第三話:アイリスのお願い
「アイリスさんのお願いって、絵のモデルの話ですか?」
「えっ!?」
自分が濡れた事なんて置いておいて、俺は敢えて彼女に本題を聞いてみた。
いや、どうせ風呂掃除なんて濡れない方がレアだし、もう今更。
それに、アイリスさんにずっと謝られているのも気まずいし、話も進まなそうだったしさ。
俺の問いかけに、彼女はやっと動きを止め、顔を上げてこっちを見る。
露骨に驚いた顔をしてるけど、さっきの話は自己紹介で彼女が語っていた事。だからこそ、俺はそう鎌をかけてみたんだ。
アイリスさんは不安そうな顔を崩さず俯き、ちらりとだけこっちの様子を伺うと、おずおずと口を開く。
「は、は、はい。で、でもその、わ、私、お掃除の邪魔にばっかりなってますし、い、今もリュウトさんに酷い事を──」
「誰だってミスはありますし、謝ってくれたんですから。気にしなくていいですよ」
「で、でも!」
「えっと、明日が学校休みだからお願いしたい、って事で合ってますか?」
彼女がまた謝り出さないように会話を先に進めつつ、同時に不安にさせないよう笑顔を作ってみた。
今の今だしうまく笑えてるだろうか?
そんな不安が心に過ったけど、自分を信じて、話に集中する事にした。
「え、えっと、はい。でも……その……」
「いいですよ。少しだけ朝ゆっくり寝たいので、午後でもいいですか?」
「……ほえっ!?」
眼鏡の下の目を同じくらいのまん丸にして、ぴーんっと背筋と長い耳を伸ばし驚くアイリスさん。
カサンドラさんとは違うけど、彼女も何かとオーバーなリアクションをするんだな。
彼女の反応を微笑ましくなりながら見守っていると。
「いいい、いいんですか!?」
アイリスさんはそう叫びながら、藍色の髪の先を弄りながらもじもじとし始めた。
自分からお願いしてきて、断られる前提の反応だったのはどうなんだろうって思うけど、そこはなかったことにしておこう。
「いいですよ。でも、今度お願いをする時は、できれば門限は破らないようにしてくださいね」
「は、はい……」
笑顔のままそう言うと、アイリスさんが肩身狭そうに小さくなる。
でも、表情に反省の色もあるし、これでいいだろ。
「じゃ、掃除の続きをしましょうか」
「あ! で、でも、リュウトさんはびしょ濡れじゃ──」
「これだけの浴場を掃除してたら、遅かれ早かれ濡れますから。夜も遅いですし、早めに終わらせちゃいましょう」
「……」
俺は笑顔を崩さずそう言ったんだけど、そこでアイリスさんがこっちを見ながらぼーっとして動かなくなった。
ちょっと顔が赤いけど……まだ空気が少し温いし、動いたりもしてるから逆上せたのかな?
「あの、アイリスさん。辛かったら無理せず休んで──」
「やややや、やります! がんばります!」
心配して声をかけると、こっちの会話を遮り、無理矢理ガッツポーズを取ったアイリスさんが、さっと俺に背を向け水を撒き始める。
……なんか。色々と掴みにくい人だなぁ。
背を向けている彼女に苦笑しながら、俺もまた残りの泡を消すべく、そのまま仕事を再開したんだ。
§ § § § §
その後、リナちゃんとラナちゃん、アイリスさんには先に部屋に戻ってもらい、俺はエスティナと一緒に大浴場の乾燥準備を進め、夜十二時を回ろうとする頃、やっと一仕事を終えた。
その後濡れまくった自分を一旦服越しにタオルで拭いて、今は濡れたミャウをタオルで乾かしている。
「ごめんね。まさか彼女達のせいで、こんな事になるなんて」
「気にしなくていいよ。こいつがはしゃいだのも原因だし。な? ミャウ」
「ミャーウ……」
俺達に真っ白な毛を拭いてもらっているのに、ミャウは浮かない顔で元気なく返事をする。流石に迷惑をかけたって反省してるのか。
でもまあ、猫って遊んでもらうのに弱い印象もあるし、俺からすると仕方ない範囲なんだけど。
「何か、ミャウちゃん元気ないね」
「こいつなりに反省してるんだよ」
「私が強く言い過ぎちゃったからかな……」
身体を丁寧に拭いてあげながら、気落ちするエスティナ。
そこまで気にしなくたっていいのに。
「いいんだよ。俺だって、向こうでミャウがやりすぎた時は怒ってたもんな。な?」
「ミャーウ」
うん。と言わんばかりに、俺達に顔を向け頷いたミャウ。
その顔には、思い当たる節があると言わんばかり。
「でも、リュウトが怒る所って想像がつかないな」
「そんな事ないよ。エスティナが怒るのがもう少し遅かったら、俺のほうが先にミャウを怒鳴ってたかもしれないし。っと。こんなものでいいかな」
タオルを取り、毛並みを確認……うん。大体乾いただろ。
俺はタオルをくるくるっとまとめると、近くのタオルのかごに入れ、それを脇に持ち立ち上がる。
「そういえば、この洗濯物はどうしてる?」
「共同の洗濯置き場があって、そこにまとめて置いておくと、毎日洗濯屋さんが取りに来てくれるの」
「へー。じゃあそこに置きに行けばいい?」
「あ、えっと……。それは流石に、止めたほうがいいかも」
俺の脇で立ち上がったエスティナが、少し恥ずかしそうと言うか、申し訳無さそうな顔をする。
……あー。それもそうか。
「た、確かに、下着とかがある所に、男が入るのはよくないよな」
「そ、そうだね。あ、ちなみにリュウトの洗濯物は、私が毎日そこに運んであげるから安心してね」
「え? でも、それって……」
俺の下着を見られるって事じゃないのか?
思わず焦りを見せた俺に、慌ててエスティナが両手を振った。
「だ、大丈夫! 洗濯物を入れる布袋を渡すから、リュウトはそれに洗濯物をまとめておいてくれれば大丈夫だから。ね?」
「そ、そっか。それなら良かった」
いや、本気で良かった。
流石に下着とか見られるのは、ちょっとな……。
「じゃ、そろそろ戻るとするか」
「うん。あ、折角だから、これからリュウトの部屋まで洗濯物を取りに行ってもいい?」
「え? あ、う、うん。わかった」
いきなり!? と思ったけど、これについてはどうしても世話にならないといけないし、割り切らないとな。
内心戸惑いながらも、俺達は廊下に出て歩き出した。
深夜とはいえ明るい廊下。
とはいえ人気がないから、その静けさはちょっと不気味にも感じるな。
「そういえば、アイリスは何に付き合って欲しかったの?」
歩きながら、エスティナがそんな質問をしてくる。
アイリスさんと話している間、彼女はずっと説教していたし、その後も説明する暇がなかったんだよな。
まあ、隠す必要もないし、明日の予定だからエスティナにも話しておかないと。
「ああ。例の絵のモデルになって欲しいって話」
「あー、あの話だったんだ。あんなに真剣な顔で言うから、リュウトに告白したかったのかって思っちゃった」
「あははは……。まあ、俺も最初はまさかって思って、流石に焦ったよ」
思い返すだけで、自然と浮かぶ苦笑い
そんな俺に釣られて、彼女も苦笑する。
「ちなみに、もしアイリスが告白していたら、リュウトはどうしてたの?」
「え?」
突然の突拍子もない質問に、俺は戸惑いの声をあげる。
いや、あれが告白だったらって……うーん、まあ……。
「多分、断ってたかな?」
「どうして?」
「……そりゃ、エスティナが好きだから」
……なんて言えたら、どれだけいいんだろう。
でも、彼女には好きな人がいるんだ。迷惑は掛けられないもんな。
「いや、アイリスさんの事を全然知らないっていうのもあるけど。そもそも寮内で恋愛関係になって、周囲の女子からそういう目で見られるのって、何となく気まずくない?」
「あ、確かにそれはあるかも……」
当たり障りのない言い訳を口にすると、エスティナは少し考え込む。
「じゃあ、そういうしがらみがなくって、アイリスの事を知って良いなって思ったら、付き合うの?」
「……え?」
予想外の質問に、俺はまたちょっと驚いてしまい、思わず足を止めた。
それは質問の内容もそうだったけど、彼女がちょっと様子を伺うような表情を見せたから。
何でそんな顔をしたんだろう?
「えっと、何でそれが気になったの?」
逆にそう問いかけると、はっとしたエスティナは、俺から目を逸らす。
「あ、その、ね。アイリスって結構可愛いし、引っ込み思案だけど凄く優しいから。もしかしたら、リュウトも気になるんじゃないかなって……」
……あ、もしかして。
エスティナも、俺に幸せになって欲しいとか考えてくれてるのかな?
好きな人にそんな気遣いを受けるのは、ちょっと複雑だけど……。
「そっか。でも、今はあまりそこまで考えてないし、そういうのは恋愛感情を抱いた時にでも考えるよ」
「そ、そっか。何かごめんね。変なことを聞いちゃって」
「いや。構わないよ」
なんだろう。何かを誤魔化すように、彼女は苦笑してる。
それが妙に気になったけど、何となく深入りするのもはばかられて、俺はそれを気にしないようにして、また部屋に向け歩き出したんだ。




