幻闘士の弟子入り、七日間の地獄〜一日目〜
宿の薄暗い天井を見上げたまま、俺はしばらく動けずにいた。
昨日、酒場で仲間たちと別れた。
今はもう、レオンも、ミナも、クロもいない。
部屋の中に残っているのは、俺の荷物と、鈍色の朝の静けさだけだった。
「……行くか」
短く呟いて、俺はゆっくりと体を起こした。
壁に立てかけた剣を取り、荷袋を肩に背負う。
この宿には、もう戻らない。
鍵を返し、俺は何も言わずに宿を出た。
ギルドの補助が出る宿なので、ギルド登録から14日間は支払いがいらない。金銭的にかなり助かった。
*****街外れ*****
アヤの家は、街の端、人気のない坂道を少し登った先にあった。
石造りの小さな家。
武骨だが、どこか整えられていて、無駄がない。
扉をノックすると、すぐに中から足音がして、扉が開いた。
「早いわね、ショウタ」
「……約束の時間です」
アヤは薄い上着に短剣だけを帯び、すでに完全に“仕事の顔”だった。
「今日から七日間、ここがあなたの寝床よ」
「……世話になります」
中に入ると、意外なほど簡素だった。
机、椅子、寝台が二つ。
壁には無数の傷跡の残る木剣と、使い込まれた短剣。
そして、床には修行用らしいすり減った板敷き。
「荷物はそこへ」
「……はい」
俺が荷袋を置くと、アヤはすぐ踵を返した。
「じゃ、始めましょう」
「……もうですか?」
「“修行は生活そのもの”よ」
*****訓練場跡*****
家から少し離れた、昨日と同じ訓練場跡。
朝露に濡れた地面は冷たく、足の裏にじわりと冷えが伝わる。
「今日の内容は、これだけ」
アヤは地面に二本、細い線を引いた。
「この線を、踏まずに端から端まで100往復しなさい」
「……え?」
不思議そうな俺の顔を見て、アヤはフフッと笑い続ける。
「剣は持たなくていい。ただし――常に“戦場”だと思いなさい」
俺は、その線を見る。
たった一歩、跨げば終わる距離。
「踏んだら?」
「最初からやり直し」
アヤは何も付け足さなかった。
それが、逆に怖かった。
*****午前*****
最初の一歩で、危うくつまずきかけた。
線を踏まないように、体重を移し、足を運ぶ。
意識するだけで、ただそれだけのことが、異様に難しい。
地面の凹凸。
風に揺れる草。
足元の小石。
すべてが、敵になる。
「……くそ……」
慎重に、慎重に動く。
だが、三刻ほど経った頃――
集中が切れた一瞬。
つま先が、線に触れた。
「――やり直し」
振り向くと、少し離れた場所でアヤが腕を組んでいた。
俺は歯を食いしばり、スタート地点に戻る。
*****昼*****
再開してから、さらに二度失敗した。
三度目で、ようやく要領が掴めてくる。
視線を一点に固定しない。
足元だけを見ない。
風の動きで身体を預ける。
「……少し、コツが……」
ふと顔を上げると、アヤが小さく頷いていた。
昼食は、線の内側でのみ許された。
干し肉と固いパン、水だけ。
「幻闘士は“贅沢を切り捨てて生き延びる職”よ」
「……実感しています」
*****午後*****
足の感覚が、だんだん麻痺していく。
それでも線は、決して動かない。
不思議と、頭だけが冴えていった。
自分の呼吸。
筋肉の震え。
ほんのわずかな重心のズレ。
今まで、どれだけ“無意識に立っていたか”を、思い知らされる。
夕方前――
俺は一度も線を踏まずに、最後まで立ち続けた。
「……合格よ」
アヤの声が、ようやく降ってきた。
*****夜・アヤの家*****
帰った途端、全身が軋み、俺は床に崩れ落ちた。
「……歩くだけで、ここまで……」
「それが“戦いの前提”」
「剣を振れるのは、その後よ」
夕食は簡素な煮込み。
だが、今の俺にはご馳走のように感じられた。
食後、アヤは俺に布を投げてよこした。
「風呂。冷水だけど」
「……生き返ります」
*****就寝前*****
寝台に横になった瞬間、意識が遠のきかける。
だが、身体の奥が、まだ“戦場”から戻ってきていなかった。
「……今日だけで、命が何個いるんだ……」
「七日で、今のあなたは一度“死ぬ”わよ」
隣の寝台から、アヤの声が静かに響いた。
「……覚悟は?」
「……とっくに」
そう答えた記憶だけを最後に、俺の意識は完全に沈んだ。
こうして――
幻闘士としての、地獄の一日目が終わった。




