紅妖奇譚13
家に帰ると、玄関の鍵が開いていた。
確か、鍵はかけたはずだ。
訝しく思いながら扉を開けると、見慣れた草履が並んでいた。
「おう。おかえり」
奥から、体格のいい老人が姿を見せる。
白髪の混じった頭はきちんと整えられ、白い無精髭がよく似合っていた。七十歳とは思えないほど体には筋肉がついていて、背筋もしゃんと伸びている。
紅浅葱。
その界隈では知らぬ者がいないほどの有名な祓い屋で、仕事のたびに各地を飛び回るため、家を空けることも多い。
そして――捨て子だった葵と緋色を拾ってくれた人でもある。
「――おじいちゃああああ!!」
葵の背後から、緋色が弾丸みたいに飛び出した。
浅葱は少しもよろけずにそれを受け止めると、そのままひょいと肩へ担ぎ上げる。
「葵もおかえり。今日は早かったな」
浅葱の一か月ぶりの帰宅だ。
本当は葵も緋色みたいに飛びつきたい。けれど、気恥ずかしさの方が勝ってしまい、結局その場に立ったままでいる。
「すーはー、すーはー」
肩に担がれた緋色が、浅葱の匂いを吸い込むみたいに深呼吸している。
「……葵。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが――何かあったみたいだの」
浅葱が優しく笑う。
「……うん」
「すーはー、すーはー」
「ええい! 老人の加齢臭を嗅ぐでない!」
浅葱が緋色に突っ込む。
「良い匂いだよー」
緋色はけろりと言って笑った。
「土産はたくさん買ってきた。立ち話もなんだし、茶でも飲みながら話そうか」
そう言ってから、浅葱は葵の背後へ目を向けた。
「その子も一緒にの」
そこには、まだ葵に取り憑いたままの斎藤佳奈が立っている。
邪気をまとい、どう見ても悪霊の姿なのに、浅葱の声は穏やかだった。
「君も上がりなさい」
まるで孫の友達でも迎えるみたいな、自然な口調だった。
「……葵。最初に言っておくが、焦らんでいい。全部話さなくてもいい。お前のペースで、落ち着いて話しなさい」
ちゃぶ台の上には湯気の立つお茶と、浅葱が買ってきたらしい各地のご当地菓子が並んでいた。
緋色は浅葱の腹へ正面から突っ込み、猫吸いならぬ“爺吸い”を堪能している。
時々菓子をつまんでは、また浅葱に顔を埋める。
緊張感の欠片もなかった。
「――実は」
葵はぽつぽつと話し始めた。
まとまりのない、拙い説明だった。
佳奈の自殺。
その原因。
大垣のこと。
そして田淵のこと。
田淵については、まだうまく言葉にできず、ところどころ曖昧に濁した。
それでも浅葱は時折頷きながら、最後まで真剣に耳を傾けてくれた。
話し終えると、浅葱が静かに葵を見つめる。
「……葵。辛かったの。……そして、すまんかった」
そう言って、浅葱は頭を下げた。
「――え」
予想もしていなかった反応に、葵は目を見開く。
「……お前が何かに悩んでいるのは知っておった。だが、儂は声をかけなかった。……いや、かけれなかった」
浅葱は苦く笑った。
「男親というのは不器用での。悩んでいると分かっていても、どう声をかければいいのか分からなんだ」
一度、息を吐く。
「今のお前を見ていると、もう少し早く声をかけてやればよかったと思うよ」
「――違う」
爺ちゃんは悪くない。
そう言おうとして、言葉が喉に引っかかった。
本当は、自分の方こそ意地を張らずに相談すればよかったのだ。
「――だがの」
浅葱が穏やかに続ける。
「全部を聞いたわけではない。だが、お前が自分の力でその問題を乗り越えたことは分かる」
一呼吸置いてから、浅葱は言った。
「――よく頑張ったの」
その一言で、葵の目から涙があふれた。
けれど、緋色の前で、しかも浅葱の前で泣くのは気恥ずかしい。
「――じいちゃあああああ!」
照れ隠しも込めて、葵は緋色と同じように浅葱の腹へ飛び込んだ。
ただし先客がいたので、隣で遠慮がちに“爺吸い”をする。
「ええい! 二人して匂いを嗅ぐな!」
そう言いながら、浅葱は二人の頭を優しく撫でた。
「私も頑張った!」
「ああ、ああ。緋色も偉い」
わしゃわしゃと髪を撫でながら、浅葱が笑う。
「さっきはああ言ったが――葵。お前が自分で悩んで、自分なりの答えを出したことは、これからの人生で一番の糧になる」
浅葱の声は、まっすぐだった。
「胸を張れよ」
葵の目から、また涙がこぼれる。
うつ伏せのままなので、その涙は浅葱のズボンへ吸い込まれていった。
涙が乾くまで、しばらく葵はそのままでいた。
「――この子が件の斎藤嬢か」
浅葱が、葵の背後に立つ佳奈へ目を向ける。
「……なるほど。色々と思うところがあるようじゃの」
大垣への復讐を果たしてなお、佳奈は成仏できずにいる。
復讐こそが一番の願いだと思っていた葵と緋色には、もうお手上げだった。
「……斎藤先輩をこんな目に遭わせた張本人に復讐したのに、なんで成仏できないんだ?」
葵が尋ねると、浅葱は静かに答えた。
「復讐も願いの一つではあったんじゃろう。だが、本質はもっと別のところにある」
「夢の中で何か言ってた気はするんだけど、よく聞き取れなくて」
「それは、お前が知ろうとしておらんからだ」
浅葱の声は責めるものではなかった。
「葵。お前は、斎藤嬢と対話しようとしたことはあるか?」
「それは――」
言葉に詰まる。
これまで佳奈から一方的に記憶を流し込まれることはあっても、こちらから話しかけようと思ったことはなかった。
「……まずは対話してみるか。話はそれからじゃな」
佳奈も含めた四人で、離れへ入る。
そこはちょっとした道場ほどの広さがあり、普段は緋色が稽古に使っている場所だった。
「対話って、どうやるの?」
葵は眉をひそめた。
今まで霊と意思疎通なんてしたことがない。いつも一方的に思いや記憶を流し込まれるばかりで、こちらから話しかけるという発想自体がなかった。
浅葱はそんな葵を見て、ふと問いかけた。
「ところでお前たちは、人と話す時にどんなことを気にしておる?」
「「……ひと……と……はな……す?」」
葵と緋色が顔を見合わせ、そろって首を傾げる。
どうやって人と会話するんだったか。
忘れちまったぜ。
「……孫がこみゅ障で辛いばかりじゃ……」
浅葱が肩を落とす。
「儂の教育が悪かったのかのう……」
「まあいい、基本は相手のことを知ろうという気持ちじゃよ。相手に興味を持てば、自然と話題も出るし、会話も続く」
「「……うーん」」
「……続けるぞ」
浅葱は少し悲しそうな顔のまま話を戻した。
「大事なのは誠意じゃ。相手に心を開いてもらうには、それ相応の誠意が要る」
「あなたのことを知りたい。悩みを打ち明けてほしい。そういう気持ちを持って向き合うんじゃよ」
そう言いながら、浅葱は離れの床におもむろにマジックで円を描き始めた。
直径は二メートルほどだろうか。円の内側には、達筆な文字で次々と呪文が書き込まれていく。
「……つまり、この円陣の中で霊と話ができる……と?」
「察しがいいの、緋色。まあそういうことじゃな」
浅葱に促され、葵は円の中へ入った。
大垣が死んでから、どこかぼんやりとしていた佳奈の手を、浅葱がそっと取る。
まるで怯えた子どもを導くみたいに、ゆっくり円の中へと導いた。
続いて浅葱は懐から水晶の数珠を取り出し、葵へ手渡す。
「何度も言うが、必要なのは相手を知りたいという心じゃ」
「その数珠を握って唱えろ」
「いいか?」
「おんかかかびさんまいえいそわか」
初めて聞くはずの呪文なのに、不思議と頭にすっと入ってきた。
――相手を知りたいという心。
葵は佳奈の目を真っ直ぐ見つめる。
「……こうやって話すのは初めてですね。今まで散々記憶を覗き見て、すみませんでした」
呼吸を整え、言葉を続ける。
「俺でよければ、どんな未練があるのか教えてください」
数珠を握りしめ、もう一度唱える。
「おんかかかびさんまいえいそわか」
気づけば、葵は暗闇の中に立っていた。
夢の中だ。
そう分かるくらい、今までとは違って意識がはっきりしている。
見覚えのある景色。
どこまでも広がる暗闇。
『……たい』
かすれた声が響く。
暗闇の中には、大垣や田淵に嬲られる佳奈の姿があった。
怒り。殺意。後悔。
それらが濁流のように葵へ流れ込んでくる。
(……違う)
葵は歯を食いしばる。
(この光景も佳奈先輩の後悔だ。だけど、本質はもっと別のところにある)
知りたい。
もっと知りたい。
佳奈が、なぜ成仏できないのか。
数珠を握る手に力がこもる。
頭痛と吐き気が強まる。視界が歪む。
それでも、引かない。
知りたいと願えば願うほど、暗闇が少しずつ薄れていく。
『……たい』
――もっと。
『――いたい』
――もっとだ!!
次の瞬間、葵の脳裏に浮かんだのは、まるで別の景色だった。
佳奈が両親と弟と一緒に、ピクニックへ出かけている。
暖かな日差しの下で、みんなが笑っている。
何でもない、けれど確かに幸せだった時間。
その光景の中で、佳奈が泣いていた。
『――家族に……”会いたい”』
その言葉がはっきり聞こえた瞬間――葵は目を覚ました。
「――葵! 大丈夫!?」
気がつけば仰向けに倒れていて、緋色が心配そうに顔を覗き込んでいた。
全身から冷や汗が噴き出している。
まるで高熱を出して寝込んだあとみたいに、体が重い。
涙が止まらなかった。
「――っ、はあ!」
ようやく空気を吸い込み、葵は大きく息をつく。
「……話はできたか?」
浅葱が静かに尋ねる。
「……うん」
葵は掠れた声で答えた。
家族に“会いたい”
佳奈の願いは、それだけだった。




