ピクニック ~その4~
「天気がよくなったのです。セドリック、お前の負けなのです。やはり正義は勝つのです!」
少女は上機嫌にそう叫ぶと、背後を歩くセドリックの方を振り返った。その顔には満面の笑み、ただし底意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「天気が良くなったことが、お嬢様の勝ちになるかどうかはさておき、このくそ暑い中、ガキの散歩に付き合っているのは、間違いなく人生の敗北者ですな」
少女はセドリックの嫌みに対して、フンと鼻を鳴らして見せた。
「負け惜しみなのです」
少女はセドリックが素直に負けを認めない事に、顔をしかめて見せる。だがすぐに何かに気が付いたらしく、麦わら帽子のひさしを指ではじくと、その指をセドリックに向けた。
「それにセドリック、お前は間違っているのです。これは散歩ではなく、ピクニックなのです!」
セドリックは少女の指摘を真っ向無視すると、背後を振り返った。そして手を額に当てて日差しを遮りつつ、道の先をじっと見つめる。
「そんなことよりも、アイネスが追いつけるように少し待ちましょう」
「そう言えばアイネスはどこに行ったのです。アイネスがいないと、お弁当が食べられないのです」
セドリックの言葉に少女が慌てて辺りを見回すと、残暑の日差しが作る陽炎の中、遠くに濃い紺色の侍従服に白いエプロン姿の少女が必死に歩いている姿がある。
「アイネスは何をやっているのです?」
「さあ、お嬢様がお屋敷と同じに過ごせるようにと、やたらとたくさんの荷物を持ってきたみたいですよ」
「ちょっと待つのです。もしかしたら、アイネスはピクニックが何か分かっていないのですか?」
「そんな贅沢なことが出来るのは、お嬢様の様な自堕落な生活をしているほんの一部の者だけですよ。まあ、お嬢様には自堕落な生活以外は無理でしょうから、存在自体が無駄とも言えますけどね」
「何だかよく分からないですが、とっても馬鹿にされた様な気がするのです。それに無駄とは何なのです。く、首――まあいいのです。今は特別に許してやるのです。だからアイネスを助けに行くのです」
セドリックは肩を小さくすくめると、少女と共に丘を登る坂道を、アヒルの様によたよたと歩くアイネスのところへと向かった。
「お、遅れまして、も、申し訳ありません」
二人が近づいてきたのを見て、アイネスは慌てて詫びの言葉を口にした。そしてお辞儀をしようとするが、背中の荷物が重すぎるのか、まるで水のみ人形の様な動きになっている。その姿に少女とセドリックは互いに顔を見合わせた。
「アイネス、その巨大な箱はなんなのですか?」
「あ、あの……」
「このくそガキから何や余計な荷物でも頼まれましたか?」
「い、いえ……」
「セドリック、何を言うのです。お前がアイネスに余計な仕事を頼んだのに決まっているのです」
「私はお嬢様と違って、そのような無用なことなど致しません」
「いえ、こちらは私が必要だと思っていたものを色々と詰めましたら、少しばかり荷物が多くなってしまいました」
そう告げたアイネスが、額に大汗を浮かべながら二人に向かって苦笑いらしきものを浮かべた。当人は一生懸命に唇の端を持ち上げようとしているらしいが、荷物のせいか、どうやっても気合が入った顔にしかなっていない。
「アイネス、ピクニックは自然を楽しむものですよ。屋敷の中にあるものを持ち込む必要はありません」
「は、はい。セドリック様。申し訳ございません」
「もっとも、一番不要なものがついてきていますけどね」
セドリックはアイネスの答えに小さく肩をすくめて見せると、背中から背負子を外してそれを軽々と自分の背中に担いだ。そしてわずかばかりしわになってしまった執事服の裾をピンと伸ばして見せる。
「アイネス、城のなかでこのくそガキの相手をしていると息がつまるでしょう。今日はこのガキの存在は忘れて外の空気を楽しむといい」
「は、はい」
「ちょっと待つのです。どうして息がつまるのです。それよりもその弁当の籠はこっちに渡すのです。セドリックが持つと嫌みがうつってまずくなるのです!」
そう言うと、少女はセドリックがアイネスから受け取ろうとしたマルセルが用意したお弁当の籠を素早く手にする。そしてそれその匂いを嗅いでにたりと笑って見せる。
「ふふふ、これを食べる時が楽しみなのです。それと、ククク……」
「私としてはお嬢様の間抜けがうつって、せっかくマルセル殿が用意してくれた弁当がまずくなりそうですが……まあいいでしょう。たまに少し人の役に立ちなさない」
「それはこっちのセリフなのです」
「あ、あのお嬢様、セドリック様。アイネスは何も持ってはおりませんが?」
「今日はアイネスも一緒にピクニックを楽しむのです!」
「は、はい。お嬢さま!」
「お嬢様、ちょうど日陰ですし、この辺りでもういいのではないのですか?」
アイネスの呼びかけに少女が首を大きく横に振って見せた。
「何を言うのです。ピクニックは水辺でするのでするものなのです」
「誰もそんな事を決めてはいないですよ。くそガキの頭の中だけにある妄想を、さも常識であるかの様に語るのはやめてください」
「おのれセドリック、やはり首――。まあ今日はいいのです。特別に、特別に許してやるのです。ククク……」
少女の口から不気味な含み笑いが漏れる。思わずアイネスは相当に重い荷物を背負っているはずなのに、汗一つ書くことなく黒い執事服を着て歩いているセドリックの方を見上げた。
「やはり、もともといかれていた頭がよりおかしくなっている様ですな」
アイネスの視線に気が付いたのか、セドリックが何が楽しいのか、スキップしながら前を行く、少女に向かって呟いた。だが特に気にすることなく、その後ろを歩いていく。アイネスは二人の後ろを歩きながら辺りを見回した。間違いなく、森はより深く、そして不気味になっていくようにしか見えない。
「あの、お嬢様。本当にこちらでよろしいのでしょうか? どうも少し不気味な感じになってきたような気がするのですが……」
耐え切れなくなったアイネスがそう声を掛けた。
「そんなことはないのです。やっとピクニック向きの場所に近づいてきたのです」
前を行く少女がそう無邪気に答えを返した。
「そうでしょうか?」
アイネスが見る限り辺りは先ほどまでののどかな草原からうっそうとした森へと変わりつつあった。森は深く日差しがさえぎられているせいか相当に薄暗い。その巨人を思わせる巨木の幹には赤い血の色をしたツタが絡んで生き物の血管さながらに見える。
それだけでない。ここに入る前は雲雀の高鳴きが聞こえていたのに、この森の中ではキュエ、キュエとか、ギュア、ギュアといったとても鳥とは思えない鳴き声だけが響いている。
それでも先頭を進む少女は躊躇することなく、手にしたバスケットを前後に大きく揺らしながら前へ前へと進んでいく。
それは散策というよりはどこかにむかって小走りに駆けていると言った方が正しいくらいだ。何も荷物を持っていないにも関わらず、それを追いかけるアイネスの息は今にも上がりそうだった。
やがて真っ黒な茨が三人の行く手を塞ぐ。だが少女はそアーチ状にぽっかりと空いたトンネルを抜けると、さらに奥へと進んでいく。どこか禍々しい感じがする茨のアーチを潜り抜けると、三人の目の前に小さな沼が顔を出した。
だがその沼は美しからほど遠く、水面のあちらこちらからはブクブクと泡が沸き立っており、生臭い様な独特な臭気もしている。
「あれ?」
アイネスはその風景に思わず小首を傾げた。
「アイネス、どうした?」
「いえ、なんでもありません」
アイネスはセドリックの問いかけに首を横にふった。だが小さく小首を傾げて見せる。
「フフフ、やっとついたのです。ここでピクニックをするのです」
少女は傍らの木の根にバスケットを置くと、沼の淵までいって二人に向かって万歳をして見せた。
「なるほど、ここが目的ですか。中身のない頭を使って私達をここまで連れてきたのですな」
「ふふふ、だましてはいないのです。セドリック、主として命令するのです。沼にいる泥ガニを捕獲するのです。泥ガニはとっても、とっても大好物なのです。いっぱい、いっぱい捕まえてやるのです!」
「いやですな」
「ななな、主人に言うことが聞けないのですか!」
「当たり前です。どうしてこんなクソガキのために私が泥の中に入らないといけないのです?」
「おのれ、セドリック。主人の言うことを聞かないとは許せないのです。泥に入って泥ガニを捕まえるのです」
「それが労働というものです。ではこうしましょう。あなたがご自分で泥ガニを捕まえることが出来たら私も参加することにします」
「あ、あのお嬢さま、セドリック様。とりあえずお弁当を食べられてからにしてはいかがでしょうか? それにお召し物が汚れてしまいます。アイネスでよければ、お手伝いさせていただきます」
「セドリック、よく耳をかっぽじって聞くのです。これこそが正しい姿なのです。でも先ずはお昼にするのです。そしたら――」
そう言って背後を振り返った少女の体が固まる。
「な、ないのです。バスケットがないのです。セドリック、お前はいつの間にバスケットごとお弁当を食べる様になったのです!」
「私をなんだと思っているんです? その失礼な口をこのアイロンで縫い付けてあげましょうか?」
「アイロンがすべらなくなるのでやめてください!」
そう叫ぶと、アイネスはセドリックの手からアイロンを奪い取った。その姿を少女があっけにとられてみている。
「ア、アイネス、そういう問題ではないのです!」
バチャン!
その時だった。何かが葦の影で大きな水音を立てるのが聞こえた。
「きっと、弁当泥棒なのです!」
そう叫ぶと、少女は音がした葦の茂みへと走り出す。
「お嬢様、お待ちください。お召し物が、お召し物が汚れてしまいます」
アイネスはその手を引っ張ろうとしたが、それよりも早く少女が葦の茂みへと入り込んだ。アイネスも慌ててその後を追って茂みの向こう側へと抜ける。
「な、なんなのです!」「キャーーー!」
次の瞬間、少女の口から驚きの声が、アイネスの口からは悲鳴の声が上がった。
「ど、泥団子なのです!」
明らかにそれは異常な光景だった。二人の目の前には茶色い泥にまみれたまさに泥団子のようなものが沼の中から頭を出している。そしてそれはゆっくりと二人の方へと近づいていた。
「お、お化け~~~!」
アイネスはそう恐怖に言葉を漏らしたが、それでも少女を救おうとその小さな体を腕に抱く。
「あ、アイネス……アイロンが、アイロンが顔にあたっているのです。それよりも犯人は間違いなくこいつなのです!」
少女はそう叫ぶと泥の塊を指さした。そこにはマルセルが作ってくれたお弁当のサンドイッチを入れていたはずのバスケットが泥の中から顔を出している。だがそれは泥の中にぽっかりと空いた黒い穴の中にそのまま消えてしまった。
「お、おのれ泥団子。マルセルが作ったお弁当を盗み食いするとは許せないのです!」
「にゃ~~」
その黒い穴から猫のような鳴き声が、そして長く細い血の色をした舌がちろちろと這い出して来た。さらに泥の奥から不気味に黄色く光る眼が、黒い穴の奥にはのこぎりの様な数多の鋭い歯が顔を出す。最後に大きく体を振った。
「ギャーーー!」「キャーーー!」
沼地に少女とアイネスの悲鳴が木霊する。二人の姿は飛び散った泥に、溶かしたチョコレートに入れたマシュマロの様な姿に代わっている。
「このぐらいよけなさい」
その言葉に少女が背後を振り返ると、執事服の裾を軽く引いて服の皴を伸ばしたセドリックが涼しい顔をして立っている。
「どうしてお前は、泥だらけでないのです! それにその傘はどこから出してきたのです!」
「これですか? 執事たるもの傘の準備ぐらいはいつでもしていますよ」
「ちょっと待つのです。それを使うべき相手はこちらではないのですか?」
「お、お召し物が泥に……」
不平の声を上げた少女の横から低くそして何かに震えるつぶやきが聞こえてくる。
「せ、セドリック。ま、まずいのです。アイネスが、アイネスが切れたのです!」
「モフモフ!」
アイネスはそう叫ぶと茶色く泥に染まった毛だまへと突進する。そこから伸びた赤い舌がアイネスの顔をぺろりと舐めるが、アイネスはそれを払いのけると、それをむんずと掴んで引っ張った。
「お嬢様のお召し物になにしてくれているんです! 今夜の夕飯は抜きですよ!」
「ギュア?」
モフモフはまるで猫と犬が混じった鳴き声を上げて、しょんぼりと舌を垂らす。
「そんな顔をしてもだめです!」
「ギャーー!」
「そんな悲鳴を上げてもだめです!」
「ま、待つのです、アイネス。モフモフは『ギャーー』とか言う悲鳴を上げたりはしないのです」
「だ、誰でしょうか?」
「お嬢様!」
アイネスが言葉をかけるよりも早く少女は葦の茂みを超えて、その声のした方へと駆けていく。アイネスも必死にそのあとを追った。侍女の名誉にかけてあんな泥だれけの服でその辺を歩かせるわけにはいかない。
ブクブクブク――
だが少女が駆け去った行く手からお湯が沸騰した様な音が聞こえ、辺りに漂っていた生臭い臭気がより濃厚に漂ってくる。
「お、お嬢様!」
アイネスは葦に全身茶色に染まった少女を見つけると声をかけた。
「蟹なのです」
「えっ!」
「とても喰いでがありそうな蟹なのです。前に逃してしまったやつなのです。今度こそ捕まえてカニ鍋にしてやるのです!」
そう告げると、少女が沼を指さした。そこでは泥の表面に何やら大きな泡が沸き立っており、そこから何かが浮かび上がろうとしている。
「モフモフ!」
アイネスはそこまで口にしてから、モフモフはまだ背後にいることに気が付いた。それにお嬢様はさっきなんと言ったのだろう。確か、「蟹」と言った――。
ザバァーーーン!
次の瞬間だった。泥の中から巨大なハサミとそれに続いて大きさが間違っているとしか思えないほどの蟹が姿を現す。そのハサミの大きさはアイネスの全身よりも大きなぐらいだ。ハサミがゆっくりと広がるとそれは前に立つ少女の方へと近づいていく。
そのハサミの内側には小刀みたいにするどいギザギザがついている。あれに挟まれたら真っ二つにされること間違いない。それにこれは、これはあの時に会った沼の主だ!
「あぶない!」
アイネスはそう叫ぶと、手にしていたアイロンをその蟹の頭の先へ向かって投げつけた。
ゴーーーン!
アイロンは見事に蟹の頭に命中し、尖塔にある鐘の音の様が辺りに響き渡った。アイネスはその結果を見る前に、岸辺にいる少女を腕に抱くとその体を岸から遠くへと引きずり上げた。だがバランスを崩して自分が沼の方へ倒れそうになる。
「よくやった、アイネス」
そしてアイネスの手首を捕まえると、それを岸へと引き上げた。そこにはアイネスが心から敬愛するセドリックが、優雅な仕草で汚れた手を胸ポケットからだしたハンカチで拭いている。
背後を振り返ると、巨大な蟹はその口から細かい泡を出しながらゆっくりと後ろ向きに倒れようとしていた。
「見事に急所にアイロンを当てたな。モフモフ」
セドリックが汚れたハンカチを小さく振る。
「ギュア!」
その動きに反応した茶色い毛玉が巨大な蟹へと突進した。辺りに再び泥の雨が降る。アイネスはそれを頭から浴びながらもあっけにとられて立っている少女を必死に抱きかかえた。泥の雨が収まり何とか目を開けると、黒い点の様なものが遠くへと飛んでいくのが見える。
いや点ではない。その三角の体には何本かの足が、そしてその巨大なハサミが見える。それはあっという間に米粒みたいな大きさになると、森の向こうへと消えていった。
「ななな、せっかくの蟹が飛んで行ってしまったのです」
アイネスの耳元で少女が残念そうにつぶやくの聞こえた。
「まあいいのです。蟹はいつでもまた取りにこれるのです。それよりも、アイネスは泥だらけなのです」
「はい、お嬢さま。でもお嬢様も泥だらです」
二人はお互いの顔をまじまじと見る。
「そういえば、初めて会った時もアイネスは泥だらけだったのです」
「は、はい。お、お嬢様!」
「アイネスが、アイネスに見える様に顔を拭くのです」
少女はそう言うと、ポケットからまだ白く見えるハンカチを出すと、不器用にアイネスの顔を拭いた。そして泥だらけの顔のままにやりと笑って見せる。
「ふふふ、今度こそセドリックも泥だけのはず……、な、なんなのです。どうしてセドリックは泥を被っていないのです!」
「執事たるもの、その辺のガキ同様に泥などかぶったりしません。この程度で泥を被るとはアイネスもまだ修行が足りないな。だがアイロンを有効に使えた点についていえば、侍女として少しは成長したといえるでしょうな」
「アイロンは投げるものなのですか?」
「もちろん違います!」
少女の言葉にアイネスの口から思わず含み笑いが漏れる。
「そう言えばさっきの悲鳴は誰の悲鳴だったのでしょうか?」
「パイ!」
そうセドリックに問いかけたアイネスの背後にある茂みから声が上がった。それはアイネスにとって、とても聞きなれた声でもあった。
「兄さん?」
「生きて、生きていたのか?」
茂みから出てきた青年はよろよろとアイネスの前へと進み出るとその泥だらけの手を握りしめた。
「よ、よかった。お、俺はもう死んだと思って……、俺はお前を、お前を置いて逃げて……」
アイネスはそう呼びかけた青年に向かって首を横に振って見せた。
「兄さん。兄さんは何も悪くない。私が勝手に兄さんの後をついていっただけよ」
その言葉に青年が涙を腕で目から落ちる涙をぬぐう。
「アイネスのお兄さんなのですか? それはとっても、とっても良かったのです。これでまた一緒に暮らせるのです」
「お嬢様。お言葉はありがたいですが、アイネスはお嬢様の侍女です。こんな泥だらけのお嬢様をそのままにしてどこかにいくなんてことはあり得ません」
「アイネス?」
兄の問いかけにアイネスはゆっくりと首を横に振って見せた。
「兄さん、母さんに伝えて。パイは元気にお屋敷で働いていますって」
「お、お屋敷って、お前は禁忌の森の――」
「兄さん、今度は私が言う番よ。何も心配しないで。私は大丈夫よ」
「待て、パイ!」
「今日は兄さんに会えて、とっても良かったわ」
アイネスはそう告げると、少女の方へ向き直った。
「私の事より、まずはお嬢様にお着替えをして頂かないといけません!」
「本当にいいのですか?」
「はい、セドリック様。アイネスはお嬢様の専属侍女です。そしてこれからもずっとそうです」
そう言うと、アイネスは水色の目でこちらをじっと見る少女を抱きしめると、その頬に自分のそばかすの目立つ頬をよせた。
ワシャワシャワシャ
だが何かがうごめく音に二人はお互いの顔を話すと背後の沼を振りかえった。そこにはどこから現れたのか、大量の泥ガニが所せましと沼の泥の上を横歩きしている。
「せ、セドリック様!?」
「どうやら主がいなくなったせいで泥ガニが一斉に穴から出て来たみたいですな。この辺りの瘴気もすぐに晴れるでしょう。お嬢様、ご自分の手で食べ物を得るという良き経験ができますよ」
「ま、待つのです、セドリック。お前は何を言っているのです。誰も自分で捕まえるとはいっていないのです」
「何を言っているのです、お嬢様。せっかくの機会です。存分に蟹狩りをお楽しみください。アイネス、私は頭の方を持つから、君は足の方を持ち給え」
「はい。セドリック様」
「アイネス、待つのです。主人は、主人はセドリックではないのです。なにを人の体をふっているのです!」
「いきますよ」
「セ、セドリック、覚えているのです」
「1、2の3!」
少女の体が見事な放物線を描いて泥の上へ落下するとバシャンという盛大な音を立てる。
「ちょ、ちょっと待つのです。数が多すぎるのです。髪をははさまないのです。そ、それにく、くすぐったいのです」
アイネスは驚いた顔をしてこちらを見ている兄に向かって小さく手を振った。そこにいるのは自分の家族かもしれないが、自分の居場所ではない。泥の中で蟹と戯れる少女を見ながら、アイネスは自分がこの二人に出会った日の事を思い出していた。
兄はこの泥ガニを狙って禁忌の森を超えて公爵家のご領地に入り込んだ。父親同様に兄までもがいなくなるのではないかという恐怖に、兄の後を必死に追った。兄も必死だったのだろう。後ろからついてくる自分に全く気が付いていないかった。
そしてこの沼にたどり着いて兄が罠をしかけ始めた時に主が現れた。その時は恐怖で巨大なハサミが見えたのしか覚えていない。泥の中でもがいてより深みにはまっていく兄のところに駆け寄ってその手を引っ張った。
だが兄の足は深みを抜けたが代わりに自分が深みへと倒れこんでしまった。自分の頭に大きなハサミの影がかかったのを思い出す。そして私に手を伸ばしかけた兄がそのまま森の向こうに駆けていった姿も。でもそれでいいと思った。自分がいても兄の重荷になるだけだ。
そのあとはよく覚えていない。気が付くと目の前に小さな泥ガニを持つ少女と、それを忌々し気に見ているまるで絵物語から抜けだたのではないかという秀麗な男性が自分を見ていた。
「お前も泥ガニが好物なのですか?」
少女が自分に問いかけた言葉と、手にした蟹を投げ出して自分の顔を拭くためにだしてくれたハンカチの白さは今で決して忘れない。そして帰る当てがない自分に働く場所、いや生きる意味を与えてくれた人。
「お嬢様、どうしました? いくらでも取れますよ?」
セドリックの言葉にアイネスは我に返った。そして蟹と戯れる少女とその横にいる茶色の毛玉を見つめた。すべては過ぎ去りし過去の話だ。今日はまだ終わってはいないし、自分にはまだま打やるべき仕事が一杯残っている。何より泥だらけになった服を着替えて頂かないといけない。
「もう、絶対にピクニックには、ピクニックには行かないのです~~~~~!」
「お嬢様、またいつかアイネスをピクニックに連れて行ってください」
アイネスの口から洩れた言葉は少女の上げる情けない叫び声によって、誰の耳に届くことなくかき消された。