第六話:突然の悲鳴
「あああ……ここまで柔らかで蠱惑的な存在が、世の中にあったなんて……」
溶けた、という表現。俺はあながち間違ってなかったと思う。
この部屋に入ってきた時の、ツンケンしたお嬢様らしさなんてそこにはない。
ただ、まるで美味しいデザートを食べ至福を味わった。そんな表現が相応しいくらい、目を細め、目尻を下げ、ただ幸せそうな微笑みを浮かべている彼女は、間違いなく溶けたと言っていいと思う。
まるで無限機関のように、きゅっきゅっと肉球を揉み続けるカサンドラさん。
まあ、初めての体験だし仕方ないんだけど、まだまだ他の生徒の顔合わせは控えてるんだよな……。
どうしようか……と俺が悩んでいると。
「カサンドラ。残りのみんなも待ってるし、ミャウちゃんもそろそろ終わりって顔をしてるよ」
はっきりと戸惑いを顔に浮かべながら、同じ気持ちだったかもしれないエスティナがそう伝えると、はっとした彼女は慌てて肉球から手を離した。
「べ、別に貴女に言われなくても分かっておりますわ!」
お? いきなりキャラを戻してくるんだ。
そう思ったのもつかの間。彼女は両膝立ちになり目を閉じると。
「ミャウ様。本日は私めにこのような至福の時間をご用意くださり、誠に感謝いたします」
なんて、ミャウに対し祈りだした。
勿論あいつもどんな顔をしていいか分からず、その場で固まってるけど、まあそうなるよな……。
そして、暫く祈りを捧げたカサンドラさんがゆっくりと目を開くと、立ち上がり俺の方を見た。
「そしてリュウト様。貴方様のお陰で神と触れ合えました事、感謝いたしますわ」
「……あ、うん。喜んでもらえたなら良かったよ」
神と触れ合えた……。
突然のパワーワード。そしてさっきまでと打って変わり、それなりにこっちを認めたような言い回しに驚きつつも、俺は何とか笑みを返す。
「私、この先ミャウ様により心を許していただく為、貴方様と共に歩めるよう精進いたしますわ。どうぞよしなに」
「……えっと、こちらこそ?」
俺と共に、歩めるように?
そう口にした彼女が顔を逸し、少し恥ずかしさを誤魔化すように澄まし顔をしたけど。俺は独特の言い回しに頭がついていかず、首を傾げながら疑問形で返事をしてしまう。
とはいえ、流石に彼女も俺の反応を咎めるような事はしてこなかった。
「では。ミャウ様。リュウト様。そしてエスティ。ごきげんよう」
そう言うと、今までの取り乱しようなんてなかったかのように、またも颯爽と去っていくカサンドラさん。
……正直、今まで顔合わせした女子生徒の中でも、一番インパクトがあったのだけは間違いなかった。
§ § § § §
「今思い返すと、カサンドラのミャウちゃん相手の取り乱しようは、ちょっと面白かったね」
彼女の事を思い出し、くすっと笑うエスティナ。
まあ、今考えると俺達二人とミャウしかいなかったとはいえ、流石にあれは失態だよなと思うものの。
ミャウに触れてからの彼女はお嬢様らしさ皆無だったけど、あれはあれで愛嬌があって良かったんじゃないかな、とも思うんだよね。
「これもミャウちゃんの魅力のお陰かな?」
「そうかもしれないね」
俺はエスティナと笑い合いながら、すやすやと寝息を立てているミャウを一緒に撫でる。と、瞬間。意図せず俺と彼女の手が触れた。
「あっ」
短い声が漏れると、慌てて彼女が手を引っ込めて、申し訳なさそうに俯いてしまう。
きっと本命とこうなったら、彼女も恥ずかしがりそうだけど、そうじゃない。
その反応から、やっぱり自分に脈がないように思えて、内心がっかりする。
「あの、ごめんね」
「いや。こっちこそごめん。気をつけるよ」
ちらちらこっちの様子を伺うエスティナに、俺はにこっと微笑み返し、安心させようとした、その瞬間。
「キャァァァァッ!」
俺の思惑を台無しにするくらいの甲高い悲鳴と、ガシャァァァァン! というどこかで窓の割れた音が届いた。
やや遠い、けど耳に十分届く声と音に、寝ていたミャウもハッと顔を上げ、俺とエスティナも思わず唖然として顔を見合わせる。
「今の悲鳴は、ミネット!?」
一体何があったんだ!?
慌ててベッドを降りた俺は、ささっと靴を履くと、エスティナ、ミャウと共に廊下に出た。
一階は客室と共有設備の部屋。だから廊下に誰がいる訳でもない。
「エスティナ! 彼女の部屋は!?」
「ここの三階!」
焦りと緊張で強張った顔の彼女に頷くと、俺は全力で階段のあるエントランスまで走ると、一気に階段を駆け上がる。
……二階……三階!
三階まで来た俺は、廊下に出ている多くのパジャマ姿の生徒達が、驚きや恐怖を見せているのを目撃した。
廊下の途中、窓側の壁に背を打ちつけたのか。顔を歪ませ座り込んでいるのは、イリアさんか!?
「イリア!」
俺に追いついたエスティナが、他の生徒に回復を受けている彼女に慌てて駆け寄ると、側で素早くしゃがみ込み、心配そうな顔を向ける。
呼びかけに気づき顔を上げたイリアさんは、瞬間「いつつっ」っと顔を歪めた。
「くっそ! あの野郎……」
「何があったの!?」
「変質者が、出やがった」
「変質者!?」
「ああ」
彼女のパジャマには、所々複数の切り傷がある。
怪我は消えてきてるけど、腹部には汚れた靴の跡。
未だ痛むって事は、蹴りで手痛い一撃を喰らったのかもしれない。
人が傷付き倒れている。
そんな現実を見て、俺の中に沸々と湧き上がる感情があった。
「ミネットは!?」
「さっきあいつが部屋に、強引に押し入りやがって……」
「彼女の部屋は?」
「こ、こっちです!」
エスティナとは真逆の落ち着いた声でイリアさんに問いかけると、それに答えたのは廊下の少し先にいたアイリスさん。
彼女は顔を青ざめた顔で身を震わせながら、空いた扉の部屋を指差している。
俺は無言で彼女の方まで駆け寄ると、部屋の中を見た。
ぱっと見エスティナの部屋と構造は同じ。
大きく荒れてはいない。けど、中庭に面した窓ガラスが、窓枠ごと派手に割られている。
って事は、あそこから飛び降りたのか。
三階。
それは決して低くはない。精霊術の飛翔や魔術の衝撃吸収なんかがあれば安全に下りられるかもしれない。
けど、変質者って事は男だよな。
だとすれば、魔法がなくてもそれだけのことができる身体能力がある相手って事になる。
と。窓の向こうから響き始めた金属のぶつかり合う音に、俺は思わず部屋の中に駆け込むと、床に散乱したガラスを無視し、割れている窓から中庭を見下ろした。
「はっはっはっ! その程度で僕とミネットちゃんの仲は引き裂けないよ」
眼下に見えたのは、暗い夜の中、窓からの明かりで照らし出された一人の大柄な男が、片手でミネットさんを肩に担ぎ、クラウディスさんとミレイの剣での挟撃を軽々と捌く姿。
この世界は男子の方が身体能力が高い。
それをはっきりと感じる戦い。間違いなく彼女達が劣勢だ。
「くそっ! 『魔力よ! 我により疾き力──』」
「遅いよ!」
「ぐはっ!」
ミレイさんが初級付与術、敏捷強化をかけようと詠唱した瞬間、鋭い踏み込みでその隙を蹴りで咎めた男。
彼女は慌てて剣で受けようとしたけど、それも間に合わず腹に蹴りを受けると、大きく吹き飛びごろごろと地面を転がっていく。
そして、止まったその場で呻きながら、腹を抑え動けなくなった。
「ミレイ!」
思わず妹への追撃を嫌い、彼女を庇うように割って入ったクラウディスさん。
だけど、まだ剣を交わして間もないはずなのに、彼女も既に身体に切り傷を負っている。
……あの男が手の甲につけているのは鋼の爪。その先は赤く染まっていた。
「やだぁっ! 離してぇっ!」
担がれたままのミネットが、なんとか逃れようとバタバタしながらあいつの背中を叩くけど、男はそれを愉しげな顔で放置してる。
男は二十代くらい。よく見ると、頭にある犬のような耳と、後ろにあるややふさふさした尻尾が見えた。
獣人族。しかも、犬か狼って事か。かなり厄介だな。
「慌てなくていいよ。この後、色々シてあげるから」
彼女の言葉なんて関係なく、嬉々とした顔で舌舐めずりする男の声に、抱えられたミネットさんの顔が青ざめた、その時。
「そこまでだよ!」
中庭に、新たな救世主が姿を現した。




