井戸の底に沈む、銀貨5枚の命
*****翌日*****
朝だ。
街の朝は、森と違って音が多い。木の軋む音、商人の呼び声、馬のいななき。生きている音が、無遠慮に耳に流れ込んでくる。
俺は宿の薄い天井を見つめながら、しばらく動けずにいた。昨日の夜、アヤに教わった幻歩の感覚が、まだ足の裏に残っている。夢だったのか現実だったのか、曖昧なほどに。
隣の寝台では、クロがすでに起きて座っていた。肩の包帯が、夜の間に少し血で滲んでいる。
「……痛むか?」
「……いつも通りだ」
それだけ答えて、クロは視線を外した。強がりなのか、本当に慣れてしまったのか、俺にはもう分からない。
少し遅れて、レオンとミナも起きてきた。
「……おはよう、ショウタ」
「おはよう、ミナ」
ミナはまだ眠そうに目をこすっている。昨日の友人との食事が、少しは心の支えになったのかもしれない。
俺たちは軽く身支度を整え、朝のギルドへ向かった。
*****ギルド*****
朝のギルドは、夜とは別の顔をしている。酒と疲労の匂いが抜けきらず、そこに汗と鉄の匂いが混じっていた。
カウンターに立つ、いつもの大柄な男が、俺たちを見る。
「新人ども、銀貨を稼ぎに来たか」
「……はい」
俺が答えると、男は木箱から一枚の簡易書きを取り出し、無造作に差し出した。
「戦闘じゃない。だが、嫌な仕事だ」
簡易書きに書かれていた内容は短かった。
――街外れの共同井戸に、死体が沈んでいる。
――水が使えず、疫病の恐れあり。
――死体の回収と処理を依頼する。
報酬:銀貨五枚
俺たちは無言で紙を見つめた。戦えばいい相手と違って、これは別の意味で怖い。
「……死体、ですか」
レオンが低く呟く。
ミナは小さく息を呑んだ。
「……私、それ、やらないと……ダメ……?」
男は淡々と言う。
「水が止まれば、街は死ぬ。誰かがやらなきゃならん。やるか、やらないかだ」
俺は一瞬、皆の顔を見回した。クロは無言。レオンは唇を引き結び、ミナは不安そうに俺を見ている。
「……やります」
その言葉は、喉の奥から無理やり引きずり出したような声だった。
*****街外れの井戸*****
問題の井戸は、街の外れ、倉庫や貧民小屋が固まる区域にあった。普段は人で賑わう共同井戸だが、今は誰も近づかず、縄で簡単な結界のように囲われている。
近づくにつれて、空気が変わった。
水と腐敗が混ざった、生臭い匂い。
ミナが口元を押さえる。
「……くさい……」
井戸の縁を覗き込むと、暗い水面がかすかに揺れていた。深さは、十メートルほどか。底は見えない。
縄と滑車、そして鉤付きの鉄棒が用意されていた。
「……引き上げて、処理場まで運ぶ。それだけだ」
レオンが努めて冷静に言う。
クロは無言で鉤を手に取った。片腕しか自由に動かせないのに、それでも前に出る。
「……俺が鉤を落とす」
「無理するな」
「……誰かが、やる」
クロはそれ以上言わず、鉤付きの棒を井戸の中へ落とした。
……数秒後。
――ごつ。
何か、固いものに当たった感触。
クロは歯を食いしばり、両脚で踏ん張って引き上げ始める。俺とレオンも縄を掴み、三人で引いた。
ずるり、と。
水面に現れたのは――人間の腕だった。
黒ずんだ皮膚。指先は膨れ、爪の間に泥が詰まっている。水を吸った肉は、異様に重い。
「……っ」
ミナが小さく声を漏らす。
さらに引き上げると、全身が姿を現した。
成人の男。服は切り裂かれ、首元には――噛みちぎられた跡。
俺の脳裏に、あの簡易書きのゴブリンの顔が重なった。
「……ゴブリンに、やられた……」
レオンが低く言う。
だが、この死体は戦って死んだのではない。逃げる途中で捕まり、引きずられ、最後に井戸へ捨てられたのだろう。
「……水、もう……飲めない……ね……」
ミナの声は震えていた。
俺たちは黙って死体を引きずり上げ、用意されていた粗布で包んだ。ぬるりとした感触が、布越しにも伝わってくる。
*****処理場への道*****
街外れにある死体処理場までは、徒歩で三十分ほど。
俺とレオンが担架を前後から支え、クロは後ろを、ミナは少し離れて歩いた。
道行く人々の視線が、俺たちと死体に突き刺さる。
嫌悪と恐怖と、ほんの少しの同情。
「……この人、家族いたのかな……」
ミナが小さく言った。
俺は答えられなかった。
家族がいても、いなくても、今この人は“ただの死体”として運ばれている。その事実が、残酷に突きつけられる。
途中、担架から赤黒い水がぽたり、と落ちた。
その一滴が、やけに鮮明に見えた。
*****処理場*****
処理場は、街の最果てにあった。石造りの低い建物で、中からは焼けた肉と薬品の匂いが混ざった、吐き気を催す臭気が漂ってくる。
作業員たちは、表情一つ変えずに死体を受け取った。
「井戸からか」
「……はい」
「最近多いな」
それだけ言って、彼らは死体を奥へ運んでいった。
人が、人でなくなる瞬間を、何度も見てきた者たちの顔だった。
俺たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
*****帰路*****
ギルドへ戻る途中、誰も口を開かなかった。
クロの足取りは少し重く、レオンは俯いたまま歩き、ミナはぎゅっと両手を胸の前で握りしめている。
俺の頭の中には、あの死体の顔が焼き付いて離れなかった。
知っている人かもしれない。昨日まで、普通に水を汲んでいた誰かかもしれない。
戦わなくても、人は死ぬ。
戦わなくても、俺たちは死に触れる。
それが、この世界だった。
*****ギルド・報酬*****
報告を終えると、銀貨五枚が無造作にカウンターに置かれた。
「達成だ。ご苦労」
俺たちは、その五枚を見つめた。
全員で顔を見合わせ、無言で分配する。
一人、銅貨百枚分。
残りは、またPTの貯金へ。
だが、誰も喜ばなかった。
「……たったこれだけで……あれを、やったのか……」
レオンがぽつりと呟く。
ミナは銀貨を見つめ、小さく言った。
「……重たいね……この銀貨……」
俺も、同じことを思っていた。
この五枚の銀貨は、さっきまで“誰かの命の上”に沈んでいたのだ。
*****宿*****
部屋に戻ったあとも、空気は重かった。
クロは壁にもたれかかり、傷の痛みに耐えるように目を閉じている。
レオンは無言で装備の手入れを始めた。
ミナは窓の外を見つめたまま、動かない。
「……なあ」
俺は、意を決して口を開いた。
「今日の依頼、戦わなかった。でも……それでも、きつかったな」
レオンは、手を止めずに答えた。
「……戦いは、死ぬ瞬間を見る。今日のは……死んだ“あと”を見る」
「違いは……そこだな」
ミナが、小さく頷く。
「……でも、私……逃げなかった……」
その声は震えていたが、確かに自分の意思だった。
クロは、しばらく沈黙したあと、短く言った。
「……慣れるな。慣れたら、終わりだ」
俺は、その言葉が胸に突き刺さった。
慣れてしまえば、今日の死体も、昨日の仲間の死も、ただの出来事になる。
それが一番、恐ろしい。
*****夜*****
夜。
鈍色の空に、薄い月が浮かぶ。
俺は布団の中で、目を閉じても眠れなかった。
井戸の底の暗さ、腐った水の匂い、あの腕の感触。すべてが、まだ皮膚の内側に残っている。
戦わずに得た、銀貨五枚。
だが、心には、どんな傷よりも重たいものが残った。
それでも俺たちは、明日も依頼を受ける。
銀貨十五枚という目標のために。
皆が、師匠のもとへ進むために。
鈍色の世界の中で、俺たちは今日もまた、
“生きる代わりに、何かを削った”。
そのことを、決して忘れないようにしながら――。




