第8話 悪夢
ボロ小屋の夜は静かで、窓の隙間から吹き込む冷たい風が木の軋む音を運んでいた。
暖炉の火は小さく燃え尽き、灰の中に残った赤い残り火が時折パチパチと爆ぜて光を放つ。
ひび割れたガラス窓からは月明かりが薄く差し込み、埃っぽい床に淡い影を落としている。
シェイルはベッドに横になり、厚手の毛布にくるまって眠っていた。彼女の銀髪が月光に照らされて輝き、獣耳が寝息に合わせて小さく動く。まるで子狐が眠るような静けさを漂わせていた。
ビシャスはソファに腰掛け、古びた魔導書を膝に広げていた。彼は夜なべして、シェイルから教わった読み書きの基礎を頼りに魔導書を読み込んでいるのである。
革の表紙は擦り切れ、ページの端が黄ばんでインクが滲んでいる。彼の指がぎこちなく文字を追い、時折「スープ」や「火」といった簡単な単語を呟きながら、呪文の意味を解こうとしていた。
「なるほど……なんとなくだけど読めるようになってきたぞ。だが難しい文法もまだまだあるな……」
ビシャスはひとり呟く。暖炉の光が魔導書の文字に揺れ、彼の黒髪が額に落ちて影を作る。ペンを握る手が少し震え、インクの匂いが鼻をつく中、彼は集中してページをめくった。
ーーその時、シェイルの小さな呻き声が静寂を破った。
「う…うぅ…やめて…」と彼女の声が震え、毛布の中で体が小さく縮こまる。ビシャスは魔導書から目を上げ、彼女の方を見た。
シェイルの寝顔が歪み、眉が寄って額に汗が浮かんでいる。
獣耳が不安そうに下がり、尻尾が毛布の中でピクピクと動いていた。「主様…助けて…」と彼女が呟き、声が細く途切れる。
悪夢にうなされているのは明らかだった。ビシャスは魔導書をソファに置き、立ち上がって彼女に近づいた。床が軋み、スーツの袖が暖炉の残り火に照らされて影を落とす。彼はシェイルの肩に手を伸ばし、彼女を起こそうとした。
ーーだが、その手が彼女に触れる瞬間、ストロベリーたちの冷たい視線が脳裏をよぎった。
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ーーコウスケがストロベリー達と野営していた時。
それぞれが焚き火の周りに思い思いの場所を取っていた。ストロベリーとエリス、リリィ達は焚き火の向こう側に腰を下ろし、剣を膝に置いて鋭い目でコウスケを一瞥する。パーティの距離感は微妙で、互いに軽口を叩きながらも、コウスケに対してはどこかよそよそしい空気が漂っていた。
「ねえ、コウスケ。また服を汚しているわね……不細工な格好。クスクス……笑えるんだけど」
ストロベリーが口を開き、声に皮肉が滲む。彼女は剣の柄を軽く叩きながらニヤリと笑い、焚き火の光が彼女の黒くて長い髪に反射して揺れる。エリスが削っていた枝を放り投げて加勢した。
「ほんとだよ。冒険者って感じしないよね。おじさん、荷物持ち以外に何ができるの?」
エリスの金髪が風に揺れ、焚き火の火花が彼女の足元に落ちて消えた。さらに「文字も読めないくせに魔導書持ってるし、マジで意味分かんない」と加える。
コウスケは黙って焚き火を見つめ、スストロベリーたちの言葉が胸に突き刺さり、暖かい火の光とは裏腹に冷たい孤独が彼を包む。
彼は魔導書を手に持つが、その重みが今はただの負担に感じられた。「俺だって…何かできるさ」と小さく呟くが、声は焚き火の爆ぜる音にかき消される。ストロベリーが目を細め、さらに畳み掛けた。
「何かできるって、何よ?荷物運ぶ以外……おじさんと一緒に旅してるなんて噂、絶対嫌なんだけど。恥ずかしいわ。本当に」と彼女が言い、焚き火に枝を投げ込む。火が勢いを増し、彼女の顔に影を落とす。ストロベリーはさらに続ける
「ねえ、コウスケ、この魔導書読んでみてよ。呪文唱えられるんでしょ? 見せなさい」
コウスケは魔導書の表紙を握り、ページを開こうとするが、手が震えて止まる。
彼は文字を満足に読めず、呪文を解読する力もない。ストロベリーたちの視線が彼に突き刺さり、焚き火の暖かさが逆に彼を追い詰めるようだった。
「…今はやめとく」
コウスケが低く呟き、魔導書を膝に置いた。ストロベリーが鼻で笑う。
「ほらね、やっぱり何もできないじゃない。おじさん、荷物持ちでいいわよね。私たちにはそれで十分よ」と言い放つ。ストロベリーたちは焚き火の周りで円を作り、コウスケをその外に置くように距離を取った。三人は互いに顔を見合わせ、クスクスと笑いながら話を続けた。
「おじさん、次の町で置いてっちゃいましょう」
コウスケは焚き火の火を見つめ、ストロベリーたちの言葉が胸に重くのしかかる。火の光が彼の顔に揺れた。
コウスケは魔導書を握り潰しそうになり、唇を噛んで俯いた。森の風が木々を揺らし、焚き火の火花が舞い上がる。三人の笑い声が彼を包み、彼の孤独が焚き火の暖かさに溶けないまま夜が深まっていった。ストロベリーたちは彼を完全に仲間とは認めず、微妙な距離感がその場に冷たい壁を作っていた
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あの夜が、彼の心に暗い影を落とす。彼女たちの裏切りがまだ癒えず、誰かに手を差し伸べることへの恐れが彼を躊躇させた。
「やめて……お願い。あぁ……助けて……誰か……怖い。怖いよぉ……」
シェイルの震える声と怯えた表情が彼の優しさを呼び覚ました。ビシャスは唇を噛み、葛藤を振り払うようにシェイルの手をそっと握った。
彼女の手は小さく冷たく、指先が微かに震えている。彼は軽く揺すりながら、低い声で呼びかけた。
「おい、シェイル。起きろ。……大丈夫か?」
シェイルはハッと息を吸い、目を開けた。銀色の瞳が月光に濡れ、恐怖と混乱が混じっている。
「はっ……も、申し訳ありません!主人様!」
彼女はビシャスを見上げ、突然「わあっ」と泣きじゃくった。
涙が頬を伝い、毛布を握る手が震える。獣耳が下がり、尻尾が毛布の中で縮こまる。彼女は体を起こし、ビシャスの胸にすがるように顔を埋めた。ワンピースの裾が乱れ、暖炉の残り火が彼女の涙を照らす。ビシャスは一瞬戸惑ったが、彼女の背に手を回し、ぎこちなく抱き寄せた。
「夢の中で……また奴隷だったんです……鎖に繋がれて、暗い部屋で……野盗が来て、私を……私を……」
「もういい……大丈夫だ。何も心配しなくていいから……」
「鎖が……首に絡まって……主人が笑ってて……私、逃げられなくて……石になって……」
「シェイル……」
ビシャスは彼女の言葉を聞きながら、ストロベリーたちの裏切りと重ね合わせた。自分の孤独を思い出したのである。
シェイルの涙を見ているうちに、彼の中で何かが変わり始めた。
彼女の純粋な恐怖が彼の心に響き、彼女はストロベリーたちとは違うと気づく。
裏切るどころか、彼を信じ、頼ってくれている。彼は深呼吸し、彼女の手を強く握った。ストロベリーたちの嘲笑を振り払い、彼女たちの見下す目を超える何か――シェイルを守るための力――を自分の中に見出したいと思った。
自分の魔力がどれほど膨大で制御しきれなくても、彼女のために使えば意味があるはずだ。ビシャスは「悪魔皇」という偽りの名に、初めて本物の意志を込めようと決めた。暖炉の光が彼の顔を照らし、彼の声が低く、力強く響く。
「シェイル……お前をいじめる悪い奴は俺が追い払ってやる。悪魔皇の俺がな……」
まるで幼子をあやすかのような口調で言う。ビシャスの心に複雑な感情が渦巻いた。偽りの名を名乗る自分が滑稽に思えつつ、シェイルの涙を拭うためにはその名に力を宿らせたいと願った。
シェイルは涙に濡れた瞳で彼を見上げ、驚きと安堵が混じった表情を浮かべた。
「ビシャス様…本当に?」
「ああ……本当だ」
その言葉に、シェイルの瞳が大きく見開かれた。涙が止まり、銀色の瞳に微かな希望が灯る。彼女はビシャスの手を握り返し、小さく頷いた。
「……私……貴方に会えてよかった。まだ出会って1日だけど……見るもの感じるもの……全てが鮮烈で……どこか懐かしいの……」
「そうか……」
獣耳が少し立ち上がり、尻尾が毛布の上で穏やかに揺れ始める。ビシャスは彼女の頭を軽く撫で、スーツの袖が彼女の銀髪に触れる。暖炉の残り火が小さく爆ぜ、部屋に微かな温もりを残した。
二人はしばらくそうして寄り添い、夜の静けさが彼らを包んだ。