目覚めた場所は、最悪だった
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目を開けた瞬間、鼻腔を突いたのは腐った水と鉄の匂いだった。
喉の奥が焼けつくように痛い。息を吸うたび、胸の内側がざらつく。
視界は灰色に滲み、空と地面の境目が曖昧だった。
雲は低く、重く垂れ込めている。地面はぬかるみ、靴底が沈むたび、嫌な音を立てた。
「……ここ……どこだ……?」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
起き上がろうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走る。
肺が潰れるような苦しさに、息が詰まった。
視線を落として、ようやく自分の体に気づく。
見慣れない革の装備。簡素な胸当て。
そして、胸元に走る浅い裂傷と、乾ききらない血。
――怪我、してる。
いつ? どこで? 誰に?
思い出そうとした瞬間、頭の奥に異様な空白があることに気づいた。
名前だけは、浮かんだ。
ショウタ。十五歳。男。
それ以外が、何一つ、なにも、ない。
家族も、学校も、友達も、昨日さえも――
すべてが、存在しなかったかのように消えていた。
「……は……?」
心臓が、嫌な速さで脈打ち始める。
思考を巡らせるほど、不安が増幅していく。
その時だった。
「……生きてる、か……?」
すぐ近くから、かすれた声が聞こえた。
顔を向けると、同い年くらいの少年が、同じように倒れ込んでいた。
短く刈られた金色の髪。右腕を押さえ、顔をしかめている。
「……お前……誰だ……?」
「さあな……。俺も……分からない……。
たぶん……レオン……って名前だった気がする……」
「気がする」という言い方に、強烈な不安が走った。
――こいつも、記憶がない。
慌てて周囲を見渡す。
ぬかるみのあちこちに、俺たちと同じように倒れている人影があった。
全部で五人。
一人は小柄な黒髪の少女。
木の棒のようなものを強く握りしめ、怯えきった目で辺りを見回している。
一人は、背の高い無口そうな少年。
重そうな鎧を身に着け、まだ意識が戻っていない。
もう一人は、痩せた体つきで、鋭い目つきの少年。
周囲を警戒するように距離を取り、短い刃物を握っている。
――五人。
なぜか、それだけは自然に理解できた。
「……なあ……これ、どういう状況なんだ……?」
レオンの震えた声に、誰も答えられなかった。
答えられるだけの情報も記憶も、誰も持っていない。
湿った風が吹いた。
その瞬間、鼻を突く腐臭が、さらに濃くなった。
視線の先、少し離れた水たまりの縁に――
人の死体が横たわっていた。
皮膚は泥の色に変色し、胸には大きな穴が空いている。
中身が抉り取られたように、空虚だった。
「……っ……!!」
黒髪の少女が、声にならない悲鳴を上げて尻もちをついた。
胃の奥が、ひっくり返る。
俺の喉も、引きつるように鳴った。
――ここは、安全な場所じゃない。
その直後。
背後の茂みが、不自然に揺れた。
ざわり、と湿った音。
「……来る……」
痩せた少年が、低く呟いた。
次の瞬間、茂みを突き破って現れたのは――
人の形をした、何かだった。
黒ずんだ皮膚。濁った黄色の目。
歯と呼ぶには鋭すぎる牙が、口の両端から覗いている。
手には、血に濡れたような錆びた斧。
それは、明らかに人ではなかった。
けれど、何者なのかは、誰にも分からない。
「……なんだ……あれ……」
レオンの声が、震える。
それは、喉の奥で何かを転がすような、不快な音を立てた。
理解するよりも早く、背筋に冷たいものが走った。
「逃げろ――!!」
誰かが叫んだ。
五人は一斉に散った。
だが、足はぬかるみに取られ、思うように動かない。
嫌な予感が、背中に張り付く。
――間に合わない。
背後で、鈍い衝撃音が響いた。
振り向いた瞬間、背の高い無口な少年の胸に、斧が深く突き刺さっていた。
少年は、何の声も上げなかった。
ただ、口をわずかに開いたまま、目の光を失い、崩れ落ちた。
斧が引き抜かれる。
肉が裂ける、湿った音。
血が、ぬかるみに混じって広がった。
――死んだ。
たった今。
あまりにも、あっさりと。
「……ぁ……」
黒髪の少女が、壊れたような声を漏らす。
次に狙われるのが、俺たちだということは、誰にでも分かった。
「クソ……っ!!」
痩せた少年が歯を食いしばり、短い刃物を構えた。
「やるしかねぇ……!!」
レオンも、手近に落ちていた棒を必死に握りしめる。
「ショ……ショウタ……!」
誰かが、俺の名前を呼んだ。
地面に落ちていた短い剣を拾い上げる。
手に伝わる重みが、異様に現実だった。
それが、俺に向かって、斧を振り上げた。
「……来るなぁぁぁ!!」
反射的に剣を突き出す。
刃は、黒い胴体の脇腹を浅くかすめただけだった。
だが――それは、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
「今だ!!」
レオンが、後ろから体当たりする。
黒髪の少女が、震える手の先から、火花のような光を散らした。
そして――
痩せた少年が、地面から投げ放った刃物が、それの喉に突き刺さった。
黒いものは喉を押さえ、泡を吹きながら、ゆっくりと崩れ落ちた。
……動かない。
沈黙が、重くのしかかる。
やがて、レオンがへたり込むように座り込んだ。
「……生き……てる……?」
俺は、自分の手を見た。
赤黒い血が、べったりと付着していた。
震えが、止まらなかった。
命を奪った感触だけが、現実として、指先に残っていた。
――こうして、俺たちは「最初の戦い」を終えた。
何者だったのかも分からないそれに、
名前も分からないまま、人が一人、殺された。
俺たちは、五人から――四人になっていた。
助かったのか。
それとも、ただ死ぬ順番が一つ後ろにずれただけなのか。
その答えを、俺たちはまだ、知らなかった。




