紅妖奇譚19
緋色とともに、まずは保健室へ向かった。
保健室の扉を開けると、竹内先生が机に向かって書類を整理していた。
顔を上げた先生は、葵の隣に立つ緋色を見て、目を丸くする。
「あら、朝からヒロちゃんがいるなんて珍しいわね」
無理もない。
緋色は学校へ来る時も、たいてい昼過ぎに保健室の裏口から顔を出すだけだった。
こうして朝から、しかも正面の廊下側の扉を開けて来るなんて、竹内先生にとっても予想外なのだろう。
「……実は、今日からちゃんと学校に来ようと思って」
緋色が照れくさそうに頬をかきながら言う。
竹内先生は、ほんの一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐに声をやわらげた。
「……大丈夫? 無理しなくてもいいのよ?」
「葵もいるし、大丈夫です」
緋色はそう答えた。
いつものようにさらっと言っているけれど、その声は少しだけ固い。
「……そっか」
竹内先生は小さく頷く。
「それでも、決して無理はしないようにね。きつかったり、しんどかったりしたら、いつでも保健室に来ていいから」
「――はい」
緋色が頷く。
竹内先生は受話器を取り、どこかへ電話をかけた。
ほどなくして、かっちりしたスーツを着た眼鏡姿の女性が保健室へやってくる。担任の山村先生だった。
学年主任と校長へ挨拶が必要だということで、緋色は山村先生に連れられていった。
葵はひと足先に教室へ戻ることになる。
教室では朝のホームルーム前のざわめきがまだ少し残っていた。
席についた葵は、気を紛らわせるように数学の教科書を開く。
だが、文字を目で追っていても、頭にはほとんど入ってこなかった。
(……なんだ?)
ふと、視線を感じる。
顔を上げると、教室後方の扉がほんの少しだけ開いていた。
その隙間から、見慣れた赤い瞳がじっとこちらを射抜いている。
緋色だった。
何事かと目で問う。
だが緋色は無言のまま、ただ刺すような視線を送ってくる。
葵は一度教科書へ目を戻した。
無視して読もうとする。
――すると、さっきよりも圧が強くなった気がした。
(いや、絶対なんかあるだろ……)
ホームルーム開始まであと三分。
生徒はほとんど着席している。このタイミングで堂々と立ち上がるのは気が引けたが、あの視線を無視し続けるほうがもっと面倒な気がした。
葵は周囲に気づかれないよう、そっと席を立って教室の外へ出る。
扉の向こうには、山村先生と緋色がいた。
緋色は葵の顔を見るなり、泣きそうな目で小声のまま懇願してくる。
「――お願い! 私の紹介と自己紹介、九割くらい言って! 自分の名前だけはちゃんと言うから!」
あまりに必死で、葵は一瞬言葉を失った。
「……なんでだよ」
思わず素で返す。
「普通に挨拶すればいいだけだろ?」
教室の前に立って、妹の紹介を自分がする。
想像しただけで恥ずかしい。
「無理無理無理!」
緋色は首をぶんぶん横に振る。
「年上の人とか初対面の相手なら平気なの! でも、同い年の子たちに挨拶するとか、ハードル高すぎる!」
中学の途中から、緋色はほとんど学校へ行かなくなった。そして山と保健室以外の外出もしない。
妖怪や幽霊相手には平然としていても、“同い年の普通の子たち”との距離感だけは、どこかおかしくなったままだった。
「まさか、ここでコミュ障発症するとはな……」
葵は額を押さえる。
正直、前に立って妹を紹介するなんて嫌だ。
ただでさえ田淵の噂のせいで目立つのに、余計なことをしたら陰で何を言われるかわからない。
シスコンとか言われるのも絶対嫌だ。
「私からもお願いします」
山村先生が、困ったように頬へ手を当てながら言う。
「兄妹ということは、どうせすぐに分かることですし。ここはお兄ちゃんとして、少しだけ助けてあげてください」
いやいや、そこで丸投げするのか。
葵が返事をする前に、山村先生は「それじゃ、頼みましたよ」とだけ言って教室の中へ入っていってしまった。
「っちょ――!」
制止も間に合わない。
残されたのは、泣きそうな顔の緋色と、どう考えても面倒事を押しつけられた葵だけだった。
どうしたものかと考えていると、緋色がすっと目を細める。
涙目のまま、じり、と一歩詰め寄ってきた。
「――葵」
妙に低い声だった。
「もし手伝ってくれなかったら」
嫌な予感がする。
緋色は涙を浮かべたまま、しかししっかり葵を睨みつけて言い放った。
「――葵の黒歴史を、一つ残らずクラスメイトにばらす」
「――お兄ちゃんに任せろ!」
葵は即答した。
妹が困っているなら手を差し伸べる。
兄貴として当然のことだ。
……決して脅しに屈したわけではない。たぶん。
扉の横で待っていると、教室の中から山村先生の声が聞こえてきた。
『――体調不良で入学から今日までお休みされていましたが、今日から皆さんと一緒に勉強することになります。仲良くしてあげてくださいね』
続けて、やわらかな調子で言う。
『――それでは、入ってきて挨拶をお願いします』
教室の扉が開いた。
先に行って、と言うように、緋色が背中をつついてくる。
葵は小さく息を吐き、先に教室へ入ろうとした。
その瞬間、背中に妙な違和感を覚える。
振り向くと、緋色が制服の裾をぎゅっと握ったまま離していなかった。
「――いやいや、手を放せよ」
小声で言う。
だが緋色は、顔を真っ赤にしたまま全力で首を横に振った。
目が完全に助けを求めている。
(重症だな……)
このまま廊下でもたついていても仕方がない。
葵は半ば引きずるような形で、そのまま教室の前へ出た。
途端に、教室がざわつく。
『誰?』
『なんで紅君と一緒にいるの?』
『え、めっちゃ可愛くない?』
『やば、可愛い』
好奇心と驚きが混ざった視線が、一斉にこちらへ向く。
その瞬間、背後の緋色の指先にさらに力が入った。
制服の裾が引っ張られて、ちょっと苦しい。
「では、自己紹介をお願いします」
ざわめいた空気も気にせず、山村先生がにこやかに促す。
葵はちらりと緋色へ目を向けた。
顔は真っ赤。
口元は引きつり、目は泳ぎっぱなし。
どう見ても、今ここでまともに話せる状態ではない。
仕方なく、葵が先に口を開いた。
「体が弱くて、今日まで休んでたんですが……俺の妹です。見ての通り人見知りなんで、よかったら話しかけてやってください」
言ってから、内心で少しだけ虚しくなる。
自分だって筋金入りの人見知りだし、そもそも友達が一人もいない。
葵は小さく肘で緋色をつついた。
次はお前の番だ、と無言で促す。
「え、えと……」
緋色が、かすれそうな声で言う。
「紅……緋色と、言います……ヒロって呼んでください……」
そこまで言った瞬間、緋色は耐えきれなくなったように、葵の背中へ真っ赤な顔を押しつけた。
じわ、と背中越しに熱が伝わってくる。
熱でもあるのではないかと思うほど、体温が高い。
教室が再びざわついた。
『かわいい……』
『なにそれ……』
『紅君の妹なんだ……』
『妹……』
『尊い……」
そこから、案の定クラスメイトたちの質問攻めが始まった。
「体調はもう大丈夫なの?」
緋色は背中に顔を埋めたまま、小声で囁く。
「……大丈夫って言って」
「大丈夫です」
葵が代わりに答える。
「目、めっちゃ綺麗だけどどこのカラコン?」
「……自前って言って」
「自前です」
葵が答えるたびに、教室のあちこちで「えーっ」「すご」と小さな声が上がる。
(……めんどくさい)
しかも緋色は、万力みたいな力で葵の制服を掴んだまま、少しも顔を上げようとしない。
ここまで来ると、もはや自己紹介ではなく、兄同伴の代理応答会である。
「はいはい、質問は休み時間にしてね」
山村先生がぱん、と手を打った。
「とりあえず、緋色さんはお兄さんの近くの方が安心でしょうし、席は隣にしましょうか」
そう言って、空いていた葵の隣へ新しい机と椅子を手際よく運んでいく。
葵が自分の席へ戻ろうとしても、緋色はまだ背中から離れない。
「……ほら、もういいだろ」
小声で言っても反応がない。
完全に固まっていた。
なんとか指を一本ずつ制服から剥がし、ようやく緋色を席へ座らせる。
それから葵も、自分の席へ腰を下ろした。
その時だった。
背後から、ねっとりとした気配のようなものを感じる。
「……てえてえ」
山村先生が、なにか呟いたような気がした。
けれど葵には聞き取れなかった。




