空中遺跡
「何も不安がることはない。
狩人も空までは追って来れぬ。
今は一休み……。」
夢魔は、そう話してベッドで横になった。
その間にも部屋は、グングン速度を上げ、川を越え、山の間に飛んでいく。
その時だった。
「おなかすいた。」
少年の言葉に夢魔は、さっと起き上がる。
「はあ、何ィィィ?」
「何か食べるものが欲しい。」
「そんなの我慢しろよ。」
「無理、我慢できない。」
夜中に起こしたせいだろう。
夕食から半日経っている。
少年の訴えももっともだ。
「ったく人間は……。」
少年が愚図るので夢魔は、不承不承で頷く。
翼を広げ、部屋から飛び立った。
止む無く食べ物を近くから調達することにした。
しばらくすると部屋から飛び立った夢魔がまた戻って来る。
「とにかくこれを食せ。」
夢魔は、そう言って食べ物を机の上に広げた。
湯気の出る温かい食事という訳ではないが上等なパンと生ハムだ。
夢魔は、それらを十分に注意深く直に触らないようにテーブルに降ろす。
(塩が入ってる食べ物に悪魔は触れないんだ。)
そんな伝承を少年は、思い出した。
伝説は、本当のこともあるんだ。
「……これってもしかして泥棒?」
少年は、一口食べてから疑問をぶつけた。
笑いながら夢魔は、少年の部屋にあった本を読みながら答える。
「あっはっはっは……。
悪魔が法律を守るか。」
しかし本当に夢魔は、食事を摂らないらしい。
男の精気を吸って生きているというのは、伝説通りのようだ。
少年がそんなことを考えていると夢魔は、また卑猥な仕種で挑発した。
「ちょ、ちょっと…。
やめなよ…。」
少年は、出された物を平らげる。
誰の家から持ち出された物か知らないが有り難く頂戴した。
「ところで、どこに向かってるの?」
まだ部屋は、夜空を飛び続けている。
少年は、気が気でなかった。
「度胸を見せなよ、ロイド。
男の子だろ?」
といって夢魔は、はぐらかした。
けれど夢魔が伏せても子供部屋の目的地は、次第に少年にも分かって来た。
部屋は、どんどん上昇を続け、南に向かっている。
いや、星々の世界に向かって飛んでいるのだ。
やがて薄い雲を抜け、月骨と空中遺跡の帯―――数万年前に砕けた月の欠片とそこに作られた古代都市の密集空域に入った。
部屋の壁が崩れた箇所から遺跡の姿が見える。
巨大な神々の像、無人化して植物に圧される石造りの建物。
そして時々、素早く動くのは、宇宙の悪魔たちだ。
「うわ、うわあーっ!」
ゆっくりと少年の身体は、浮き上がった。
月骨の引力が四方八方から影響を与えるからだ。
部屋もミシミシと不快な音を立て始めた。
月骨は、大きなものになると全長20kmになる。
極めて大きい小惑星の倍以上のサイズで引力もシャレにならない。
遂に部屋は、完全に四散八裂になった。
少年は、ベッドに辛うじてしがみついている。
「お、オルフィスッ!
このままじゃ死んじゃうよ!」
「あっはっはっは!
楽しめよ、瀬戸際を。」
笑いながら空飛ぶ夢魔は、ベッドを掴んで誘導する。
目的地に着陸するようだ。
「あらよっと。」
夢魔の運ぶベッドは、湖に硬着陸する。
けたたましい着水音と共に鳥や動物、虫たちが逃げ出した。
その中には、妖精や怪物のようなものもいる。
地上では、人間に狩り尽くされた怪異たちだ。
ここには、寝物語に出てくるような悪魔の落とし子が生き残っているのだ。
「うわああっ!」
水飛沫をあげて猛スピードで湖面を走るベッドは、次第に減速した。
ようやく危機を脱して少年は、ホッとした。
「……ここが目的地?」
少年は、夢魔に訊ねた。
夢魔は、ニヤリと笑って答える。
「さあ、死にたくないなら私に着いてきな。
ワニに食われちまう。」
「ああ。
もちろんどこでも信じて着いていくよ。
僕らは、深い関係だからね。」
少年は、夢魔の後を着いて歩く。
やがて森の中に黒大理石の巨大な大聖堂が見えて来た。
聖なる神の家というより万魔殿。
聖堂は、中も外も卑猥な像と彩繪玻璃で飾り立てられていた。
悪魔が聖堂をそっくり真似した悪質な嘲弄だ。
最初の人間、始祖たる英雄アルス。
聖堂の中央に置かれた彼の像だけ白大理石で作られている。
一人の女が、その傍にいた。
その女を見つけて夢魔は、声をかけた。
「母上、オルフィスにございます。」
そして夢魔は、跪いた。
声をかけられた女は、少年と夢魔の方に顔を向ける。
「こんなところに人間を連れて来て、どういうつもりか。」
ルルアは、そう言った。
確か夢魔は、ルルアの子だと自己紹介した。
では、この女がそうか。
と少年は、考えていた。
最初の人間であるアルスが地上で目覚めた時、妻として神々が送った13人の女神。
それが十三神妃。
神妃ルルアは、その一人だ。
そしてアルスと十三神妃の間に産まれた13人の子供たちを十三長子と呼ぶ。
この長子たちは、それぞれがガリシア大陸の十三王国の国祖になった。
ただし十三神妃は、概ね34の神妃の名が知られている。
例えばルルアの場合、ルルゼクあるいは、ルディンなどの変名があった。
神話学者は、これがアルスを王家の血統に加わるため神話が創られたのだしている。
また近親相姦を避けるため、古代人は、13人の妻が必要だと考えたのだとした。
いずれにしても彼女が本物のルルアなら神様ということになる。
では、その娘が夢魔というのは、どういう訳か。
それは、子供でも良く知っている物語だ。
アルスには、宿敵である悪神、双頭の蛇サ・タ=ハスールがいた。
なんと神妃は、夫の敵であるサ・タとも子供を儲けたと信じられた。
これが夢魔たちである。
アルスの子らとサ・タの子らの混血が進み、神の血が薄れた。
血統鑑定局は、アルスの血を引く民族を一等人種と定義している。
つまりオルフィスは、サ・タと神妃ルルアの子ということだろう。
その話が本当なら、だが。
「この子の祖父が夢の中で黒薔薇をこの子に持たせたのです。
それを墓に手向けたいのです。
獣の墓場です。」
と夢魔オルフィスは、事情を説明した。
それを聞いていた神妃ルルアは、怪訝そうに目を細める。
「え?」
徐に神妃は、少年の腕を取ると物凄い力で引き寄せた。
そして顔を寄せると少年の右腕に歯を立てた。
「いッ、いや、やだ!
やめてッ!!
いや、やあああッッ!!」
少年が必死に抵抗しても無駄だった。
残る左腕で叩いても殴ってもルルアは、微動だにしない。
まるで鉄の像のように不動の姿勢を保っていた。
やがてルルアは、少年の血を啜ると彼を離した。
「……ミュアゲルの子か。」
とルルアは、つぶやく。
ミュアゲルも十三神妃の一人だ。
花と動物を愛する女神だったと伝承は、伝えている。
「ミュアゲルの子で獣となったものたちは、海底墓場に葬られておる。」
「か、海底墓場?」
少年は、神妃の繰り返した。
ルルアは、輝く髪を靡かせ、うっとりする様な美貌を誇らせて答える。
「安心しなさい。
オルフィスが案内してくれる。」
そういってルルアは、自分の娘を見やった。
夢魔オルフィスも頷く。
「海底墓場って獣になった人が埋められるの?」
少年は、その答えを求めた。
ルルアは、少し困ったように返事をする。
「人間が知る必要はないのだ。」
「どうして?」
「差別の源になるだけだ。
人間が血筋で諍い合っていることは、私たちも知っている。
お前たちは、そのことについてこれ以上、研究をするべきではない。
アルスの子らであれ、サ・タの子らであれ。
共に私たち十三神妃の子供であることに変わりはない。
同じ人間だ。」
それは、ルルアだけでなく多くの神妃の思いなのだろうか。
10歳の少年には、やや難しい問題であった。
「……他の女神様は?」
弱弱しい声で少年が訊くと女神は、首を横に振って答えた。
「知らなくて良い。」
すると少年は、叫んだ。
「もしあなたが本当に女神ルルアなら僕らを助けて!
獣や血統鑑定局や獣の狩人や戦争から!!」
「それは、出来ぬ相談だ。
ミュアゲルの裔よ。」
神妃ルルアは、白大理石のアルス像を見上げて話し始める。
「アルスが生きていれば今世の争いに関わりを持ったかも知れん。
しかし私は、争いが好かぬ。」
ルルアは、享楽と性愛の女神として知られる。
しかし淫蕩な女神であると同時に慈愛の女神でもあった。
「私は、流血で物事の解決を目指さない。
アルスとサ・タが正義を賭けて戦ったことも私の望みではなかった。
愚かな姉妹と子供たちとウルスのせいで私は、夫を二人も失った!」
彼女の言う姉妹とは、他の十三神妃のことだ。
ウルスとは、ウルス教の開祖、《知恵ある盾》、盾神ウルスである。
英雄神アルスの防具であり、正義の守護神と信仰されている。
ウルスは、アルスの死後、彼の子供たちを率いてサ・タと戦ったとされている。
「いや、このような議論は止そう。
それで───」
ルルアと少年が話しているとオルフィスとは、別の夢魔が飛んできた。
「母上。
侵入者です!」