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紅妖奇譚16

「――っ、は!」


 葵が目を覚ました。


 佳奈に憑依されてから先の記憶が、ひどく曖昧だった。

 水の底から急に引き上げられたみたいに意識だけが浮かび上がってきて、体が現実に追いついてこない。


「起きた?」


 緋色が顔を覗き込んでくる。


 泣きはらしたのか。赤い瞳の周りすら充血して真っ赤になっている。


 どうやら膝枕をされているらしい。

 後頭部に柔らかな感触と、じんわりとした体温が伝わってきた。


 けれど、心地よさに浸る余裕はなかった。

 高熱に浮かされた翌朝よりひどい。いや、比べものにならない。全身が鉛みたいに重く、指先ひとつまともに動かせそうにない。


 それでも――心の中だけは妙に澄んでいた。


 ああ、終わったのだ、と葵は思う。


 おそらく、佳奈はちゃんと成仏できたのだろう。


 目だけを動かして周囲を見回す。

 仏間にいるのは、浅葱と緋色、それから葵の三人だけだった。


 たぶん、葵が目を覚まさない間だけでも静かにさせようと、浅葱が斎藤家の人たちに席を外してもらったのだろう。


 正直助かった。

 妹に膝枕をされている姿なんて、誰にも見られたくない。


「……終わったのか?」


 喉が掠れて、声は思っていた以上に弱々しかった。


「……うん」


 緋色が小さく頷く。


「ちゃんと成仏できたみたい。お疲れ様」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがようやく解けた。

 あれだけ重くのしかかっていた佳奈の気配が、今はもうない。


「ところで、立てそう?」


「……無理」


 葵は正直に答えた。


「今は、全然動けそうにない」


 視界の端がちかちかと明滅している。

 力を入れようとしても、体のどこにも命令が届かない。霊に体を明け渡すというのが、ここまで消耗するものだとは思わなかった。


「仕方ないなぁ。おじいちゃーん」


 緋色が気軽な調子で呼ぶ。


 浅葱がすぐに近づいてきて、葵の体をひょいと抱き上げた。

 そのまま何をするのかと思えば、中腰になった緋色の背へ葵をおぶるような形で、手際よく乗せ直していく。


「……いやいやいや。なんで緋色におんぶなんだよ」


 葵はかろうじて抗議した。


「そこは普通、お爺ちゃんだろ」


 妹におぶわれる兄など、情けなさの極みである。

 しかも斎藤家の人たちの前だ。羞恥で死ねる。


「だって儂、袈裟姿じゃからの。着崩れるの嫌じゃし……」


 はったりのつもりで着ていたであろう袈裟姿のはずなのに。


 浅葱は実にどうでもよさそうな理由を口にした。


「我慢しなさい」


 緋色がしれっと言う。


 そのまま浅葱は襖を開け、居間にいる斎藤家へ声をかけた。


「お世話になりました。孫も目を覚ましたので、これで失礼します」


 間もなく、斎藤家の三人が戻ってきた。


 佳奈の母親は、葵たちの姿を見るなり、また目を赤くした。

 けれどさっきまでとは違う。あの顔には確かな安堵と、喪失の痛みと、それでも最後に娘と言葉を交わせたという救いが残っていた。


「……本当に、なんとお礼を言ったらいいか……」


 佳奈の母親が震える声で言い、次の瞬間にはその場へ膝をついていた。


「失礼なこともして、本当にすみませんでした……!」


 浅葱の額には包帯が巻かれているが、血はあまり滲んでいない。


 すでに出血は止まっているようだった。


 額が床に触れそうなほど深く頭を下げる。

 それに合わせるように、父親と秀まで揃って頭を下げた。


 あまりに真っ直ぐな土下座に、葵のほうが面食らう。


「……頭を上げてください」


 浅葱が穏やかに言った。


「儂は大したことはしておりません。この子たちが、お宅のお嬢さんを心から助けたいと動いた結果ですよ」


「儂は、少し手を貸しただけです」


「ありがとう……ございました……」


 母親は涙声のまま、何度も何度も頭を下げる。


 父親も、秀も、声は出ないまま深く頭を垂れている。


 緋色におぶわれたままの葵には、どうにも締まらない光景だった。

 こんな情けない格好で感謝されても困る。


「……ところで」


 佳奈の母親が心配そうに葵を見上げる。


「随分と顔色が悪いですけど、その子は大丈夫なんでしょうか」


 葵は返事をしようとしたが、うまく声にならなかった。


「心配いりませんよ」


 浅葱が代わりに答える。


「降霊は消耗の激しい術です。こやつの場合、未熟すぎて目を回しておるだけですわ」


 頑張った結果がこれである。


 情けなさに耐えきれず、葵は緋色の後頭部へ顔を埋めた。

 ふわりとシャンプーの匂いがした。こんな状況なのに妙に落ち着くのが悔しい。


「――では」


 浅葱が踵を返しかけた、その時だった。


 玄関のチャイムが鳴った。


 場の空気が、わずかに変わる。


 斎藤家の三人の表情が強張った。

 さっきまで泣いていた母親の肩がびくりと揺れる。父親は眉をひそめ、秀は露骨に顔をしかめた。


「……あれ? お客さんですか」


 間延びした声とともに、玄関から入ってきたのはスーツ姿の中年男が二人だった。


 一人は中年太りで腹が出ており、一人はげっそりと瘦せていた。

 額や首には脂汗がにじみ、ハンカチでしきりに拭っているせいで、かえって不快さが際立って見えた。


 その笑顔は、やたら愛想がいい。

 だが目だけは笑っていない。人の弱っているところへ土足で踏み込むことに慣れた顔だった。


「――あららら。もしかして壺、落としちゃいました?」


 男の一人が、廊下の片隅に寄せられた壺の破片を見て言う。


 その言い方に、葵の背筋が冷えた。


 軽い。


 人が死んだ家に上がり込んでおいて、まるで世間話でもするみたいな口調だった。


 その軽さが、葵にはひどく気味悪く思えた。

 さっきまで少しだけほどけかけていた斎藤家の空気が、またゆっくり濁っていくのが分かる。


「でも大丈夫ですよ」


 男は愛想笑いを崩さないまま言った。


「今日は新しいのが入ったんです。今までのより、もっと効果のあるやつでしてね」


 そう言いながら、高級そうな革鞄の中から、手のひら大の水晶を取り出す。

 曇りひとつない透明な玉だった。たしかに見た目だけは立派だ。けれど、その輝きにはどこか安っぽい作り物めいた寒々しさがあった。


「――こちらは、かの有名な蓮見法岳先生が念を込められた品でして――」


 その名前を聞いた瞬間、佳奈の両親と秀の顔色が目に見えて変わった。

 怯えと期待と疲労が混ざった、後悔の滲む顔だった。


「――ほう」


 浅葱が、静かに声を発する。


「蓮見法岳とな。この界隈で聞いたことがないの」


 穏やかな言い方だった。

 だが、その一言だけで場の温度がわずかに下がる。


 男の笑顔がひきつった。


「……なんですか、あなたは」


 警戒を滲ませながら言う。


「もしかして同業者ですか? 今はこのご家族の運命を変える大事なお話をしているところなんです。邪魔しないでいただきたい」


「……同業者、か」


 浅葱がゆっくり繰り返した。


「そう見えるか」


 次の瞬間だった。


 浅葱がすっと歩み寄り、二人の男の肩へ腕を回した。

 まるで旧知の仲にでも接するみたいに自然な動きだった。


「――っ、う」


 男たちの喉から短い呻きが漏れる。


 浅葱の腕は、ただ肩にかかっているだけに見える。

 なのに、二人の顔がみるみる青ざめていった。肩を外そうとしても、まるで巨大な岩でも乗ったみたいに身動きが取れない。


 老人とは思えない体格。

 そのたくましい腕の中に閉じ込められた途端、男たちは自分たちの立場が逆転したことを本能で悟ったのだろう。


「……お主ら」


 浅葱が、低く囁く。


「“業”が見えるの」


 その声は穏やかなままだった。

 怒鳴りも脅しもない。

 それなのに、男たちの脂汗が一気に噴き出す。


「それも、なかなかの業じゃな」


 浅葱の腕に、ほんのわずかに力がこもる。

 ただそれだけで、二人の男は顔を歪めた。


「――っ、な、何を……!」


 太った方の男が掠れた声を上げる。

 痩せた方も、引きつったように目を見開いていた。


 おかしい。


 浅葱の腕が肩に触れていたのは、ほんの一瞬のはずだった。

 なのに、まだ何かが肩に乗っているような重さが消えない。

 押し潰されそうな圧迫感だけが、皮膚の下へじわじわ染み込んでくる。


「――お前たちは呪われておる」


 浅葱が静かに言い放つ。


「今まで恨みを買った人間の数は、百や二百ではきくまい?」


 二人の顔から血の気が引いた。


 目線が浅葱から自分の体に移る。


 脂汗が首筋を伝い、ハンカチで拭う余裕すらなくなっている。


「……まずは、騙し取った金を返せ」


 浅葱の声は低い。

 だが妙によく響いた。


「それから、今まで恨みを買った人間たちへ、誠心誠意謝ることじゃ」


 一拍置く。


「……でなければ」


「――っ、いたぁっ!!」


 太った男が悲鳴を上げた。


 頬に、何かに引き裂かれたみたいな赤い筋が走っていた。

 浅くはない。じわりと血が滲み、それが見る間に頬を伝って落ちていく。


 無論、浅葱は指一本動かしていない。


 痩せた方の男も、急に息が詰まったように喉元を両手で押さえた。

 見えない何かに首を絞められているみたいに、目を白黒させている。


「自分の業に、殺されるぞ」


 その一言で、男たちの顔が完全に崩れた。


 何かを見たのだろう。

 いや、見せられたのかもしれない。


 二人は同時に悲鳴を上げた。


「「うわああああああああ!!」」


 水晶も鞄もかなぐり捨て、転がるように玄関へ向かう。

 肩をぶつけ合い、足をもつれさせ、それでも必死に逃げていく。

 さっきまで顔に貼りついていた薄ら笑いは、もう跡形もなかった。


 玄関の戸が乱暴に開き、そして叩きつけるように閉まる。


 その音が消えると、家の中には不気味なほどの静けさだけが残った。


 沈黙の中、足元に転がっていた水晶玉を、緋色がしゃがみ込んで拾い上げる。


 透明な玉の奥には、かすかに濁った光が揺れていた。

 ほんのわずかだが、何かしらの念は込められているらしい。


 古くから水晶は、霊力や念を溜め込む器になると言われている。

 それ自体は間違いではない。問題は、その中身だ。


 緋色は掌の上に水晶玉を乗せたまま、試すようにほんの少しだけ霊力を流し込んだ。


 次の瞬間。


 ――パァン!


 乾いた音が、静まり返った廊下に鋭く弾けた。


 水晶玉は内側から耐えきれなくなったようにひび割れ、

 一拍遅れて、砂糖菓子みたいに脆く砕け散る。


 細かな破片が緋色の手のひらからぱらぱらとこぼれ落ち、光を反射しながら床へ散った。


 緋色は砕け残った欠片を指先でつまみ、つまらなそうに眺める。


「……安ものね」


 緋色はそう言うと、砕けた欠片をまるで価値のない砂でも払うみたいに床へ捨てた。






 


 


 


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