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第9話


 深夜のボロ小屋は静まり返り、窓の隙間から冷たい風が吹き込んでいた。静かな寝息が二人を包み、ウルシャの街は深い眠りに就いていた。


ーー不意にカタリと小さな物音が外から響いた。

続いて、ガサガサと草を踏む不自然な音が重なる。ビシャスは瞬時に目を開け、ソファから体を起こした。シェイルも反応し、獣耳がピクリと動いて目を薄く開けた。


「ビシャス様…?」

「静かにしろ」


ビシャスは外を覗き、目を細めた。月明かりの下、小屋の前にはボロボロの人影が立っていた。

「ここにいろ」とシェイルに囁き、ビシャスは扉を開けて外に出た。冷たい夜風が彼を包み、革靴が地面を踏む音が響く。

シェイルはおずおずと後を追った。

 そこには三角帽子の魔女リナが立っていた。黒いローブは裂け、泥と血に汚れ、三角帽子は傾ぎ、紫髪が乱れて顔に張り付いている。折れた杖を握る手が震え、月光が彼女の青白い顔を照らし、目には深い恐怖が刻まれていた。足元には血痕が点々と続き、逃げてきた跡が残る。


「誰だ?」とビシャスが低く尋ねると、リナがハッと顔を上げた。「あなた…ギルドの方ですよね…助けてください!」


「お前…雑草抜きをバカにした魔女だな……」

「お願い…聞いてください。私、依頼の途中で…悪魔皇ヨルムンガンドの残党に遭遇したんです。皇魔軍の生き残りで…魔法で姿を消して、ウルシャのすぐ側の川まで進軍してる。私の仲間が…捕まってしまって」


彼女の声は途切れがちで、折れた杖が震える。


「あいつら……黒い霧を纏ってて、目が赤く光って…普通の冒険者じゃ歯が立たない。私たちの魔法は一瞬で弾かれ、剣士は鎧ごと切り裂かれた。叫び声が…仲間の叫び声が森に響いて…」


 リナは恐怖に顔を歪める。

 皇魔軍の兵士は、ヨルムンガンドが統べた頃の恐るべき力を今も保持していた。普通の冒険者――Cランクでも精鋭とされる者たち――が束になっても、その一撃で粉砕されるほどの力だ。黒い霧は視界を奪い、赤い目は闇から獲物を捉え、鋭い爪が鋼鉄を紙のように裂く。


 ビシャスは目を細め、「ヨルムンガンド…俺たちが倒した魔王か」と呟いた。彼とシェイルが戦った敵の名が重く響く。リナの言葉から、皇魔軍の恐ろしさが伝わる。あの戦いで見た魔物の群れ――魔法で強化された肉体と、無慈悲に振り下ろされる刃。姿を消す術を使えば、普通の冒険者では感知すらできず、一瞬で全滅するだろう。


 シェイルがビシャスの背後に立ち、「リナさんって言いましたね……その本当ですか?」と小声で尋ねた。獣耳が不安そうに下がり、尻尾が縮こまる。


「本当です…すぐに対応しないと、ウルシャが危ない。あいつら、川の水を毒に変え、街を壊滅させるつもりかもしれない。私の仲間は鎖で繋がれて暗い檻に…私が逃げた時、不気味な笑い声が聞こえたんです」


折れた杖が地面に落ち、カタリと音を立てる。皇魔軍の残党は、普通の冒険者が太刀打ちできる相手ではない。ギルドの精鋭でさえ、数で押すか魔法で足止めするしかなかった敵だ。


 ボロボロの魔女リナが地面に膝をつき、泥と血に汚れたローブが月光に映える。彼女の紫髪は乱れ、折れた杖を握る手が震えていた。


「先刻の無礼を謝ります。私が馬鹿でした。助けてください!」


 リナが叫び、恐怖と絶望がその瞳に宿る。彼女の心は、皇魔軍の赤い目と不気味な笑い声に支配され、仲間を救う希望をビシャスに懸けていた。ビシャスは彼女を見下ろし、低く呟く。


「俺が助ける義理はない……」


 彼の胸にはストロベリーたちの裏切りが重くのしかかっていた。

あの夜が、焚き火の光とともに脳裏に蘇る。彼女たちの冷笑が彼の心に棘を残し、誰かを助けることへの恐怖が彼を縛る。


 皇魔軍の脅威に立ち向かう力があるかもしれない――彼の内に秘めた膨大な魔力が、それを囁く。

 だが、自分を信じきれず、失敗や裏切りへの恐れが彼を締め付けた。


 また笑われるだけだ。助けたって、何も変わらないと彼は心の中で呟き、拳を握る。


リナが震える声で呟いた。


「そ、そんな……お願い、仲間が……街が……」


 彼女の瞳には絶望が広がり、折れた杖が地面にカタリと落ちる。

 彼女の心は、皇魔軍の黒い霧と仲間の叫び声に押し潰されそうだった。

 ビシャスは彼女の言葉を聞きながら、さらに葛藤を深めた。


「俺は……シェイルを守るだけで精一杯だ。敵が迫っているのなら……とっととこの街から出るとしよう」


 彼が背を向けかける。この街に何の借りもない。シェイルさえ無事なら、それでいいと彼は自分に言い聞かせるが、心の奥で別の声が響く。


ーー本当にそれでいいのか?


 見ず知らずの奴らを見捨てて、シェイルと逃げるだけで満足か? ストロベリーたちの嘲笑がその声を掻き消そうとし、彼の足が一瞬止まる。

 

シェイルがビシャスの袖をそっと握ったのだ。

銀色の瞳で彼を見上げて言う。


「ビシャス様……お願いです。リナさんを助けてあげて。私、奴隷だった時…誰も助けてくれなくて…暗い部屋で鎖に繋がれて……怖かった。リナさんも今、そうなのかもしれません」


 彼女が静かに訴えた。獣耳が彼の言葉を待つように動き、尻尾が小さく揺れる。シェイルの心には、かつての自分が鎖の中で震えた記憶が刻まれていた。


 彼女はリナの恐怖を自分のものと重ね、ビシャスなら助けられると信じていた。

 その信頼が、彼女の小さな手を強くさせていた。


 ビシャスはシェイルの瞳を見つめ、胸が締め付けられるのを感じた。

 彼女の言葉が、彼の孤独と自己不信に光を投じる。


 ーーシェイル…お前はなんでそんな目で俺を見るんだ。


「シェイル……人に親切にすると……いつの日かそれで揚げ足を拾われるぞ」


 優しさなんて、裏切られるだけだ。もうそんな痛みを味わいたくないと彼は思うが、シェイルの温かい手がその考えを揺さぶる。シェイルは首を振って、穏やかに続けた。


「どうしてそんな事を言うのですか? 野盗に襲われ、隷属の魔法に苦しんでいた私を救ってくださった貴方様が……」


 彼女の瞳には、ビシャスへの深い信頼が宿る。ビシャスは目を逸らし、


「たまたまそういう気分だっただけだ。今は違う」  


 ぶっきらぼうに答えた。あの時は…ただお前が可哀想だっただけだ。

 それ以上の意味なんてないと彼は自分に言い聞かせるが、心の奥で動揺が広がる。


「いいえ……ビシャス様。それは貴方様の本心ではありません。助けたい。……本当はそう思っています」


 彼女の声は確信に満ち、月光が彼女の銀髪を輝かせる。「何を勝手に……」とビシャスが反論しかけるが、シェイルが言葉を重ねた。


「分かりますよ……出会ってまだ1日足らずだけれど……ビシャスは不器用でぶっきらぼうだけど、すごく優しくて強い人だってことくらい」


 シェイルの心には、ビシャスが自分を救ってくれた瞬間の温もりが刻まれていた。彼女は彼のぶっきらぼうな態度の裏に、傷ついた優しさを見ていた。


 ビシャスは押し黙った。優しい? 強い? 俺が? 彼の胸に複雑な感情が渦巻く。

 彼だって本心ではリナを――いや、ウルシャの街の人々を助けたいと思っている。だが、


 ーー助けたって、また笑われるだけだ。誰も俺を認めてくれない


 だが、シェイルの瞳がその棘を静かに溶かしていく。彼女の信頼が、彼の心に小さな火を灯した。


 ーーシェイルは……俺を信じてる。裏切らないって、信じてくれてる


 ビシャスは目を閉じ、深呼吸した。


「……はあ。まあ悪魔皇デーモンロードヨルムンガンドは俺の仇敵だ。奴の残党が勢力を伸ばすのは俺にとって面白くない。その結果としてウルシャの住民が助かったとしても……俺には関係のない事だ」


 言葉に無理やり冷たさを乗せる。関係ないなんて嘘だ。

 シェイルを守るためなら……街を守るためなら、戦う価値があると彼は心の中で認める。皇魔軍の脅威に立ち向かうのは、彼女のためであり、自分の過去を超えるためでもあった。


「シェイルがそう言うなら、仕方ない……」と彼は心の中で呟き、腰から魔導書を取り出した。

リナが涙を拭い、「ありがとう…ありがとうございます!」と声を震わせて感謝する。彼女の心に希望が灯り、折れた杖を握る手が少し力を取り戻す。


 ビシャスはリナを見やり、「礼はいい。さっさと済ませるぞ」とぶっきらぼうに言うが、その瞳には決意が宿っていた。


突然、シェイルが弾んだ声で叫んだ。


「ビシャス様ー!」


彼女はビシャスの腕に嬉しそうに抱きつき、獣耳がピョンと跳ねる。


「お、おい! 馴れ馴れしく抱きつくな。俺は悪魔皇デーモンロードだぞ」


ビシャスが慌てて言うが、声には照れが混じる。ったく…こいつ、ほんと無防備だなと彼は思うが、シェイルの笑顔に胸が温かくなる。


 「えっへへー」とシェイルが笑い、尻尾が楽しそうに揺れる。

 彼女の心には、ビシャスの優しさが確かに届いていた。

 月光が三人を照らし、風が木々を揺らす。ビシャスは「……行くぞ。覚悟しろ」と低い声で言った。



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