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あまりに残酷で幻想な大地で、僕たちは優しさの使い方をまだ知らない  作者: 抄録 家逗


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10/25

井戸の底に沈む、銀貨5枚の命

*****翌日*****


 朝だ。

 街の朝は、森と違って音が多い。木の軋む音、商人の呼び声、馬のいななき。生きている音が、無遠慮に耳に流れ込んでくる。


 俺は宿の薄い天井を見つめながら、しばらく動けずにいた。昨日の夜、アヤに教わった幻歩(げんぽ)の感覚が、まだ足の裏に残っている。夢だったのか現実だったのか、曖昧なほどに。


 隣の寝台では、クロがすでに起きて座っていた。肩の包帯が、夜の間に少し血で滲んでいる。


「……痛むか?」

「……いつも通りだ」


 それだけ答えて、クロは視線を外した。強がりなのか、本当に慣れてしまったのか、俺にはもう分からない。


 少し遅れて、レオンとミナも起きてきた。


「……おはよう、ショウタ」

「おはよう、ミナ」


 ミナはまだ眠そうに目をこすっている。昨日の友人との食事が、少しは心の支えになったのかもしれない。


 俺たちは軽く身支度を整え、朝のギルドへ向かった。


*****ギルド*****


 朝のギルドは、夜とは別の顔をしている。酒と疲労の匂いが抜けきらず、そこに汗と鉄の匂いが混じっていた。


 カウンターに立つ、いつもの大柄な男が、俺たちを見る。


「新人ども、銀貨を稼ぎに来たか」

「……はい」


 俺が答えると、男は木箱から一枚の簡易書きを取り出し、無造作に差し出した。


「戦闘じゃない。だが、嫌な仕事だ」


 簡易書きに書かれていた内容は短かった。


 ――街外れの共同井戸に、死体が沈んでいる。

 ――水が使えず、疫病の恐れあり。

 ――死体の回収と処理を依頼する。


 報酬:銀貨五枚


 俺たちは無言で紙を見つめた。戦えばいい相手と違って、これは別の意味で怖い。


「……死体、ですか」

 レオンが低く呟く。


 ミナは小さく息を呑んだ。

「……私、それ、やらないと……ダメ……?」


 男は淡々と言う。

「水が止まれば、街は死ぬ。誰かがやらなきゃならん。やるか、やらないかだ」


 俺は一瞬、皆の顔を見回した。クロは無言。レオンは唇を引き結び、ミナは不安そうに俺を見ている。


「……やります」


 その言葉は、喉の奥から無理やり引きずり出したような声だった。


*****街外れの井戸*****


 問題の井戸は、街の外れ、倉庫や貧民小屋が固まる区域にあった。普段は人で賑わう共同井戸だが、今は誰も近づかず、縄で簡単な結界のように囲われている。


 近づくにつれて、空気が変わった。

 水と腐敗が混ざった、生臭い匂い。


 ミナが口元を押さえる。

「……くさい……」


 井戸の縁を覗き込むと、暗い水面がかすかに揺れていた。深さは、十メートルほどか。底は見えない。


 縄と滑車、そして鉤付きの鉄棒が用意されていた。


「……引き上げて、処理場まで運ぶ。それだけだ」

 レオンが努めて冷静に言う。


 クロは無言で鉤を手に取った。片腕しか自由に動かせないのに、それでも前に出る。


「……俺が鉤を落とす」

「無理するな」

「……誰かが、やる」


 クロはそれ以上言わず、鉤付きの棒を井戸の中へ落とした。

 ……数秒後。


 ――ごつ。


 何か、固いものに当たった感触。


 クロは歯を食いしばり、両脚で踏ん張って引き上げ始める。俺とレオンも縄を掴み、三人で引いた。


 ずるり、と。


 水面に現れたのは――人間の腕だった。


 黒ずんだ皮膚。指先は膨れ、爪の間に泥が詰まっている。水を吸った肉は、異様に重い。


「……っ」


 ミナが小さく声を漏らす。


 さらに引き上げると、全身が姿を現した。

 成人の男。服は切り裂かれ、首元には――噛みちぎられた跡。


 俺の脳裏に、あの簡易書きのゴブリンの顔が重なった。


「……ゴブリンに、やられた……」


 レオンが低く言う。


 だが、この死体は戦って死んだのではない。逃げる途中で捕まり、引きずられ、最後に井戸へ捨てられたのだろう。


「……水、もう……飲めない……ね……」

 ミナの声は震えていた。


 俺たちは黙って死体を引きずり上げ、用意されていた粗布で包んだ。ぬるりとした感触が、布越しにも伝わってくる。


*****処理場への道*****


 街外れにある死体処理場までは、徒歩で三十分ほど。

 俺とレオンが担架を前後から支え、クロは後ろを、ミナは少し離れて歩いた。


 道行く人々の視線が、俺たちと死体に突き刺さる。

 嫌悪と恐怖と、ほんの少しの同情。


「……この人、家族いたのかな……」

 ミナが小さく言った。


 俺は答えられなかった。

 家族がいても、いなくても、今この人は“ただの死体”として運ばれている。その事実が、残酷に突きつけられる。


 途中、担架から赤黒い水がぽたり、と落ちた。

 その一滴が、やけに鮮明に見えた。


*****処理場*****


 処理場は、街の最果てにあった。石造りの低い建物で、中からは焼けた肉と薬品の匂いが混ざった、吐き気を催す臭気が漂ってくる。


 作業員たちは、表情一つ変えずに死体を受け取った。


「井戸からか」

「……はい」

「最近多いな」


 それだけ言って、彼らは死体を奥へ運んでいった。

 人が、人でなくなる瞬間を、何度も見てきた者たちの顔だった。


 俺たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


*****帰路*****


 ギルドへ戻る途中、誰も口を開かなかった。


 クロの足取りは少し重く、レオンは俯いたまま歩き、ミナはぎゅっと両手を胸の前で握りしめている。


 俺の頭の中には、あの死体の顔が焼き付いて離れなかった。

 知っている人かもしれない。昨日まで、普通に水を汲んでいた誰かかもしれない。


 戦わなくても、人は死ぬ。

 戦わなくても、俺たちは死に触れる。


 それが、この世界だった。


*****ギルド・報酬*****


 報告を終えると、銀貨五枚が無造作にカウンターに置かれた。


「達成だ。ご苦労」


 俺たちは、その五枚を見つめた。


 全員で顔を見合わせ、無言で分配する。

 一人、銅貨百枚分。

 残りは、またPTの貯金へ。


 だが、誰も喜ばなかった。


「……たったこれだけで……あれを、やったのか……」

 レオンがぽつりと呟く。


 ミナは銀貨を見つめ、小さく言った。

「……重たいね……この銀貨……」


 俺も、同じことを思っていた。

 この五枚の銀貨は、さっきまで“誰かの命の上”に沈んでいたのだ。


*****宿*****


 部屋に戻ったあとも、空気は重かった。


 クロは壁にもたれかかり、傷の痛みに耐えるように目を閉じている。

 レオンは無言で装備の手入れを始めた。

 ミナは窓の外を見つめたまま、動かない。


「……なあ」


 俺は、意を決して口を開いた。


「今日の依頼、戦わなかった。でも……それでも、きつかったな」


 レオンは、手を止めずに答えた。

「……戦いは、死ぬ瞬間を見る。今日のは……死んだ“あと”を見る」

「違いは……そこだな」


 ミナが、小さく頷く。

「……でも、私……逃げなかった……」


 その声は震えていたが、確かに自分の意思だった。


 クロは、しばらく沈黙したあと、短く言った。

「……慣れるな。慣れたら、終わりだ」


 俺は、その言葉が胸に突き刺さった。

 慣れてしまえば、今日の死体も、昨日の仲間の死も、ただの出来事になる。


 それが一番、恐ろしい。


*****夜*****


 夜。

 鈍色の空に、薄い月が浮かぶ。


 俺は布団の中で、目を閉じても眠れなかった。

 井戸の底の暗さ、腐った水の匂い、あの腕の感触。すべてが、まだ皮膚の内側に残っている。


 戦わずに得た、銀貨五枚。

 だが、心には、どんな傷よりも重たいものが残った。


 それでも俺たちは、明日も依頼を受ける。

 銀貨十五枚という目標のために。

 皆が、師匠のもとへ進むために。


 鈍色の世界の中で、俺たちは今日もまた、

 “生きる代わりに、何かを削った”。


 そのことを、決して忘れないようにしながら――。


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