第2話 暖炉とF
雨が上がった翌朝、ビシャスとシェイルは雑木林を抜け、近くの町へと向かった。まずは冒険者ギルドに立ち寄り、寝泊まりする場所を確保しようということだ。
2人が来た街は、「ウルシャ」と呼ばれる古代オリエント風の都市国家だ。
街は北と南を流れる二つの大河に挟まれ、その豊かな水源を活かした灌漑農業が発展している。川岸には石造りの水路が網の目のように張り巡らされ、畑には小麦や大麦、ナツメヤシが豊かに実り、土壌の恵みが街の生命線を支えている。交易路の要衝としても栄え、市場には異国の商人たちが馬車で運んできた絹織物、香辛料、青銅器が並び、賑やかな喧騒が絶えない。
高い城壁に囲まれた街並みは、赤茶色のレンガと白い石灰岩で築かれ、平屋の住居や神殿風の建物が混在している。経済的な豊かさは明らかだが、その繁栄ゆえに魔物や異国の略奪者の標的となりやすく、街を守るために冒険者稼業が商業として根付いていた。
ギルドはこの街の中心に位置し、交易で得た富を背景に、トラブル解決を担う冒険者たちを組織化している。雑草抜きのような小さな依頼から、魔物退治や交易路の護衛まで、依頼の内容は多岐にわたり、街の安全と繁栄を支える重要な役割を果たしていた。
「ウルシャ」のギルドは、街の中心広場に面した大きな建物で、外壁には灌漑水路を模した彫刻が施され交易の神を象徴する翼の紋章が掲げられている。入り口には剣や盾を持った冒険者たちが忙しそうに出入りしている。
ギルドの建物に足を踏み入れると、木の香りと汗の匂いが混じった空気がビシャスを迎えた。
ギルドの内部は活気に満ち、壁には剥がれかけた冒険依頼の張り紙が無造作に貼られ、木製の柱には剣の傷や煤の跡が刻まれている。
中央には大きなカウンターがあり、その奥に受付嬢が座っていた。彼女は眼鏡をかけた若い女性で、茶色の髪をきっちりと束ね、青い制服が少し擦り切れている。机の上には帳簿やペンが散らばり、彼女の手元にはインクの染みが薄く残っていた。彼女は事務的な口調で二人を迎えた。
「冒険者登録ですね? 名前と魔力測定をお願いします。まずそちらのおじさんからどうぞ」
「おじさん」と言われて、ビシャスは一瞬顔をしかめた。カウンターの端には魔力測定用の水晶球が置かれ、透明な球体が暖炉の光を反射して鈍く輝いている。表面には細かな傷が刻まれ、長年の使用感が漂っていた。受付嬢が淡々と指示した。
「手を置いて、魔力を流してください。簡単ですよ」
ビシャスは少し不安そうに水晶球の前に立った。彼の魔力は膨大だが、普段はそれを隠していたし、制御するのも苦手だった。魔王を倒した時もそうだったが、全力で流したらどうなるか、自分でも想像がつかない。ギルド内の喧騒が一瞬遠ざかり、彼の耳には自分の鼓動だけが響いているようだった。暖炉の火が小さく爆ぜ、カウンターの木目が彼の手の下で冷たく感じられた。
「よし……少しだけだ。少しだけ……」
内心で呟きながら、彼は慎重に魔力を流し始めた。指先が水晶球に触れると、冷たい感触が掌に伝わり、一瞬だけ緊張が走る。すると、水晶球が一瞬眩しく光った。純白の光が球体全体を包み、まるで小さな太陽のように輝いた後、突然「パキン!」と甲高い音を立ててひび割れた。
「えっ!?」
受付嬢が目を丸くし、眼鏡がずり落ちそうになる。周囲の冒険者たちも一斉にこちらを振り返った。ギルド内は一瞬静まり返り、暖炉の火の音と遠くの笑い声だけが響く。
ビシャスは慌てて手を引っ込めたが、時すでに遅し。水晶球は完全に砕け散り、透明な碎片が机の上に散らばり、床に落ちてカランカランと軽い音を立てた。碎片が暖炉の光を反射し、まるで小さな星のように輝いている。
「な、何!? 今の何!?」
受付嬢が混乱しながら立ち上がり、帳簿を手に持ったままビシャスを凝視した。彼女の声には驚きと苛立ちが混じり、カウンターの端に置かれたペンが転がって落ちる。ビシャスは気まずそうに頭をかいた。濡れた髪が指に絡まり、泥のついた手が首筋を汚した。
「いや、その……ちょっと力加減を間違えただけだ……」
「ちょっとって……水晶球が壊れるなんて聞いたことないですよ!」
受付嬢は目を疑うようにビシャスを見つめ、やがて深くため息をついた。彼女は眼鏡を直し、帳簿に何かを書き込みながら冷静さを取り戻そうとしている。
ギルド内の冒険者たちがざわめき始め、好奇心と嘲笑の視線がビシャスに集まった。
「魔力が弱すぎて反応しなかったのか、それとも測定不能なくらい低いのか……どちらにせよ、これじゃ正確なランク付けはできません。とりあえず最低ランクのFにしておきますね」
「F……?」
シェイルが隣で首を傾げた。彼女はビシャスの袖をそっと握り、小声で訴えた。
「ビシャス様、そんな…ありえないです! だって昨日、私の隷属魔法を一瞬で……」
「シェイル。静かにしろ」
ビシャスは慌ててシェイルの口を押さえた。周囲の視線を避けるように小声で制したが、すでに遅かった。近くにいた冒険者たちがニヤニヤしながら近づいてくる。革鎧を着た大男が剣を肩に担ぎ、酒臭い息を吐きながら笑った。
「おいおい、Fランクだってよ。こんな冴えないおっさんが冒険者気取りか?」
別の男が、弓を手に持ったまま床に唾を吐き、嘲笑を続けた。「水晶球壊すなんて、どんだけ魔力ないんだよ。笑えるぜ!」
嘲笑の声がギルド内に響く。シェイルはビシャスを心配そうに見つめ、そっと袖を引っ張った。
「ビシャス様……気にしないでください。私、知ってますから。あなたがすごい人だって……」
「気にするな。何を言われてもかまわん」
受付嬢は帳簿を閉じ、疲れた声で「それではお部屋をご案内します」と言う。
「Fランクの方はこちらのお部屋になります。ごゆっくり…と言いたいところですけど、まあ、頑張ってくださいね」
彼女が指差したのは、ギルドの裏手にあるボロボロの部屋だった。ビシャスはシェイルを連れてその場を後にした。ギルド内の嘲笑が背中に刺さる。シェイルは彼の横を歩きながら、銀色の瞳でそっと見上げ、小さな声で呟いた。
「……私、信じてますから」
ギルドの喧騒が遠ざかり、二人の足音だけが静かに響いた。
◾︎◾︎
受付嬢に案内された小屋に到着した。
木製の扉は錆びた蝶番が軋み、力を入れるたびに甲高い音を立てて開いた。壁には風雨にさらされた穴がいくつも開き、隙間から冷たい風がヒュウヒュウと吹き込んでくる。
屋根は苔と雨漏りの跡で黒ずみ、天井の梁には蜘蛛の巣が薄く張り付いていた。小屋の中は薄暗く、埃っぽい土の匂いが鼻をつく。
部屋の隅には古びた暖炉があり、薪が小さく燃えてオレンジ色の光を放ち、かろうじて寒さを和らげていた。床は板張りだが、所々が腐って軋み、歩くたびにギシギシと不安げな音を立てる。中央には擦り切れたソファが置かれ、布地は色褪せて破れ、綿が少しはみ出している。
窓は一つしかなく、ガラスはひび割れ、枠には歪んだ木が嵌まっていた。外からはギルドの喧騒が遠くに聞こえ、時折馬車の車輪の音が響いてくる。
「疲れただろ。座ると良い」
その言葉に、シェイルは一瞬だけ目を上げてビシャスを見た。
小さな体をわずかに縮こまらせるようにして立ち尽くした。長い銀髪が揺れ、ふさふさした狐のような獣耳がピクピクと動き、内心の葛藤を表しているようだった。
彼女のワンピースはまだ泥と雨の跡が残り、裾の花刺繍が汚れてくすんでいる。尻尾が不安そうに小さく揺れ、足元の床に微かな影を落としていた。
「どうした?」
ビシャスが首を傾げて尋ねると、シェイルの声は小さく震え、言葉を続けるのをためらっているようだった。
「い、いえ……その……」
彼女の指先がスカートの端をぎゅっと握りしめ、布が小さく皺になる。まるで何か大きな決断を迫られているかのように見え、彼女の細い肩が緊張で固まっていた。暖炉の火が彼女の顔を照らし、銀色の瞳に微かな不安が揺れている。ビシャスはそんな彼女の様子に首を傾げ、しばらく黙って見つめた後、もう一度口を開いた。
「別に噛みついたりしないぞ」
軽い調子でそう言ったが、シェイルの表情は依然として硬いままだった。彼女は唇を噛み、視線を床に落としたまま、ぽつりと呟いた。暖炉の光が彼女の頬に影を作り、声には深い諦めと長い間染みついた恐怖のようなものが混じっていた。
「私…奴隷だったから……こんな立派な場所で、主様と同じ場所に座るなんて……許されることじゃないって…」
その言葉に、ビシャスは一瞬言葉を失った。彼女の声は途切れがちで、過去の重さが彼女を引き戻しているようだった。
奴隷として生きてきた日々――冷たい石の床に膝をつき、命令に従うしかなく、逆らうことなど考えられなかった時間。
暗い部屋で鎖に繋がれ、主人の気まぐれに怯えながら息を潜めていた記憶が、彼女の体に染みついた習性として今この瞬間に現れている。
首に刻まれていた隷属の魔法は消えたが、心の鎖はまだ彼女を縛っていた。暖炉の火が小さく爆ぜ、彼女の銀髪にオレンジの光が反射して揺れる。
「主様は俺のことか?」
ビシャスが少し呆れたように尋ねると、シェイルは小さく頷いた。彼女の獣耳がわずかに下がり、尻尾が床に触れるほど縮こまる。
「ビシャス様は私を助けてくださった…私の命を救って、自由をくれた方です。でも、私みたいな者は…こんな素晴らしい場所で、ビシャス様の横に座るなんて畏れ多い…」
彼女の声は細く、まるで消え入りそうだった。
銀色の瞳に微かな涙が光る。彼女にとって、このボロボロの小屋でさえ「立派な場所」に映り、ビシャスは「救世主」であり「主」だった。
ビシャスはそんなシェイルを見つめ、内心で小さくため息をついた。
ストロベリーたちに裏切られた傷がまだ疼いている彼にとって、誰かを「信じる」ことは簡単ではなかった。「おじさんと一緒にいるなんて嫌」と冷たく切り捨てられた記憶が、彼の心に暗い影を落としている。
それでも、目の前に立つこの少女が、自分をどう見ているのかは痛いほど伝わってきた。彼女にとってビシャスは希望であり、だからこそ、彼女は自分を低く置こうとしているのだ。
「いいから座れ」
ビシャスは強めに言葉を遮り、ソファをもう一度叩いた。手の甲に付いた泥がソファに落ち、埃が小さく舞う。
シェイルはビクッと肩を震わせたが、ビシャスの視線が真剣なものだと気づくと、おずおずとソファに近づいた。
彼女の足音が床を小さく軋ませ、ワンピースの裾が揺れて暖炉の光に影を落とす。
ソファに腰を下ろすと、彼女の小さな体が沈み込み、破れた布地が微かに軋んだ。
尻尾がソファの端に沿ってゆったりと動き、獣耳が少しだけ立ち上がった。
「……俺はお前を奴隷扱いする気はない」
ビシャスが静かに言うと、シェイルは目を丸くして彼を見上げた。暖炉の火が彼女の顔を照らし、驚きとほのかな安堵が銀色の瞳に浮かんでいた。
彼女の細い手がスカートを握る力が緩み、肩の緊張がわずかに解ける。
「ビシャス様……ありがとうございます……」
小さな声でそう呟くと、シェイルは初めて少しだけ肩の力を抜いた。