幻闘士の弟子入り、七日間の地獄〜三日目〜
目を覚ましたとき、身体は意外なほど静かだった。
昨日までの、あの悲鳴のような痛みが――少しだけ、遠い。
「……慣れ、始めてるのか」
小さく呟いた瞬間、背筋がぞっとした。
“慣れ”とは、つまり――次の段階へ進めるという意味でもある。
「起きたわね。今日は早いわよ」
すでに外套を羽織ったアヤが、扉の横に立っていた。
「今日は、“避け続ける”日よ」
「……避ける?」
「攻撃を、よ」
その一言で、眠気が完全に吹き飛んだ。
*****街外れ・訓練場跡*****
昨日までとは違い、今日は木剣が地面に何本も突き立てられていた。
円形に配置されたそれらは、まるで――罠の森。
「今日は、私が動く」
「……やっぱり来ましたか」
アヤは短剣を一本、軽く放った。
それが地面に刺さる音が、やけに乾いて響く。
「あなたは――剣を持たない」
「……え?」
「避けることだけ考えなさい。反撃は一切禁止」
逃げるだけ。
それは昨日までと、似ているようで決定的に違う。
「逃げ続けるってのは――実は一番難しいのよ」
*****午前*****
「――来るわよ」
気配が、消えた。
次の瞬間、左後方から空気が裂ける。
「……っ!」
反射的に横へ跳ぶ。
短剣が、さっきまで俺の首があった場所をかすめて飛んだ。
「いい反応」
「……っ、殺す気ですか……」
「“殺すつもりで来ない攻撃”に、戦場はない」
その直後――
今度は、正面から。
逃げる。
跳ぶ。
転がる。
気づけば、地面に仰向けに倒れ込んでいた。
頬のすぐ横、数寸の距離に、短剣が突き刺さっている。
「――今、あなたは死んでた」
淡々と、アヤはそう告げた。
*****昼*****
午前中だけで、すでに十回以上“殺された”。
回避の方向。
体勢の立て直し。
次の一手。
すべてが、後手に回る。
「……逃げてるのに……負けてる気分になる……」
「当然。あなたは今、“戦っていない”」
昼食の干し肉を噛みながら、アヤが言う。
「戦いの主導権は、私。あなたはずっと“追われる側”」
「……それが、幻闘士の戦いですか」
「ええ。“勝てる戦いだけ、戦う”――それが基本」
胸に、重く落ちた。
*****午後*****
転機は、二十回目。
今度も背後から来る気配。
だが――逃げなかった。
その場で、沈み込む。
頭上を短剣が通過する風圧。
地面に突き刺さる、鈍い音。
すぐに転がって距離を取る。
次の一撃が、わずかに遅れた。
「……今の、判断は悪くなかった」
その言葉に、胸が熱くなった。
それ以降、俺は“逃げる”だけでなく、
攻撃が通る“空間”を読むようになっていった。
跳ぶ。
伏せる。
潜る。
転がる。
夕方――
俺は、一度も“即死距離”に短剣を受けなくなっていた。
「……今日は、ここまで」
アヤが短剣を収めた瞬間、脚から力が抜け、俺は地面に崩れ落ちた。
「……生き残れましたか」
「“三割”生き残ったわね」
三割。
だが、昨日の俺は――ゼロだったはずだ。
*****夜・アヤの家*****
「逃げることは、恥じゃないわ」
「……はい」
「死なないことは、誇りよ」
煮込みの湯気の向こうで、アヤの目が静かに光っていた。
今日の俺は、何度も地面に倒され、何度も“殺されて”、
それでも――まだ生きて、ここにいる。
その事実が、静かに胸に残る。
*****就寝前*****
脚は鉛のように重い。
だが、頭は異様なほど冴えていた。
今日の攻撃の軌道。
風の揺れ。
踏み込む音。
すべてが、何度も脳裏で再生される。
「……次は、もっと……」
「欲が出たわね」
アヤが、静かに笑った気配がする。
「でも、それでいい。明日――あなたは“幻”に、初めて触れる」
「……幻……?」
「ええ。幻闘士の、核心よ」
そう言い残し、灯りが落とされた。
こうして――
幻闘士修行、三日目が終わった。




