをつき、右手に持っていたビデオカメラの液晶が割れた。


 それを見た瞬間、大垣の顔が一変する。


「このクソ女が!!」


 勢いよく腹を蹴られ、鈍い痛みが腹の奥へ突き刺さる。記憶を追体験しているだけのはずなのに、痛みはあまりにも鮮烈だった。


「このカメラいくらしたと思ってる! ふざけんな!」


 大垣は怒りに任せて、手にしていたカメラを床へ叩きつける。硬いコンクリートにぶつかって、カメラは無惨に砕け散った。


 ――恐怖。恐怖。嫌悪。絶望。


「人が下手に出てたら付け上がりやがって!」


 もう一度、腹へ蹴りが入る。両腕は柱に縛られたままで、ガードすることもできない。胃液が逆流し、口から溢れ出る。


「どうせこのままじゃ濡れないだろ。今は恐怖しかないだろうしな。濡れやすくしてやるよ」


 猿轡を外され、頬を乱暴に掴まれた。顎を持ち上げられ、口の中へ何かを押し込まれる。すぐさまペットボトルの水を無理やり流し込まれ、佳奈はそれを飲み込まされてしまう。


 むせる。息ができない。


 その直後、体から力が抜けた。


「な、にを……」


「ハーヴェストって知ってるか? 最近巷を騒がせてる新型麻薬だよ。田淵の伝手で手に入ったんだ。天国に行けるらしいぜ。――まあ、副作用もすごいらしいけどな」


 全身に力が入らない。

 脳へ、経験したことのない快楽が洪水のように押し寄せる。


 乱暴に胸や股を触られているのに、嫌悪より先に別の感覚が流れ込んでくる。


 ――快楽。快感。多幸感。恐怖。快感。快感。恐怖。


 そこで記憶が途切れた。


 気づけば葵は佳奈の体から弾き出されていた。だが、記憶はそこで終わらない。断片的な場面と感情だけが、次々に流れ込んでくる。


『カメラ代として、この時計はもらっておくよ』


『薬が欲しかったら身体で稼げよ。チクったらこの動画をネットに流すし、お前の親にも送るからな』


 大垣が髪を鷲掴みにして脅す。


 ――後悔。恐怖。


『お願いします。薬をください』


 ――絶望。渇き。苦しみ。後悔。


 毎日、いろんな男に嬲られる。


 ――快楽。快感。悲しみ。


『お願い……します……薬を……』


『梅毒にかかったお前にやる薬なんてねえよ! まだ儲けようと思ったのに、すぐ病気にかかりやがって!』


 縋りつく佳奈を、大垣が蹴り飛ばす。


 ――苦しい。苦しい。苦しい。死にたい。苦しい。後悔。


 吐き気。


 妊娠検査薬を見る佳奈。

 そこには陽性の反応。


 ――絶望。悲嘆。放心。希望。苦しみ。怨み。殺意。


 最後の場面は、高校の屋上だった。


 ――後悔。後悔。後悔。後悔。


 躊躇いながらも、佳奈は飛び降りる。浮かぶのは家族の顔。迫る地面。最後に、教室の窓から外を見ていた白髪の少年と目が合う。


「――たすけ――」


 次の瞬間、地面へ叩きつけられる寸前で、葵は飛び起きた。


「うわああああああああああ!!」


 布団の上で息を荒げる。全身から汗が噴き出し、呼吸がうまくできない。直前まで感じていたのは、紛れもない死の恐怖だった。


 隣に人の気配がする。


 ついさっきまで見ていた記憶が一気に蘇る。乱暴される恐怖。嬲られる恐怖。半狂乱になった葵は、考えるより先に拳を振るっていた。


「ひっ、や、やめ――!!」


 だが簡単に避けられ、逆に組み伏せられる。馬乗りになられ、両手をめちゃくちゃに振り回しても相手は離れない。


 また、あんな目に遭うのか。

 また、嬲られるのか。

 また――。


「イヤだ! うわあああああああああ!!」


「葵!!!!」


 凛とした声が部屋に響く。


 次の瞬間、誰かに強く抱きしめられた。顔が柔らかなものに押しつけられ、一瞬息が詰まる。


「葵! 落ち着いて!」


 優しい声だった。


「……大丈夫。大丈夫だから。私は緋色。……あなたは葵。もう大丈夫だから。落ち着いて」


 その言葉で、葵はようやく現実へ引き戻される。


 そうだ。

 自分は紅葵だ。

 斎藤佳奈ではない。


 今、抱きしめてくれているのは妹の緋色だ。


 緋色は葵の頭を撫でながら、そのまま優しく抱きしめ続ける。頬に伝わる温もり。ほのかに甘い匂い。規則正しく響く心音。


 それらが少しずつ、恐慌状態だった葵の心を落ち着かせていく。


「……何かあったの? 怖い夢でも見た?」


 緋色が静かな声で問いかける。


「……斎藤……先輩の……記憶を見た……」


 いや、違う。

 見たのではない。追体験したのだ。


「……どんな記憶だったの?」


 緋色は葵の髪を梳きながら、急かさずに続きを待っている。


 葵は起こったことを、うまく整理もできないまま、ぽつりぽつりと話し始めた。断片的で、支離滅裂だっただろう。だが緋色は聞き返すこともせず、ときどき相槌を打ちながら最後まで耳を傾けてくれた。


 話し終えて顔を上げる。


 目の前には、真っ赤な瞳から大粒の涙をぽろぽろ零しながら、まっすぐこちらを見つめる緋色がいた。月明かりを受けた涙が、赤い瞳の中で揺れていた。


「……なによ、それ」


 震える声で、緋色が呟く。


「……だって佳奈先輩、何も悪くないじゃない……。普通に幸せな人生を生きてきて、ちょっと失敗することだってあって……でも、こんな……! こんなことされるほど悪いことなんて、何ひとつしてないじゃんか!!」


「……そうだな」


 今度は緋色のほうが、葵の胸へ顔を押しつけてきた。止まらない涙が、じわりと葵の服を濡らしていく。


 葵は、先ほどしてもらったのと同じように、緋色を抱きしめた。長い黒髪を優しく梳く。


 どれほどそうしていただろう。気づけば、夜が明けかけていた。


 泣き疲れて眠ってしまった緋色を起こさないよう、葵はそっと布団へ寝かせる。静かに寝室を出て、玄関の戸を開けた。


 外にはまだ太陽は出ていない。けれど、空は朝焼けに染まり始めていた。


「……すみませんでした、斎藤先輩。勝手に記憶、見ちゃって……」


 朝焼けの中に、黒い靄をまとった人影が立っていた。

 否。もはやそれは人間ではない。幽霊と化した斎藤佳奈だった。


 佳奈は何も言わない。ただ虚ろな眼窩で虚空を見つめ、そこに立ち尽くしている。


 あの記憶は、自分が勝手に覗いてしまったのか。それとも佳奈が見せたのか。わからない。だが、何か声をかけずにはいられなかった。


 しばらく見つめていると、佳奈の姿は次第に薄れ、その場から消えていった。


 葵は踵を返し、家の中へ戻る。


 濃すぎる一日だった。

 目の前で先輩が自殺し、悪霊となって自分に取り憑き、その記憶を追体験した。


「……少し、疲れたな」


 寝室へ戻ると、泣き疲れて眠る緋色の隣に自分の布団を敷き直し、その中へ潜り込む。


 今度こそ、昔の夢を見ませんように。

 そう祈りながら目を閉じると、不思議なことに、その夜は過去の悪夢を見ることなく深い眠りに落ちた。

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