紅妖奇譚10
昨夜と同じように、葵は緋色と並んで旧部室棟へ向かった。
不安が消えたわけじゃない。
けれど、準備はしてきた。どう声をかけるかも。最悪の想定も――全部。
だからだろうか。昨日より足取りが軽い。
旧部室棟の前に辿り着くと、葵は一度だけ深呼吸した。
冷たい空気が肺の奥に刺さる。
ゆっくり扉を押し開ける。
――中に人の気配はない。
代わりに、棚の上。
昨日緋色が置いた書き置きの場所に、一枚の紙が置かれていた。
葵はペンライトを当て、文字を追う。
短い文。
『旧校舎 二階で待つ』
文字が妙に乱れている。
急いで書いたのか、苛立っているのか――筆圧が紙をえぐるように強い。
葵は息を呑んだ。
緋色と顔を見合わせる。
緋色の赤い瞳が、すっと細くなった。
「……来てる」
緋色が小声で言う。
「うん」
葵は頷き、ポケットの中のSDカードを手の感触で確かめた。
心臓がうるさい。
葵は扉をそっと閉める。
二人は無言で歩き出した。
旧校舎へ。
渡り廊下の向こうに、古びた木造の建物が見える。
街灯も届かず、窓は黒い穴みたいに口を開けていた。
葵は喉を鳴らした。
(……いよいよだ)
逃げるな。
今夜、終わらせる。
葵が先に一歩踏み出し、緋色も続く。
旧校舎の入口の扉に手をかける。鍵はかかっていない。
緋色が囁く。
「二階だね」
葵は頷きそして、階段へ足を向ける。
木造の床が、ぎし、と鳴った。
一歩ごとに音が響き、夜の校舎がそれを飲み込んでいく。
二階に上がり、廊下を進む。
――淡い光。
教室の窓が、ぼんやりと光っているのを見つけた。
人の気配がする。
葵は緋色と一度だけ目を合わせ、扉に手を当てる。
ゆっくり、息を殺して開けた。
「……いらっしゃい」
中にいたのは、大垣と田淵だった。
さすがに教室の電気を点けるわけにもいかないのだろう。机の上にライトを置き、弱い光で足元だけを照らしている。
その不自然な光が、二人の顔を歪ませて見せた。
大垣がにこやかに笑う。
「手紙を見た時は驚いたよ。まさか“正義の忍者”が君だったとはね。それに妹さんだって?こんな時間なのに紅くんに付き合ってあげたんだね」
声は柔らかい。
昼にすれ違った時と同じ、“いい先輩”の声だ。
「紅くんとは、いろいろ誤解があったみたいだから」
大垣は両手を軽く上げ、穏やかに続ける。
「ちゃんと話したいと思ってたんだ」
葵の胃の奥が、冷たくなる。
「……誤解?」
葵は言葉を繰り返した。自分でも驚くほど声が低い。
「そう。誤解だよ」
大垣は善意の相談みたいに言う。
「……君、あの動画を見たんだろう? 本当に酷い内容だったよね」
悲しそうに首を振る。
「でもね、仕方なかったんだ」
そこで一拍置き、まるで“辛い真実”を語るような顔を作る。
「佳奈がドラッグに手を出して……ヤバい連中と繋がって、金が必要になった。そういう世界ってさ、逃げられないんだよ。あの動画も金になるからって無理やり撮らされたんだ……」
葵の中で、何かが冷え切った。
(……こいつ)
被害者面。
同情の押し売り。
嘘を“事情”に変える話術。
緋色が一歩、葵の横に並ぶ。
赤い瞳が大垣を刺す。
だが葵は手のひらで緋色を制した。
葵はゆっくり言う。
「俺が聞きたいのは、そんな詭弁じゃない」
一言ずつ噛みしめる。
「取ってつけた嘘を並べなくていい」
大垣の目が、わずかに細くなる。
「嘘じゃないんだけどな」
呼吸をするように嘘をつく。
田淵が横で笑う。
「な? だから誤解だって言ってんだろ」
葵は視線を田淵に向けず、大垣だけを見る。
「……斎藤佳奈先輩のことだ」
その名前が出た瞬間、空気がぴたりと止まった。
大垣の笑顔が、一瞬だけ固まる。
田淵が鼻で笑う。
「ドラッグに手出して自殺しただけだろ。大垣先輩だって彼氏として悲しんでんだよ」
田淵が吐き捨てる。
大垣はわざとらしく眉を下げた。
「……佳奈のことは、俺も辛いよ」
薄っぺらい声。
“辛い”と言いながら、目の奥は冷たい。
「でも、彼女も――」
「黙れ」
葵の声が、思った以上に鋭く出た。
大垣の口が止まる。
葵は一歩、教室に踏み込んだ。
ライトの弱い光の中で、葵の影が床に伸びる。
「誤解って言ったな」
葵は大垣をまっすぐ見た。
「確かに、この動画だけじゃ“お前の嘘”を証明しきれない」
言葉を区切る。
「でも、事実は事実だ」
葵の声が低くなる。
「これが警察や学校に渡ったら、困るよな?」
大垣の口角が、わずかに引きつった。
「……なにが望みかな?」
大垣が低く言う。
相談に乗るみたいな口調が、逆に不気味だった。
「俺たちの望みは“謝罪”だ」
葵は迷わず言った。
「今までの所業を、全部打ち明けろ」
「斎藤先輩の家族の前で謝れ」
「……わかったよ」
大垣は驚くほどあっさり頷いた。
「確かに、関与した人間として当然だね」
――軽すぎる。
その同意が、かえって信用できない。
「ちゃんと謝罪して、自首する」
大垣が続ける。
「それで、データは渡してくれるのかい?」
「……ここにある」
葵はポケットからSDカードを取り出した。
大垣の視線が一瞬だけ鋭くなる。
「……コピーは?」
「取ってない」
葵は言い切った。
「あんたたちが自首するのを見届けたら、破棄する」
「……そうか。わかったよ」
大垣は微笑んだまま、田淵に視線を投げる。
「田淵くん」
大垣の声が、やけに落ち着いていた。
「隣の教室に“他にも”データや証拠がある。紅くんに渡してくれないか?」
「……わかりました」
田淵が葵を見て、顎でついてこいとしゃくる。
「それと」
大垣は緋色の方を見た。
「妹さんも、僕と話したいみたいだから。ここで話そうと思う」
緋色は薄く笑った。
「そうね。女として、言いたいことは色々あるかも」
そして、葵だけに聞こえるくらいの声で付け足す。
「……それと、葵。賭けは私の負けかも」
賭けの意味が分からず、大垣も田淵も一瞬だけ首を傾げた。
だが、その違和感を深追いする余裕はないらしい。
田淵に腕を掴まれ、葵は隣の教室へ連れて行かれる。
隣の教室にもライトが置かれていて、室内の輪郭がぼんやり見えた。
そして葵は息を呑む。
マット。
三脚。
床に残る擦れた跡。
旧部室棟と同じ匂いがする。
(……嘘じゃないのか)
“他にも証拠がある”――あれは単なる口実じゃない。
本当に、この校舎の中にまだ何かを隠している。
葵が視線を巡らせた、その瞬間。
背後で、ガチャリと乾いた音がした。
振り向くより早く、扉が閉まり、鍵がかかる音がする。
葵の背筋が粟立つ。
「紅、お前さあ……」
田淵が、低く笑った。
「……馬鹿だろ」
ライトの下で、田淵の顔が歪む。
中学の頃の夢で見たあの表情と、重なった。
葵の喉が鳴る。
「……何のつもりだ」
「何のつもり、って?」
田淵が肩をすくめる。
「お前、まだ分かってねえの?」
田淵の視線が、葵のポケット――SDカードのある場所へ落ちる。
「それ、出せよ」
冷たく言い放つ。
話し合いの余地なんて最初からない声だった。
葵は息を吸い、ポケットから手を離した。
「……なあ」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「なんでお前は、昔からそんななんだ?」
中学に入った頃の田淵は、もっと普通だった。
笑って、冗談を言って、夏休みには勉強会をしようなんて言っていた。
壊れたのは――あの事件からだ。
けれど。
(原因はお前の兄貴だ)
死体遺棄。隠蔽。
それを暴かれたからって、逆恨みにも程がある。
葵が言葉を続けようとした瞬間、田淵が鼻で笑った。
「……は?」
田淵の目が、ぎらつく。
「何それ。説教?」
葵の胸の奥が冷える。
田淵は一歩近づき、低い声で吐き捨てた。
「お前らがいなけりゃ、全部なかったことになってたんだよ」
「家のことも、兄貴のことも、全部」
葵は唇を噛んだ。
「……それが“理由”かよ」
田淵は肩を揺らして笑った。
「理由? そんなのどうでもいいんだよ」
笑いが急に止まる。
「お前らがムカつく。それだけだ」
田淵が手を伸ばす。
「いいから出せ」
葵は逃げない。
逃げないと決めた。
葵は田淵を見上げ、静かに言った。
「……渡さない」
(緋色……賭けは俺の勝ちだな)
やっぱり、クズはクズだ。
罪を償う心なんてこれっぽっちもない。
「……まあいいや」
田淵が鼻を鳴らす。
「お前を半殺しにして、そのSDカードを壊せば丸く収まる」
「半殺しで済ませてくれるのか」
葵は乾いた笑いを漏らした。
「随分と優しいな」
「言ってろ」
田淵が唇を歪める。
「それとさ。なんで妹を連れてきた? かわいそうにな」
葵は眉をひそめる。
田淵は、わざとらしく声を落として言った。
「まさか本当に話し合うとでも思ったか?5人ほど仲間を待機させてたんだよ。お前の妹は目が気持ち悪いが顔はいいからな。今頃嬲られてるはずだよ」
見当違いの発言に笑いが出る。
大垣も含めて六人だと?冗談だろ。
六人程度じゃ、緋色の相手にすらならない。
葵の口元に、思わず笑みが漏れた。
「……なにがおかしい」
田淵が眉を吊り上げる。
「……いや」
葵は吐き捨てる。
「色々と、お粗末すぎてな」
田淵が目を剥く。
「……なんだと?」
「お前――馬鹿だろ」
葵は一歩も引かない。
「普通に考えて、コピー取らないわけないだろ」
田淵の目が揺れる。
「緋色は素直だからな。なんだかんだでお前らが改心することに賭けてた」
葵は言い切った。
「でも俺は信じてたよ。お前らが“真性のクズ”だってことをな」
自分でも驚くくらい、言葉が滑らかに出た。
怖いはずなのに、今は怖さが形を変えている。
――怒りだ。
田淵は唾を吐き捨てる。
「だとしても、半殺しじゃなくお前を殺せば済むだろうがよ!!」
「だから馬鹿だって言ってんだよ」
葵は低く言った。
「データはもう警察と記者に渡してある」
昨日の昼のうちに済ませておいた。自首するならそれが一番良いとして。しかし、犯した罪は罪。その証拠は白日の元に晒さなければならない。
机の上のライトが、田淵の顔を照らす。
血の気が引くのが見えた。
「――もう止められない。お前らは終わりだ」
「ぶっ殺す!!!」
田淵が襲いかかった。
葵は反射で身を引く。
――でも、逃げない。
田淵の拳が飛んでくる。
葵は咄嗟に腕で受けた。
痛い。
骨に響く。
それでも、鋭くも重い緋色の拳の足元にも及ばない。
(……錫の稽古、習ったのはだいぶ昔だけど)
身体が覚えている。
怖くて縮こまっていた時は出てこなかった動きが、今は勝手に出る。
田淵がもう一発振り下ろす。
葵は半歩だけ踏み込んで、拳をいなした。
(……見える)
緋色が言っていた通りだった。
今までは恐怖心でなにも見えてなかったんだろう。
周りのことも、自分のことも。
喧嘩は心……か。
緋色の言う通りだな。
覚悟を持って臨むだけでこうも違う。
田淵が蹴りを繰り出そうとするが、葵は半身を捻ってなんなく躱す。
緋色と喧嘩した後だから分かる。
体捌きも、力そのものも――田淵は緋色に遠く及ばない。
こんな相手に、今までへこへこ謝っていた自分が情けなくなる。
「避けるんじゃねえ!!」
腹を狙った拳を、葵は腕で受けた。痛みは走る。
だが、今までなら一方的に殴られるだけだった。
それが今は、少しだけ避けられる。少しだけ防げる。
人は急には変われない。
常日頃から稽古をしていたわけでもない。
それでも、緋色から学んだことを胸に拳を握る。
恐れるな。
目を逸らすな。
相手を、見ろ。
そして――
「――っが!?」
葵の拳が、田淵の顔を捉えた。
狙って打ったというより、動きが繋がっただけだ。
けれど、確かに当たった。
予想外の反撃に、田淵が面食らう。
葵から反撃されるとは考えすらしていなかったのだろう。
「……は? なに、お前?」
次の瞬間、田淵の顔が憤怒に染まっていく。
「な、なんでお前ごときが、俺を殴ってんだ?」
「お、おま……お前が反撃なんてすんじゃねえ!!」
唾を撒き散らしながら、田淵が襲いかかってくる。
大振りの右ストレート。
葵は後ろに下がって避けようとした。だが予想より腕が伸びてきて、胸ぐらを掴まれる。
(――しまっ)
力尽くで引き寄せられ、膝が葵の腹にめり込んだ。
ガードが間に合わない。内臓が揺れ、思わず前屈みになる。
「中学の頃から、お前のことが気に食わなかったんだよ!」
田淵は葵を地面に引き摺り倒し、腹へ蹴りを入れた。
葵は辛うじて腕で受ける。痛みが腕から肋にまで響く。
「お前らのせいで、うちが近所からどんな仕打ち受けたか知ってるか!?」
蹴りが止まらない。
「誹謗中傷で、外もまともに歩けなかった! 兄貴だって遠くに逃げて、もう会えねえ!」
「親父はキレやすくなるし、母さんは毎日泣いてる!!」
蹴るのに疲れたのか、攻撃が一瞬途切れる。
「……お前らのせいで?」
葵は息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
緋色ほど鋭くも重くもない――それでも、ダメージは確実に蓄積している。
心意気だけで漫画みたいに強くはならない。
それでも。
胸の奥で、確かに燃えているものがあった。
「責任転嫁すんな」
葵は吐き捨てるように言う。
「俺たちのせいじゃない。“お前らのせい”だろ」
田淵の目が吊り上がる。
葵は続けた。
「兄貴が考えなしに子供を作って、産まれたらどうしたらいいか分からず庭に埋めて騒動になったんだろ?そこから都合よく目を逸らして、全部他人のせいにして――」
言葉を紡ぐ。
「客観的に自分を見たことあるか?」
田淵の顔が歪む。
「お前……っ、滑稽にもほどがあるぞ」
「ぶっ殺す!!!」
田淵が近くの椅子を掴み、振りかぶった。
金属の脚がライトを反射する。
当たりどこが悪ければ死ぬかもしれない。
一瞬、昨日の記憶が脳裏を掠めた。
緋色の、見事な後ろ回し蹴り。川まで吹き飛ばされたあの一撃。脳裏に焼きついている。
(……見える)
田淵の突進が、やけに遅く感じた。
恐怖で視界が曇っていた時には、見えなかったものだ。
葵は左足を軸に、体を捻る。
理屈じゃない。身体が勝手に動く。
右足の裏が――田淵の腹を捉えた。
「――ぐっ!」
足裏に鈍い衝撃が返ってきた。
田淵の体がくの字に折れ、椅子が手から滑り落ちる。
金属が床を叩き、けたたましい音が校舎に跳ねた。
葵は息を吐いた。
震える手を握りしめ、田淵を見下ろす。
田淵は腹を押さえ、蹲ったまま立ち上がれないでいた。
顔を歪めながらも、目だけはまだ死んでいない。
「……お前には、自首のことと」
葵は言葉を選んで続けた。
「もうひとつ伝えたいことがある」
田淵が呻く。
「……なに……を」
「俺たちに、もう関わらないでくれ」
葵は静かに言い切った。
「高校でも、お前が俺たちの悪い噂を流してたのは知ってる」
「ーーふざけんな!」
田淵が唾を飛ばす。
「全部事実だろうが!!」
どうしたら、ここまで思い込めるのだろう。
葵は一瞬、言葉を失う。
それでも、目を逸らさない。
「……最後にひとつ」
葵は一歩、田淵に近づいた。
見下ろす位置まで来て、低く言う。
「生まれてきてごめんなさいって言ったら――許してやるよ」
トラウマの原点。
毎日のように夢を見る。一日たりとも忘れたことがないあの言葉。
田淵の顔が憤怒に染まる。
「ふざけんな! 誰が言うか――」
田淵が立ち上がろうとした瞬間、葵は反射で距離を詰めた。
「ーーだよな」
葵が足を高く上げる。
その振り上げた勢いを損なわないようにそのまま田淵の頭に踵から叩き落す。
勢いあまり田淵が顔面から地面に叩きつけられ動かなくなる。
田淵は意識を手放したように、ぐったりした。
やはりというか心は晴れない。
あの時言った言葉は取り消せない。
だけどーーここから少しだけ前に進めるような気がする。
葵は扉の方を振り返る。
向こうの教室――緋色のいる方から、鈍い音がいくつも響いていた。
緋色に限って負けることはないかもしれないが、万が一があってはいけない。
葵は満身創痍の体に喝を入れ、扉へ向かった。




