幻闘士の弟子入り、七日間の地獄〜二日目〜
目を覚ました瞬間、全身が悲鳴を上げた。
「……っ……!」
指を一本動かすだけで、筋肉が引き裂かれるように軋む。
昨日の“ただ歩くだけ”の訓練が、ここまで身体を壊すとは思っていなかった。
「起きなさい。修行は始まってる」
淡々とした声が、容赦なく現実へ引き戻す。
隣の寝台では、すでに身支度を整えたアヤが短剣の手入れをしていた。昨日と同じ、いや――昨日以上に“仕事の顔”。
「……おはようございます」
「遅い」
その一言が、すべてだった。
歯を食いしばって身体を起こす。
立ち上がった瞬間、膝が笑い、思わず壁に手をついた。
「……これで、今日もやるんですか」
「当然」
情けも容赦もない。だが、不思議と嫌悪感はなかった。
ここは“甘やかす場所”じゃない。
*****街外れ・林道*****
朝霧の残る林の中。
昨日より少し離れた場所まで連れてこられた。踏み固められた獣道と、濡れた落ち葉、斜面、露を含んだ苔。
「今日の課題は――視認せずに戦場を歩く」
アヤはそう言って、俺の目の前に布を差し出した。
「……目隠し、ですか」
「ええ。つけなさい」
断る理由はない。布を巻かれ、視界が完全に奪われる。
音だけの世界。
風。
木々が擦れる微かな音。
自分の呼吸。
「ここから、あの木まで行って戻る。それだけ」
「……距離は?」
「言わない」
足音が、遠ざかる。
「戻ってくるまで、私は動かない。失敗したら――」
少し間を置いて、静かに告げられた。
「転ぶ前に、あなたは“死んでいる”」
ごくりと喉を鳴らす。
*****午前*****
最初の一歩が、異様に怖かった。
地面の感触を、足の裏で探る。
小石。
湿った土。
踏み込みの深さ。
「……っ……!」
二歩目で、いきなり滑った。
辛うじて体勢を保つが、心臓が跳ね上がる。
視界がない。
距離も分からない。
進行方向も曖昧。
あるのは、“今、どこに体重が乗っているか”だけ。
耳を澄ます。
風は、右から左。
湿度は、前方が高い。
――斜面だ。
そう予測し、足を低く運ぶ。
だが、読みきれず、三度目の踏み出しで、完全にバランスを崩した。
からだが地面に叩きつけられる前――
ゴンッ
靴底に、硬い木の感触。
「……木?」
「一本目。戻ってやり直し」
いつの間にか、すぐ傍にいたアヤの声。
つまり、俺は最短距離すら把握できていなかったということだ。
*****昼*****
何度も、何度もやり直した。
滑落。
転倒。
膝の擦過傷。
手の皮が剥ける感触。
「……くそ……」
だが、アヤは一切止めない。
昼食も、目隠しをしたまま取らされた。
硬いパンを噛む音だけが、異様に大きく聞こえる。
「幻闘士は、見えないまま戦うこともある」
「……心理戦ですか」
「違う。――生死の境が、“感覚”だけになる」
静かな声が、やけに重く刺さった。
*****午後*****
何十度目の挑戦。
足裏が覚え始めていた。
湿った苔の冷たさ。
枯葉の重なり具合。
斜面の傾き。
一歩ごとに、昨日とは比べものにならないほど神経が研ぎ澄まされる。
音で距離を測る。
風で方向を読む。
呼吸の反響で、開けた場所かどうかを知る。
――ドン。
再び木に触れた。
だが今度は、距離感が、狂っていなかった。
ためらわず、踵を返す。
帰り道、転ばなかった。
一度も。
布を外されたとき――
俺は、アヤの二歩手前まで、寸分違わず戻ってきていた。
「……合格」
「……っ……!」
膝から力が抜け、崩れ落ちる。
*****夜・アヤの家*****
「今日から、目は“最後に使うもの”よ」
「……はい……」
湯のない水浴びでも、今日ほど有難いと感じたことはなかった。
傷口に水が沁みるたび、今日一日の失敗と成功が、まとめて身体に返ってくる。
夕食の煮込みを、無言でかき込む。
「……俺、昨日まで、どれだけ“目に頼って”戦ってたんだ……」
「それが普通。でも、それは“初心者の戦い方”」
アヤの言葉は、突き放すようでいて、的確だった。
*****就寝前*****
寝台に倒れ込むと、今日はすぐには眠れなかった。
目を閉じても、地面の感触が、足の裏にはっきり残っている。
風の向き。
音の跳ね返り。
木の幹の硬さ。
「……感覚が、残っている……」
「それでいい。今日、あなたは――目を一つ、捨てた」
アヤの声が、暗闇の中で静かに響く。
「その代わり、命を一つ、増やした」
俺は、その意味を完全には理解できなかった。
だが、不思議と――恐怖はなかった。
“ここにいれば、生き残れる”
そう、身体が確信していた。
こうして――
幻闘士修行、二日目が終わった。




