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第7話:魔導書


 ウルシャの市街地で買い物を終え、小屋に戻ったビシャスとシェイル。

  暖炉では薪が赤々と燃え、オレンジ色の光が部屋を柔らかく照らしていた。

窓の外からは夜のウルシャの街灯が微かに瞬き、遠くで酒場から漏れる誰かの笑い声や馬車の軋む音が風に乗り、静かに響いてくる。


ビシャスは暖炉の前にどっかと腰を下ろし、買い物の疲れを癒すように肩を回した。

 シェイルはベッドの端に腰掛け、銀髪を指でそっと梳いていた。ワンピースの裾には小さな花の刺繍が施され、暖炉の光に照らされて淡く輝いている。

彼女の獣耳が火の揺らめきに反応して小さくピクリと動き、長い尻尾がベッドの毛布の上をゆったりと揺れていた。彼女はビシャスを見やり、穏やかな笑みを浮かべた。


「ビシャス様、今日はありがとうございました。新しい服も、夕陽も…全部嬉しかったです」

「ふん、かまわんよ。……ところでシェイル」


  シェイルは首を傾げ、「はい、なんでしょう?」とキョトンとした表情で彼を見た。彼女の獣耳が好奇心に反応して少し立ち上がり、尻尾が一瞬止まった。ビシャスは少し言いづらそうに目を逸らし、暖炉の火に手を翳したまま、薪が爆ぜる音に紛れるように呟いた。


「文字の読み書き……続きを教えてもらえないだろうか? お前に習って感じたんだが…人間の文字ってのも、中々興味深いな」


  シェイルの顔がぱっと明るくなり、彼女は嬉しそうに頷いた。「――はい! 喜んで!」彼女の声には弾むような喜びが滲み、尻尾が再びゆったりと動き出した。

彼女はベッドの横に置いてあった紙とペンを手に取り、膝の上に紙を広げた。暖炉の光が紙に反射し、白い表面がほのかにオレンジに染まる。彼女の細い指がペンを握り、丁寧に線を引いていく様子は、まるで小さな儀式のようだった。


「ビシャス様、前回は『スープ』を覚えてくださいましたよね。今日は…『火』はどうでしょう? 暖炉の火です」


  シェイルは紙に「火」という字を書いた。「火」の文字は、まるで小さな炎が立っているような形をしていた。まず、縦にまっすぐな線が一本引かれ、その中央から左右に短い横線が二本、まるで火が揺らめくように伸びている。

そして、頂点には小さな点が一つ、炎の先端を象徴するように置かれていた。縦線は細く力強く、横線は左右対称に短く広がり、点は軽く触れるように置かれて、全体が暖炉の火を思わせる生き生きとした形を作り出していた。紙に書かれたその文字は、まるで今にも燃え上がりそうな勢いを感じさせた。

  ビシャスは彼女の横に移動し、ベッドの端に腰を下ろして紙を覗き込んだ。


「簡単そうだな。ほら、こうか?」


  ビシャスはペンを手に取り、ぎこちなく「火」を真似て書いた。まず縦線を引いたが、少し斜めに傾き、左右の横線は長さが揃わず、一方は長すぎ、もう一方は短すぎた。頂点の点は力が入りすぎて大きく潰れ、まるで子供の落書きのような仕上がりになった。だが、シェイルは目を細めて優しく微笑み、彼の努力を見守った。


「ビシャス様、上手です! 少し形が違いますけど、ちゃんと『火』って分かります。私、もう一度書いてみますね。こうやって…」


  シェイルが紙に新しい「火」を書いた。彼女の描いた「火」はまるで本物の炎が紙の上で静かに燃えているようだった。

  縦線は細く真っ直ぐで、左右の横線が短く均等に広がり、頂点の点が小さく繊細に置かれている。その形は暖炉の火をそのまま映したような美しさがあり、線の流れに彼女の穏やかな心が宿っているようだった。

  ビシャスはそれをじっと見て、もう一度挑戦した。今度は縦線を慎重に引き、横線を短く揃え、点を小さく置いた。少し歪んでいたが、初めてより形が整い、シェイルが「素晴らしいです、ビシャス様!」と手を叩いた。彼女の尻尾が嬉しそうに揺れ、暖炉の光に照らされた銀髪がキラキラと輝いた。


「ビシャス様、せっかくですから魔導書を見てみませんか? 私、一緒に読んでみますね」


シェイルはビシャスの腰に下げられた古びた魔導書を取り、革の表紙をそっと開いた。表紙は使い込まれて角が擦り切れ、革の表面には細かな傷が刻まれている。ページは黄ばんでいて、インクが滲んだ呪文の文字がびっしりと並んでいた。紙の端は触れるたびに微かに崩れそうなほど脆く、古い魔法の匂いが漂ってくる。シェイルはページを指さし、穏やかに言った。


「ビシャス様、ここに『火』があります。ほら、『火の矢』って書いてあります。読んでみてください」


ビシャスは目を細め、彼女が指す文字をじっと見た。確かに「火」の字がそこにあった。縦線に左右の横線、そして小さな点――紙で練習した形が、魔導書の中でも同じように生きていた。

インクが滲んで少しぼやけていたが、「火」の形ははっきりと浮かび上がり、他の複雑な文字に囲まれながらも彼の目にはっきりと映った。


「読めるぞ。『ひのや』…これでいいのか?」


ビシャスが呟くと、シェイルは目を輝かせて頷いた。


「はい、その通りです! ビシャス様、こんなに早く読めるなんて…すごいです!」


  ビシャスの胸に熱い喜びが広がった。初めて魔導書に書かれた文字を自分で読めた――その事実に、彼は素直に感動していた。

ストロベリーたちと旅していた頃、魔導書を手に持っても呪文が読めず、ただ魔力を乱暴にぶつけるだけの使い方しかできなかった。


――あの頃の記憶が、ビシャスの心に蘇ってきた。

森の中、焚き火を囲んでいた夜、ストロベリーが彼の魔法を冷たく嘲笑った。


――クスクス…おじさんの魔法って下手で乱雑ねぇ。魔導書持ってる意味ないじゃない。ただ光る玉しか出せないなら、荷物持ちで十分よ


 ストロベリーは言い、仲間の笑い声が焚き火の音に混じって響いた。

 ビシャスは悔しさで拳を握り潰しそうになりながらも、反論できず、ただ黙って火を見つめていた。

 けれど、今、シェイルの教えのおかげで「火の矢」を読めた瞬間、その痛みが少し和らいだ気がした。戦闘用の魔法が上手く発動しないのは、発音を真似ていても、それを正しく読んで意味を理解できていなかったからではないか。そんな気づきが、ビシャスの中で静かに芽生えていた。


「フ…面白いな。文字ってものは…なんだか嬉しい…」


 ビシャスは聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。暖炉の火が彼の顔を照らし、普段はぶっきらぼうな表情に、ほのかな喜びが浮かんでいた。シェイルはそのかすかな声を聞き逃さず、驚いたように彼を見上げた。


「ビシャス様…嬉しいだなんて、私も嬉しいです。ビシャス様の魔力、私でも感じるくらい膨大ですもの。それをちゃんと使えるようになったら…もっとすごいことになりますよ!」

ビシャスは魔導書を手に持ったまま、彼女に目を向けた。「魔導書全部読めるようになったら…お前に何かすごい魔法見せてやる。期待しておけ」


 シェイルは目を輝かせ、「はい、ビシャス様!」と弾む声で答えた。

 暖炉の火が小さく爆ぜ、部屋を柔らかく照らす中、二人は魔導書と紙を手に持って夜遅くまで文字の練習を続けた。暖炉の光が揺れるたび、シェイルの銀髪が輝き、ビシャスの荒々しい手がペンを握る音が静かに響いた。


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