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紅妖奇譚15

 ――姉ちゃんが死んだ。


 斎藤秀は、姉の部屋のベッドにうつぶせになったまま動けずにいた。


 ――どうして、こうなった。


 姉ちゃんは善良な人間だった。

 成績も良く、友達も多い。バスケ部でも後輩たちから慕われていて、自慢の姉だった。


 ――なのに、どうして。


 どうして自殺なんてしたのか。


 昔からの癖で、眉間に深い皺が寄る。


 秀がそういう顔をすると、姉ちゃんは決まって人差し指で眉間をつついてきた。


『秀くん。眉間、だーめ』


 そう言って、困ったように笑いながら優しくつつく。

 その声は、今でも鮮明に思い出せる。


 秀は自分の眉間を指先でなぞった。

 けれど、皺は少しも消える気がしなかった。


 思い出せば思い出すほど、涙があふれて止まらない。


 それに――昨日、警察署で見たあの動画。


 父さんには、見るなときつく言われた。

 それでも見てしまった。


 自分の姉が、無慈悲に強姦されるところを見てしまった。


 主犯は三年の大垣。

 けれど、その大垣も昨日死んだ。


 生まれて初めて、人を殺してやりたいと思った。

 なのに、殺したい相手はもうこの世にいない。


 やり場のない感情だけが胸の中に溜まり続けて、秀は昨日からずっとベッドから起き上がれずにいた。


 それに、葬式が終わってからというもの、家には見慣れない人間がよく出入りするようになった。


 一階へ下りるたび、居間には知らない物が増えている。

 曰く、天国へ行けるようになるありがたい陶器。

 邪気を払うという縄。

 そんなものばかりだ。


 いくらしたのかは知らない。


 姉ちゃんが死んでから、母さんはすっかり憔悴してしまった。

 そういうものでも心の支えになるなら、それでいいのかもしれない。


 でも、秀にはわからなかった。


 昨日から父さんと母さんが喧嘩している声が聞こえる。


 今まで両親が喧嘩するところなんて、ほとんど見たことがなかった。

 幼い頃に一度あったかどうか、その程度だ。


 さっきも一階で何かが割れる音がした。

 そのあと、母さんの泣き叫ぶ声と、父さんの怒鳴り声が続いた。


 家族が、どんどん壊れていく気がした。


 秀は耳を塞ぐ。


 佳奈の匂いがかすかに残る枕に顔を埋めると、少しだけ心が落ち着いた。



「――――」


 いつの間にか眠っていたらしい。


 ここ数日、夜はほとんど眠れていなかった。

 そのせいで、気づかないうちに寝落ちしてしまっていたのだろう。


 今日は三時から、また坊さんが来るはずだった。

 佳奈が少しでも成仏できるようにと、毎日のように経をあげてもらっている。


 枕元の時計を見る。

 時刻は昼の一時だった。


 いつもより少し早い。

 なのに、一階からはもう読経の声が聞こえてくる。


 体は重い。

 それでも秀は、のろのろと起き上がった。


 少しでも姉が楽になれるなら、その場にいたかった。


 


「――こんにちは」


 浅葱が玄関のチャイムを押し、出てきた女性に挨拶する。


 佳奈の母親だろう。

 顔立ちがよく似ていた。だが、連日泣き続けているのか、目は赤く腫れ、ひどく充血している。


「……こんにちは。あの、どちら様でしょうか」


 佳奈の母親は困惑したように言った。


 無理もない。

 いつも読経に来る僧侶とは違う、袈裟姿の大柄な老人。

 その後ろには、佳奈や秀と同じ白岩高校の制服を着た白髪の少年と、赤い瞳の少女が立っている。


 傍から見れば、かなり異質な取り合わせだろう。


「――これは失礼しました。儂はこの子たちの爺です」


 浅葱は柔らかく笑って頭を下げた。


「この子たちが、お宅のお嬢さんに生前よくしてもらっていたようでしてな。今日は線香をあげに参りました」


 一度言葉を切ってから、穏やかに続ける。


「それと、儂も坊主まがいのことをしておりまして……。もし差し支えなければ、少しだけお経をあげさせてもらってもよろしいですかな」


「……そうでしたか」


 佳奈の母親は疲れた顔のまま、それでも精いっぱい笑顔を作った。


「それでしたら、どうぞ。よろしくお願いします」


 そう言って、浅葱たち三人を仏間へ通す。


 葵が玄関へ足を踏み入れた瞬間、思わず目を見張った。


 廊下の隅に、粉々に砕けた陶器の破片が散らばっていたのだ。


 その視線に気づいたのか、佳奈の母親が苦笑いを浮かべる。


「ごめんなさいね。さっき、割れ物を落としてしまって」


 そう言いながら、箒で破片を端へ寄せる。


「怪我をしないように気をつけてくださいね」


 落としただけで、あそこまで細かく砕けるだろうか。

 まるで力任せに叩きつけたみたいな割れ方だった。


 葵は何も言わず、用意されたスリッパを履く。

 破片を踏まないよう気をつけながら、三人で仏間へ上がった。


 仏壇には、佳奈の遺影が飾られていた。


 夢の中で見る佳奈や、悪霊と化した佳奈の顔ばかり見てきたせいか、その写真は別人のように見えた。

 品のある顔立ちで、それでいて屈託のない笑顔を浮かべている。


 葵はしばらく、その写真から目を離せなかった。


 やがて仏壇の前に座り、手を合わせる。

 線香をあげ、緋色と交代で静かに拝んだ。


 その後、浅葱が読経を始める。


 腹に響く声だった。

 だが決して大声などではなく、どこまでも静かで、優しい声色だった。


 いつの間にか、佳奈の父親も仏間へ来ていた。

 うつむいたまま、じっと浅葱の読経を聞いている。


 やがて読経が終わると、浅葱は静かに頭を下げた。


「――このたびは、ご愁傷さまでした」


「いえ……。わざわざお経まであげていただいて、ありがとうございます」


 佳奈の母親が、涙声で礼を言った。


「……あの子、最後に何を思っていたんでしょうね」


 絞り出すような声だった。


「私、何も気づいてやれなかったんです。苦しんでいたのに、ずっと……」


 その言葉に、葵は息を呑んだ。


 佳奈が、母親のすぐそばまで来ていた。

 黒い靄をまとったまま、それでも泣きそうな顔で母親へ手を伸ばしている。


 届かない。

 触れられない。

 指先は、母親の頬まであとほんの数寸のところで空を切る。


 それでも佳奈は、何度も、何度も手を伸ばしていた。

 泣きたいのを堪える子供みたいな顔で。

 置いていかれたくないと縋るみたいに。


「……佳奈先輩」


 気づけば、葵は小さく呟いていた。


 佳奈の母親が、はっと顔を上げる。


「え……?」


 しまった、と思った時にはもう遅い。


 浅葱が、静かに言葉を継いだ。


「……信じてもらえんかもしれませんが、お嬢さんは、まだここにおられるようです」


 一瞬、仏間の空気が凍りついた。


 線香の煙だけが、細く揺れている。

 佳奈の母親の目が、怯えたように揺れた。

 父親は露骨に顔をしかめ、まるでそれ以上聞きたくないとでも言うように唇を引き結ぶ。


「……ご家族が望まれるなら、最後に言葉を交わせるかもしれません」


 その時だった。


「ふざけんな!!」


 仏間の入口から怒鳴り声が飛んだ。


 振り向くと、秀が立っていた。

 目は真っ赤で、肩は大きく上下している。

 顔色は悪く、眠れていないのが一目でわかった。


「もうやめてくれよ……!」


 声が裏返る。

 怒鳴っているのに、その奥では今にも泣きそうだった。


「姉ちゃんが死んでから、変な奴らが家に来て……わけのわかんないものばっかり売りつけて……! 天国に行けるだの、邪気を払えるだの、そんなの全部詐欺じゃねえか!」


 秀は浅葱を睨みつける。

 その目には怒りだけじゃなく、怯えと嫌悪と、どうしようもない疲弊が浮かんでいた。


「今度は何だよ! 姉ちゃんと話せるって言うのか!? それでいくら取るんだよ!?」


 視線が葵と緋色へ走る。


「それに、お前らも知ってる! 同じ一年の紅兄妹だろ! 嘘ばっかりつくって有名なんだよ!」


 そう叫ぶと、秀は手に持っていた小さな壺を浅葱へ向かって投げつけた。


 浅葱は避けなかった。


 壺が額に直撃し、鈍い音を立てて砕ける。

 畳へ破片が飛び散り、浅葱の額から血が一筋、ゆっくり流れ落ちた。


「――っ、何を!」


 緋色が立ち上がる。

 だが浅葱は片手でそれを制した。


「よい」


 短く言って、秀を見る。

 怒りも責める色もない、静かな目だった。


「……お前さんがそう思うのも無理はない」


 その声の穏やかさが、逆に秀を追い詰める。


「一般には降霊術と言う。東北では口寄せとも言うが――」


「やめてくれ!!」


 今度は佳奈の父親が怒鳴った。


 立ち上がる勢いのまま浅葱の胸ぐらを掴み、乱暴に揺さぶる。


「今度はいくら取る気だ!? さっき秀が投げた壺だって二十万したんだぞ! その前に俺が玄関で叩き割った壺は五十万だ! あんたたちに人の心はあるのか!?」


 父親の声は怒鳴り声の形をしていたが、実際は悲鳴に近かった。

 限界だった。

 娘を喪い、妻は壊れ、息子は泣きながら怒鳴っている。

 そんな中で差し出された“最後に話せるかもしれない”という言葉は、救いであると同時に、また騙される恐怖でもあった。


 それでも浅葱は落ち着いたまま言う。


「……金など要りません」


「救いたいという心と、霊を受ける器さえあれば、それは決して難しいことではない」


「――っ、この……!」


 秀が堪えきれず、浅葱の頬を殴った。


 鈍い音が仏間に響く。

 浅葱の顔がわずかに横へ流れる。


 もう一度殴ろうと、秀が拳を振り上げた、その瞬間――


『――秀くん。眉間、だーめ』


 最愛の姉の声がした。


 秀の動きが止まる。


 仏間にいた全員が息を呑んだ。


 目の前にいるのは姉ではない。

 白い髪の紅葵だ。

 少年の体で、肩幅も違う。声の高さだって違うはずなのに。


 それなのに。


 その言い方も。

 そこに滲む困ったような優しさも。

 眉間を指でつつく癖も。


 間違えようがなかった。


 葵は――いや、佳奈は、泣きそうに微笑みながら秀の眉間を人差し指でそっとなぞる。


『――秀くん。眉間、だーめ』


 秀の喉がひゅっと鳴る。

 拳が、音を立てて震えた。


 葵の意識はある。

 だが体は動かせない。

 全身の奥へ、佳奈の感情だけが濁流みたいに流れ込んでくる。


 懐かしい。

 愛しい。

 会いたかった。

 ごめんなさい。

 ありがとう。


「……佳奈?」


 佳奈の母親が、目を見開いたまま呟いた。


 目の前にいるのは白髪の少年だ。

 どう見ても佳奈ではない。


 けれど――今の声も、今の仕草も、あまりにも佳奈そのものだった。


『ママ、パパ。喧嘩は秀くんの前ではしないって決めてたでしょ?』


 その言葉に、両親の顔色が変わる。


 昔、秀がまだ小さかった頃。

 激しい夫婦喧嘩のあと、高熱を出して病院へ運ばれたことがあった。

 それ以来、秀の前では絶対に喧嘩をしないと二人で約束したのだ。


 そんなことを知っているのは、家族だけだった。


「――ちが……」


 父親が後ずさる。

 否定しようとしたのに、その先が続かない。

 喉が震えて、言葉にならない。


『……パパ。誕生日にくれた時計、ありがとう』


 佳奈は泣きそうな声で笑った。


『本当は、初任給で無理して買ったくせに、平気な顔して渡してきたでしょ。かっこつけちゃって』


 父親の顔が、ぐしゃりと歪む。


「……佳奈……」


『でも、すごく嬉しかった。ずっと大事にしてたよ。壊しちゃって……ごめんなさい』


「佳奈ぁ……!」


 母親が堪えきれず、葵の――佳奈の体へ抱きついた。

 父親も、遅れてその肩を掴む。

 二人の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。


「なんで……なんで自殺なんてしたの……!」


 母親の声は泣き崩れていた。


『……ごめんなさい』


 佳奈の声が震える。


『何も考えられなくなってたの。苦しくて、怖くて……もっと早く、ちゃんと相談すればよかった……』


「――違う!」


 父親が嗚咽混じりに叫ぶ。


「俺が、俺がもっとお前の変化に気づいていれば……!」


「俺だって……!」


 秀も涙を流しながら叫んだ。


「姉ちゃん、ずっときつそうだったのに……! 俺、何も言えなかった……!」


「私も……!」


 母親の声がしゃくり上がる。


「私も、もっと早く気づいていれば……!」


 佳奈は首を振る。


『……違うよ。みんなは何も悪くない』


 借り物の体である葵の目から、涙がとめどなく溢れていく。

 佳奈の悲しみと愛しさがそのまま流れ込んでくる。


『私のせいで、家の中……めちゃくちゃにしちゃったね』


 その言葉に、斎藤家の三人が一斉に顔を歪めた。


 佳奈が死んでから、この家は確かに壊れかけていた。

 母親は何かに縋るようになり、父親は怒鳴り、秀は一人で抱え込んでいた。


『……ママ。今まで育ててくれてありがとう。ママの作るハンバーグ、大好きだったよ』


 母親が、子供みたいに首を振る。

 泣きじゃくって、声にならない声を漏らす。


『……パパ。夜中にこっそりお酒飲んでるの、知ってたよ。でも、いつも疲れてるのに送り迎えしてくれてありがとう』


 父親が顔を覆う。

 肩が大きく震えている。


『……秀くん。喧嘩もいっぱいしたけど、自慢の弟だったよ。看護師になりたいんでしょ? 眉間に皺寄せる癖、ちゃんと直しなよ』


 そう言って、秀の眉間をもう一度そっとなぞる。


「……姉ちゃん……」


 声が、子供みたいに震える。


 葵とダブっている佳奈の輪郭が少しずつ薄れていく。

 声も、仕草も、光にほどけるみたいに遠くなっていく。


 憑依の時間が終わりに近づいてきている。


『……死んじゃったけど、今までの人生、本当に幸せだった』


『最後は色々あったけど……ママとパパの子どもでよかった……秀くんが弟で……本当に……よかっ……た……』


「やだ……!」


 母親が泣き叫ぶ。


「まだ……まだ話したいこと、いっぱいあるのよ……!」


『……私も……まだ……話したいこと……いっぱい……ある……』


 声が途切れ途切れになる。


『でも……もう……時間みたい……』


 佳奈が泣きそうに笑う。

 その笑顔が、遺影の中の佳奈と同じだった。


『……みんな……私に囚われないでね……』


『……まだ……まだ人生は……続くんだから……幸せに……なって……』


『……みんな……みんな……本当に………………』


 憑依が、ゆっくりと解けていく。


 その刹那――


「――緋色!!」


 浅葱が叫んだ。


 緋色が目にも留まらぬ速さで三枚の札を佳奈の両親と秀へ貼りつける。


 次の瞬間。

 淡い光に包まれた佳奈の姿が、三人の目にもはっきりと映った。


 黒い靄はもうなかった。

 ただ、泣きながら優しく微笑む、あの日のままの佳奈がそこにいた。


 母親が息を呑む。

 父親が震えながら手を伸ばす。

 秀は目を見開いたまま、その場に立ち尽くす。


 佳奈はそんな家族を見渡して、最後に――本当に最後に、幸せそうに笑った。


『……愛してる』


 その言葉を残して、佳奈の体は淡い光となり、朝靄みたいにやわらかく消えていった。


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