第1話 雑木林と雨
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コウスケは雨に打たれながら、雑木林の真ん中で立ち尽くしていた。冷たい雨粒が彼の頬を無情に伝い、ぼろぼろのスーツに染み込んでいく。
29年間の人生で、これほど惨めな気持ちになったことはなかった。濡れた髪が額に張り付き、視界をぼやけさせる。足元の泥が靴に絡みつき、重く沈んだ音が雨音に混じる。つい数時間前まで、彼は仲間と共に魔王を討伐し、世界を救った英雄だったはずだ。
なのに今、彼は一人だ。雑木林の木々は風に揺れ、葉から滴る水が地面に小さな波紋を作っていた。遠くで雷が低く唸り、空は灰色の雲に覆われている。
「おじさんと一緒に旅してたなんて噂、絶対に嫌。もう一緒にいられないわ……クスクス」
そう言って彼を切り捨てたのは、リーダーのストロベリーだった。長い黒髪を風になびかせ、鋭い目つきで彼を見下した彼女の言葉は、コウスケの胸に冷たい刃のように突き刺さった。
彼女の赤いマントが雨に濡れて重そうに揺れ、背中に背負った剣の柄が鈍く光っていた。その瞳には、コウスケへの軽蔑と決別の意志がはっきりと映っていた。
「なぁ、コウスケ。アンタってさ、ただの荷物持ちだったじゃん? 魔王戦でもほとんど何もしてなかったし。アーシもうウンザリなんだけど」
それは女戦士エリスの声だった。肩に掛けた鎖帷子が雨に濡れて鈍い音を立て、彼女の鍛え上げられた腕が剣の柄を握り直す。いつも笑顔で毒を吐く彼女らしい一言が、コウスケの耳に鋭く響いた。彼女の金髪が雨で濡れて顔に張り付き、その笑みが一層残酷に見えた。
「うん、私たちだけで十分だったよね。ごめんなさい……コウスケ」
最後は修道女リリィだった。白いローブの裾が泥で汚れ、彼女の手には癒しの杖が握られている。優しげな口調で締めくくられたその言葉が、なぜか一番深く彼を傷つけた。
彼女の青い瞳には同情が浮かんでいたが、その裏に隠れた冷淡さがコウスケの心を締め付けた。
三人の若い女性たちは、彼を置き去りにして去っていった。長い旅を共にした仲間だったはずなのに、彼女たちにとってコウスケは「冴えないおじさん」でしかなかったらしい。
彼女たちの足音が遠ざかり、雨に紛れて消えるまで、コウスケはただ立ち尽くしていた。背負っていた荷物さえも彼女たちに奪われ、残されたのは雨に濡れた体と空っぽの心だけだ。
確かに、彼は29歳の平凡なサラリーマンだった。異世界に転生する前は、上司に怒られながらデスクで書類を埋める毎日を送り、彼女なんて一度もできたことがない。そんな自分が、女神の気まぐれでこの世界に放り込まれ、凄まじい魔力を持ってしまったのだ。転生の間での女神の声が今も耳に残る――「この力で世界を導け」。だが、その力を使いこなす術を彼は知らず、ただ隠してきた。
その魔力を仲間たちに見せることはほとんどなかった。優しい性格が災いしてか、コウスケはいつも後ろで荷物を持ち、戦闘ではサポートに徹していた。魔王を倒したのだって、彼が最後に放った一撃が大きかったはずなのに、ストロベリーたちはそれを認めなかった。
「あれは私たちの連携のおかげ」と言い切り、コウスケの存在をまるでなかったことにしたのだ。
「何やってんだろ、俺……」
コウスケは濡れた髪をかき上げ、自嘲気味に呟いた。声は雨音に掻き消され、虚しく響く。目の前を流れる小さな水たまりに、自分の疲れ果てた顔が映っていた。雨がその表面を叩き、歪んだ姿が揺れる。そんな時、突然、近くからかすかな叫び声が聞こえてきた。
「助けて……! 誰かぁぁ……」
声は弱々しく、必死だった。雨に混じるその音に、コウスケは反射的にそちらへ足を向けた。木々の間を抜け、濡れた枝が顔を擦る中、彼は走った。泥が靴に絡み、息が荒くなる。木々の隙間から見えたのは、驚くべき光景だった。
獣耳の少女が、縄で縛られ、地面に倒れていた。彼女の長い銀髪が泥にまみれ、大きな瞳は恐怖に震えている。ふさふさした狐のような耳が怯えたように垂れ、長い尻尾が泥の中で弱々しく揺れていた。
雨に濡れた肌に浮かんでかすかに不気味な光を放っている。着ていた薄い布の服は破れ、肩や腕に泥と血が混じった傷が痛々しく残っていた。彼女の周りには粗野な男たちが数人――野盗だ。リーダーらしき男は汚れた革鎧を着て、剣を手に少女を見下ろしていた。鎧には錆が浮かび、雨に濡れて鈍い光を放つ。男の顔には無精髭が生え、唇の端が歪んだ笑みを浮かべていた。
「おい、こいつ売ればいい金になるぜ。獣人族なんて珍しいからな。」
その男が笑いながら少女のスカートをつかむと、彼女の体が小さく震えた。野盗たちの笑い声が雨音に混じり、森に不気味に響く。その瞬間、コウスケの中で何かが弾けた。「やめろ…!」と彼の声が雑木林に響き渡った。野盗たちが一斉に振り返り、驚きと嘲笑が入り混じった目で彼を見た。雨が彼らの顔を濡らし、革鎧や剣に滴り落ちている。
「なんだ、てめえ? 何者だ?」
リーダーらしき男が剣を抜き、コウスケに近づいてきた。雨に濡れた顔に傷跡が浮かび、歯が欠けた口元が歪んで笑う。剣の刃には錆が浮かび、雨水が流れ落ちて泥に混じる。コウスケは震える声で言った。
「……彼女を放せ」
本当は怖かった。戦うなんて、仲間がいるときはいつも後ろで見ているだけだった。剣を握ったこともなく、魔力に頼るしかなかった。
でも、今は誰もいない。自分がやるしかない。膝が震え、心臓が激しく鼓動する中、彼の内に秘めた魔力が溢れ出した。
地面が揺れ、風が唸りを上げ、野盗たちの足元から黒い炎が噴き上がった。雨を蒸発させるほどの熱が辺りを包み、木々の葉が焦げる匂いが広がる。黒い炎は雨の中で不気味に揺らめき、雑木林の暗さに異様な光を投げかけた。地面には焦げた跡が広がり、泥が熱で乾いてひび割れた。
「な、なんだこれ!?」
「逃げろーっ!」
野盗たちは悲鳴を上げて散り散りに逃げ出した。黒い炎が彼らの足元を追い、雨の中で消えたり現れたりしながら不気味に踊る。コウスケ自身、こんな力が出るとは思っていなかった。制御できず、ただ溢れ出た魔力が暴走しただけだ。雨の中、黒い炎が消えると、そこには呆然と立ち尽くす彼と、目を丸くした獣耳の少女だけが残った。地面には焦げ跡が広がり、雨がその熱を冷まし、蒸気が微かに立ち上っていた。
「大丈夫か?」
コウスケは慌てて少女に駆け寄り、震える手で縄を解いてやった。濡れた縄が泥に落ち、彼女の細い手首に赤い跡が残っている。少女はしばらく彼を見つめ、やがて小さな声で尋ねた。
「あ、あなた…誰?」
その純粋な瞳に見つめられ、コウスケは一瞬言葉に詰まった。ストロベリーたちの冷たい視線が脳裏をよぎり、胸が締め付けられる。
――冴えないおじさんなんて言ったら、舐められる…! ここは何かカッコいい名前を…
彼は咄嗟に頭をフル回転させ、口を開いた
「ぼくは……俺の名は悪魔皇アルテマンド・ジス・ビシャスだ。」
◆◆
雨が止み、雲の切れ間から月明かりが二人を照らし出す。雑木林の木々が静かに揺れ、滴る水音が森に響く。ビシャスは獣耳の少女を見つめていた。彼女の名前はシェイルだと分かった。長い銀髪が月光に映え、ふさふさした狐のような耳と尻尾が儚げな美しさを放っている。
しかし、その首には黒い紋様が刻まれ、かすかに不気味な光を放っていた。服はボロボロで、薄い麻の布は破れて肩や腕を露わにし、泥と血が混じった汚れが痛々しくこびりついている。彼女の細い体は寒さに震え、月明かりがその震えを一層際立たせていた。
「ありがとうございます……本当に助かりました」
シェイルが小さな声で礼を言うと、ビシャスは気まずそうに目を逸らした。
彼女の声は弱々しく、感謝の言葉が素直に響く一方で、彼の心にはストロベリーたちの冷笑が重なって複雑な感情を呼び起こしていた。
「おじさんと一緒に旅してたなんて噂、絶対に嫌」と彼女たちに切り捨てられた記憶が、胸に冷たい棘となって刺さっている。
「怪我か?」
シェイルは一瞬怯えたように身を縮め、首に手を当てて紋様を隠そうとした。だが、すぐに諦めたように小さく息を吐き、ぽつりと答えた。
「これは…隷属の魔法。私、奴隷だったから…野盗に攫われる前までは、別の主人に仕えてました。」
彼女の声は震え、過去の重さがにじんでいる。「奴隷……?」とビシャスは目を丸くした。異世界に来てから驚くことばかりだったが、目の前の少女がそんな過酷な運命を背負っているとは想像もしていなかった。
「この魔法、かけられた者は逆らえません……あと少しで寿命が尽きて死ぬのです」
シェイルの瞳には諦めと恐怖が混じり、月明かりに濡れた涙が光る。ビシャスは言葉を失った。優しい性格の彼にとって、こんな理不尽な話を聞くのは辛かった。同時に、ストロベリーたちの冷たい言葉が頭をよぎる。
――女なんて…信じられない。
仲間たちに追放されたショックはまだ癒えず、シェイルに対しても無意識に壁を作ってしまう。それでも、放っておくわけにはいかなかった。「何とかしてやる」とビシャスは少しぶっきらぼうにそう言うと、シェイルの前に膝をついた。泥に濡れたズボンが冷たく、彼の手が微かに震える。
彼は目を閉じ、内に秘めた魔力を集中させる。転生してから気づいたこの力は、制御が難しいほど膨大だった。魔王を倒した時もそうだったが、彼自身その全貌を理解しきれていない。シェイルが慌てて止めようとした。
「え、でも……隷属の魔法は強力で、解くなんて……」
その瞬間、ビシャスの手から淡い光が放たれた。柔らかな風のようにシェイルを包み込み、月明かりと混じって彼女の周りを優しく照らす。
光は暖かく、まるで春の陽射しのように彼女の体を撫でた。首の黒い紋様がその光に触れると、まるで墨が水に溶けるように徐々に薄れ、脈動していた不気味な輝きが消えていく。
光が収まると、彼女の首は綺麗になり、重苦しい感覚が跡形もなく消えていた。月光が彼女の白い肌を照らし、紋様のあった場所がまるで生まれ変わったように清らかになった。
「……え?」
シェイルは呆然と自分の首に触れる。紋様は跡形もなく消え、彼女を縛っていた呪縛が解けた。ビシャスは少し照れくさそうに立ち上がった。
「これくらい当然だ」
内心、彼は驚いていた。こんな高度な魔法を無意識に解いてしまうなんて。彼の手から放たれた光は、自分でも制御しきれていない力の片鱗だった。
魔王戦で暴走した時と同じ感覚が、彼の胸をざわつかせた。だが、それを素直に口に出す気にはなれなかった。シェイルが信じられないといった表情で彼を見上げると、突然飛びつくように抱きつこうとした。彼女の尻尾が嬉しそうに動き、獣耳がピンと立つ。だが、ビシャスは反射的に一歩後ずさりしてしまった。
「ちょっと待て!」と声に明らかな動揺が混じる。シェイルは動きを止めて、少し寂しそうに目を伏せた。
「すみません…私、嬉しくてつい…」
「いや、いい……構わん、とりあえず…ここにいても仕方ない。どこか休める場所を探そう。」
ビシャスが提案すると、シェイルは小さく頷いた。
二人は雑木林を抜け、近くの岩場に小さな洞窟を見つけた。入り口は苔に覆われ、内部は湿った土の匂いが漂う。
ビシャスはポケットから取り出した火打ち石を手に持つと、近くに落ちていた乾いた枝と葉を集めた。
カチカチと火打ち石を打ち合わせると、小さな火花が飛び、集めた枝に火が移る。
焚き火がボウっとつき、オレンジ色の炎が洞窟を暖かく照らし出した。
火の揺らめきが二人の影を壁に映し、ざらついた岩肌に不規則な模様を描く。炎が薪を噛み、時折小さく爆ぜる音が静寂を破った。揺らめきが二人の影を壁に映す。
シェイルはビシャスの向かいに腰を下ろし、ボロボロの服をぎゅっと握りながら火を見つめた。彼女の銀髪が火の光に照らされ、オレンジと金の混じった輝きを放つ。獣耳が暖かさに反応して少し立ち上がり、尻尾がゆったりと揺れた。
「この火…とても暖かくて気持ちがいいです。」
焚き火の明かりが彼女の顔を照らし、恐怖と疲れでこわばっていた表情が少し解けていく。
ビシャスは彼女の言葉に小さく頷き、火を見続けた。
「……」
重い沈黙と共にビシャスの視線は炎に固定され、揺れる火が彼の瞳に映り込む。二人の間に微妙な距離が残り、焚き火の暖かさがその隙間を埋めようとするように揺らめいていた。