紅妖奇譚11
教室に入ると、体格のいい男が二人、床に転がっていた。
一人は完全に意識を失い、もう一人は身動きできないのか、喉の奥で呻いている。
「……加勢は?」
満身創痍の葵は、自分が役に立たないことを分かった上で、それでも緋色に尋ねた。
「いると思う?」
緋色は振り返りもせずに言った。
窓際には大垣が高みの見物でもするように立っている。
その手前で、緋色は三人に囲まれていた。
全員、葵よりはるかに大きい。体育会系の体つき。
金属バットが、弱いライトに鈍く光っている。
普通なら絶体絶命だ。
だが緋色は、少しも慌てていなかった。
半身に構え、両手を前に出す。
男の一人が、バットを振りかぶった――その瞬間。
緋色の掌底が男の顎を撃ち抜いた。
重い衝撃音。
男の目が一度、空を向き、そのまま崩れ落ちる。
間髪入れず、緋色は身体を捻った。
もう一人へ、後ろ回し蹴り。
葵の見様見真似なんかじゃない。
洗練されていて、迷いがない。
体重差が倍以上ありそうな男が、床を滑って二メートルほど吹き飛んだ。
「う、うあああああああ!!」
残った最後の一人は狼狽え、やぶれかぶれにバットを振り上げた。
長身を活かし、上から叩きつけるつもりだ。
――来る。
葵がそう思った瞬間、緋色が後ろへ跳んだ。
バク転。
次の瞬間、宙返りの勢いのまま、つま先が男の顎を捉える。
男の身体が、音もなく崩れた。
葵は呆然と息を呑む。
(……サマーソルトキック)
緋色と二人で遊んでいたゲームのキャラクターの必殺技だ。
「……最後のは絶対、悪ふざけだろ」
葵が呆れたように言うと、緋色は頬を赤くした。
「……こんな機会、そうないから。一回はやってみたくて」
(やってみたくて、できる技じゃないんだよな……)
規格外の身体能力に、葵は苦笑いするしかない。
緋色はすぐに表情を切り替え、窓際に立っていた大垣へ声を投げる。
「……それで?」
赤い瞳がまっすぐ向く。
「増援、もういないけど。どうするの?」
言葉は軽いのに、圧がある。
「やっぱり自首する? 自首してくれた方が、話が早いんだけど」
大垣の口元が歪んだ。
「……今まで散々甘い汁を吸わせてやったのに、役に立たないな」
先ほどまでのにこやかな雰囲気は、跡形もない。
大垣が歩いてくる。
さっきの男たちより、さらに一回り大きい。
身長は百八十を越えているだろう。肩幅も厚い。筋肉のつき方が“動ける人間”のそれだった。
足元に転がっている金属バットには目もくれない。
まるで最初から、武器なんて必要ないと言わんばかりに。
緋色の前で止まる。
緋色の身長は、大垣の胸元あたりまでしかない。
こうして並ぶと、単純な体格差だけで圧がある。
「武器は使わないの?」
緋色が尋ねる。
大垣は鼻で笑った。
「君、バットを振りかぶる瞬間の隙を狙ってたよね」
冷静に分析する声が、逆に気持ち悪い。
「だったら慣れた方法の方がいい」
大垣は肩を落とし、両手を胸の前に上げた。
柔道か、レスリングか。とにかく“組み”の構えだ。
「体重差もある。君はずいぶん軽そうだ」
にじり寄る。
「組み伏せた方が早いと思ってね」
緋色は一歩も下がらない。
赤い瞳だけが、静かに大垣を見据えている。
勝負は一瞬だった。
大垣が緋色の胸ぐらを掴もうとした、その瞬間。
緋色は大垣の腕を取った。
体重差なんて最初から存在しないみたいに、重心をずらし――
次の瞬間、見事な一本背負いが決まる。
「――っが!?」
大垣の体が宙を舞い、背中から床に叩きつけられた。
息が止まったのか、喉がひゅ、と鳴る。
緋色は見下ろしながら、冷たく言い放つ。
「柔道? 柔道なら私に勝てるとでも?」
大垣が咳き込みながら体を起こそうとする。
そして――先ほどまでの理屈も余裕も捨てたように、足元の金属バットへ手を伸ばした。
緋色はためらいなく、その手を踏み止める。
靴底が手の甲に沈む。
「……っ!」
大垣が顔を歪めた。
緋色は反対の足を、頭上まで高々と上げる。
股関節が柔らかいのか、軸足と振り上げた足の角度はほとんど一直線――百八十度に近い。
そして、振り上げた勢いを殺さないまま。
大垣の頭上に踵が落ちた。
鈍い衝撃が響き、大垣の体がびくりと跳ねた。
偶然なのか、葵の決着と似た構図になる。
けれど――完成度が違う。
葵は息を呑む。
(……同じ技でも、ここまで違うのか)
昨夜の兄妹喧嘩が無事に済んだのが信じられない。
きっと緋色が、手加減してくれていたのだろう。
「――さあ。帰ろうか」
緋色が振り返り、笑顔で葵の方へ近づいてくる。
机のライトが葵の顔を照らした。
緋色の表情が、ふっと変わる。
「……お、おお」
緋色の目が見開く。
「……か、勝ったの?」
葵は苦笑する。
「……楽勝だ」
鏡で見ていないが、たぶん顔はボコボコだ。
痛みが遅れてじわじわ来ている。
「――っぷ」
緋色が吹き出す。
葵もつられて笑う。
――その瞬間だった。
完全に油断していた。
暗闇から、顔を血で汚した大垣が飛び出してくる。
「――緋いろーー!!」
手には、筒状の器具。
注射器というより、“押し当てて打ち込む”タイプのそれだった。
オートインジェクターという奴だろうか。
(……やばい)
葵の背中が冷たくなる。
咄嗟に緋色の名前を叫ぶ。
葵は間に合わない。
大垣は迷いなく、緋色の首筋へそれを突き立てようとした。
――次の瞬間。
緋色の裏拳が、大垣の顔面を打ち抜いた。
鈍い音。
普通ならそこで終わるはずなのに、大垣の目は死なない。
なおも突っ込んでくる。
緋色は冷静だった。
大垣の手首を掴み、捻る。
体勢を崩した大垣の腕が内側に折れ、オートインジェクターが大垣の腹へ刺さった。
一瞬、静寂。
次いで、暗闇を切り裂くような悲鳴が教室に響いた。
「ああああああああああああああ!!!!」
大垣は腹を押さえてよろめき、壁に手をつく。
汗が一気に噴き出し、呼吸が浅くなる。
「お、お前……! お前!!」
歯ぎしりする声。
「なんてことを……! これがどんな薬か知ってるのか!!」
緋色は眉ひとつ動かさない。
「随分な言いようね」
冷たく言い返す。
「それを私に刺そうとしたんでしょうが」
大垣の瞳孔が、わずかに揺れた。
――葵は気づく。
この反応。
この必死さ。
「……ハーヴェスト」
あの動画で聞いた名だ。
人を壊す薬。
緋色はゆっくり大垣に歩み寄った。
赤い瞳が、逃げ道を塞ぐみたいにまっすぐ向く。
「ねえ」
声が冷たい。
「……それ、佳奈先輩に使ったんでしょ?」
大垣が答える前に――緋色が動いた。
後ろ回し蹴り。
大垣の腹に叩き込まれた瞬間、巨体が浮く。
三脚や機材を巻き込みながら床へ転がり、ライトが跳ねて影が乱れた。
「地獄に落ちろ」
緋色の声は、吐き捨てるみたいに静かだった。
葵は思った。
――これで終わりだ、と。
緋色も一瞬だけ肩の力を抜いた。
葵の方へ視線を投げる。無事か確認する、その刹那。
「――っはは」
暗闇から、笑い声がした。
「はははは……」
葵の背中が冷える。
床に転がっていたはずの大垣が、ゆっくり起き上がっている。
腹を押さえるでもない。痛がるでもない。
血で汚れた顔のまま、笑っていた。
「……やばい薬だとは知ってたけど」
舌が回っている。
やけに楽しそうに。
「使ってみたら、意外といい薬じゃないか」
瞳孔が開いている。まばたきが異様に少ない。
「痛みがない。……気分が……イイ!」
不気味な笑みを貼りつけたまま、大垣が緋色へ突っ込んだ。
緋色は冷静に拳をいなす。
肩をずらし、足を運び、当たるはずの軌道から外していく。
「すっごいハイになってんじゃん」
緋色が言いながら、顎に掌底を叩き込む。
普通なら意識が飛ぶ一撃。
大垣はのけぞり、後頭部から床へ倒れた。
――が。
「……っ、全ッ然!! 効がねえ!!」
すぐ起き上がる。
首を鳴らして、血だらけの顔で笑いながら再び緋色に襲い掛かる。
痛覚が壊れている。
恐怖も壊れている。
「うわわわわわわ。バイオハザード!!」
両の掌底で胸を打ち抜く。
大垣は吹き飛ぶ――それでも、立ち上がる。
異質。
まるで、人の形をした別物。
「緋色! 逃げろ!」
葵は反射で飛び出した。
体当たり。
大垣が少しだけよろめく――だが、体重差がありすぎる。
次の瞬間、葵の胸ぐらが掴まれた。
(しま――)
壁に、背中から叩きつけられる。
「――っが!!」
肺から空気が全部抜けた。
息ができない。視界が白く跳ねる。
(……こんな化け物と)
緋色は、さっきまで一人で相手をしていたのか。
大垣が足を上げる。
影が葵の視界を覆う。
踏み下ろす気だ。
冗談じゃない重さが、その動きに乗っている。
無慈悲な一撃が落ちてくる――その瞬間。
横合いから衝撃。
緋色の飛び蹴りが大垣の背中を撃ち抜き、巨体が吹き飛んだ。
そのまま緋色が着地する。
……着地地点は、倒れている葵の上だった。
緋色の尻が、葵の腹にめり込む。
「っおふ!」
「ごめん。着地ミスった」
「今のが一番ダメージでかいかも」
「うるさい」
緋色が軽く葵の頭をはたく。
葵は咳き込みながらも、視線を大垣へ戻した。
「……さっきの」
緋色の声が低くなる。
「葵を殺すつもり?」
あの踏み下ろしをまともに受けていたら――冗談じゃ済まなかった。
緋色の赤い瞳が、すっと冷える。
「……あったまきた」
小さい声なのに、教室の空気が変わった。
大垣は何事もなかったみたいに起き上がる。
血だらけの笑みを貼りつけたまま、懲りずに突っ込んでくる。
「――ぶっ殺してやるよおおお!!」
緋色は一歩も引かない。
拳が、大垣の腹に吸い込まれた。
鈍い衝撃音。
たまらず大垣が前かがみになる。
次いで、膝。
顔を蹴り上げられ、大垣の上体が反り返る――だが背後は壁だ。逃げ場がない。
「――っ、ふぅ……」
緋色が息を吐く。
中腰になり、一瞬で大垣の懐へ潜り込んだ。
緋色の背中が、大垣の腹へ軽く触れる。
「――鬼脅し」
次の瞬間。
床板が、ばき、と鳴った。
空気が爆ぜるような轟音。
壁が貫通し大垣の体がとなりの教室まで吹き飛ぶ。
(……鉄山靠的なわざ?)
葵の頭に、中国武術の名前が浮かぶ。
だが――威力が比べものにならない。
大垣は隣の教室へ転がり込み、床に叩きつけられて動きを止めた。
白目を向いている。
だが胸は上下している。――死んではいない。
深夜の旧校舎に、ひどく不自然な静寂が落ちた。
「……終わったな」
葵が言うと、緋色は首を振る。
「ううん。まだ」
緋色はポケットから、くしゃくしゃに丸まった紙片を取り出した。
指先で皺を伸ばすと、それは札の形をしていた。
「なんだそれ」
「真朱姉の試作品」
緋色は札をひらりと揺らし、大垣の方へ歩いていく。
寝ている大垣の横にしゃがみ込み、緋色は札を大垣の額に押し当てた。
短く何かを呟き、指で縁をなぞる。
瞬間。お札が一瞬で燃え上がり焼失する。
「……どういう効果?」
葵が尋ねる。
「しばらくの間、私たちと同じようになるだけ」
緋色は淡々と言った。
「つまり――霊が見えるようになる……らしい」
言いながら、少しだけ肩をすくめる。
「失敗作だから、どう転ぶかは分かんないけどね」
その瞬間、葵はふっと肩が軽くなるのを感じた。
そして、今まで葵の後ろにあった気配が大垣に移るのを肌で感じる。
「……な、なんだ?」
大垣が目を覚ました。
焦点の合わない目。
次の瞬間、視線が一点に吸い寄せられ、一気に青ざめる。
大垣の目の前に――斎藤佳奈が立っていた。
生者には見えないはずの存在。
だが札のせいで、大垣は“見えてしまう”。
佳奈の影が大垣に重なり、冷たい気配が貼りつく。
――取り憑いた。
『……たい』
佳奈の声は、声というより、喉の奥を擦る音みたいに掠れていた。
佳奈の指が、大垣の首元へ伸びる。
大垣は引き攣った声を上げた。
「な、なんでだ!? お前は死んだはずだろ……!」
『……たい』
同じ言葉。
「う、うわあああああああ!!」
大垣は半狂乱になり、教室を飛び出した。
足音が廊下を叩き、遠ざかっていく。
葵は息を吐いた。
「……タフすぎだろ」
あれだけ食らって、まだ走れるのか。
緋色が大垣の去った暗闇を見つめ、静かに言った。
「あとは佳奈先輩に任せよう」
緋色が振り返り、短く一言。
「帰ろう」
長かったこの事件もようやく終わった。




