ピクニック 〜その2〜
「はあ、はあ」
少女は肩で息をつくと、木の幹の背後から木立の間を進む兄の背中を見つめた。兄はずっと考え事でもしているらしく、後をつける少女には全く気が付いている様子はない。
朝方に降った通り雨と深いもやに、兄の背中を追うのは大変だったが、濡れた地面が兄の足跡をはっきりと残してくれたおかげで、少女の足でもなんとか兄の後をつけることが出来ていた。
だが少女は既に自分がどこに居るのか、どちらに進んでいるのかも分からなくなっている。禁忌の森に入って以来、周りは少女の知っている森とは全く違う森だった。
空は数人がかりの大人でないと囲めないような太い幹を持つ巨木と、暗い色をしたツタで覆われ、日の光をほとんど遮っている。
だけど兄は森が深く、不気味な事については何も気にしている様子はない。蔦をよけながら、木の幹の一本一本を丁寧に調べている。やがて何かを見つけたらしく、今まで進んでいた比較的歩きやすかった小道を外れると、森の奥へと足を踏み出した。
少女も慌てて兄のあと追いかけるが、うっそうと生い茂る藪の先に兄の姿は見当たらない。叫びたくなるのを必死にこらえて前へと進んだが、森はさらに暗さをましていくだけだ。
もう兄の助けを呼ぶしかないと思った時だった。急に視界が開け、少女の視線の先に茶色い泥で覆われた沼が顔を出す。その岸では兄が背負子を下ろして、何かの道具を取り出している姿があった。
「網?」
少女の口から疑問の声が上がる。兄が手にしたのは川魚を取る時に使う網と縄だ。そして靴を脱ぐと、泥の中へと慎重に入っていく。
少女は兄の行動に首をひねった。こんな泥の中で一体何をするのだろう。それにただの沼とはとても思えない。あちらこちらからあぶくの様なものが沸き立っている上に、何かが腐った様な生臭い匂いもする。
少女が当惑している間にも、兄は何かの手ごたえを得たらしく、手にした縄を引っ張り始めた。だが網は泥にとられて簡単に戻って来ようとはしない。兄は膝上まで泥につかると、最後は縄を肩で担ぐようにして網を引き揚げた。
岸に近づいた網の中に何か動くものが見える。魚ではない。たくさんの足がついていて、それがひっきりなしに動いている。
『泥ガニだ!』
少女は心の中で叫んだ。泥の中に住み、一年のある時だけ産卵のために岸の近くによってくる。それはとてもおいしいらしく、貴族相手に高い金で売れるらしいが、めったに取れないものだ。
「やった!」
網の中を確認した兄の口から喜びの声があがった。全身を泥だらけにしつつ、赤子がはいはいする様に岸に戻ってくる。どうやら網の中には数匹の泥ガニが入ったらしい。
『もう十分ではないだろうか?』
少女の頭をそんな思いがよぎるが、幸先がいいことに気をよくしたのか、兄は再び泥の中へ、今度は大胆にも腰の辺りまで浸かりながら進んでいく。もう止めて、そう思った少女の耳に兄の独り言が聞こえた。
「これで革屋の娘に何か買ってやれる……」
『革屋の娘?』
一体どういう事だろう。当惑する少女の耳に兄の独り言が再び聞こえてきた。
「妹を女郎屋に売った金で、あの娘の支度金を作るわけにはいかないからな……」
その台詞に、少女は何が兄を危険へと駆り立てていたのかを理解した。そして自分の村での生活も間もなく終わりを告げようとしていることも。
兄は少女がそんな思いを抱きながら背中を見つめていることなど知りもしない。網から蟹を外して麻袋へと詰め込むと、小さく鼻歌を歌いながら再び泥の中へ入って行こうとする。
少女はすぐにこの場を立ち去りたいと願ったが、兄の帰路について行かないと、村に戻ることは出来ない。少女は呆然としながら、兄が沼の中へ、今度は腰をこえて泥に浸かりながら進んでいくのを眺めた。だがすぐに何かがおかしいことに気がつく。
沼の中央の辺りで何やら波の様なものが立っている。この深い泥だ。ちょっとやそっとの風ぐらいでは波が立つとは思えない。
それだけではなかった。あちらこちらから上がっている小さな泡とは明らかに違う、大きな泡がそこからぶくぶくと湧いているのも見える。間違いない。何かが沼の真ん中から岸の方へ向かってきている。
少女は兄の方を見た。だが兄は網に再び手応えを感じているらしく、それを引っ張り上げるのに夢中で、沼の異変には全く気がついていない。少女は兄に声を掛けようとしたが、沼の中央に見えた光景にそのまま凍りついてしまった。
バシャン!
沼の中央で何かが泥を大きく跳ね上げた。
バシャ、バシャ、バシャ
跳ね上がった泥が岸の方へ驟雨のように降り注ぐ。その音に兄は初めて何かが自分の方へ向かっていることに気がついた。両腕で泥を掻きながら、岸に向かって必死に戻ろうとする。
だが胸の近くまで泥に埋まっていた体は、方向を変えるだけでも簡単に動こうとはしない。少女の目は兄の背後からこちらに迫ってくるものの正体を捉えていた。
沼の中から突き出された大きな鋏。それは錆びた巨大な鋼鉄の鎌を組み合わせた姿をしている。続いて小さな黒い目と、細かい節足がついた口が泥の中から現れた。その黒い目の中で、黄色い光を宿した瞳らしき物が蠢いている。
「お兄ちゃん!」
少女の口から悲鳴が漏れた。その声に必死に腕を動かしていた兄が、岸の先の藪を見て驚いた顔をする。少女は岸まで走ると、そこに置かれた背負子の中から罠に使う荒縄を持ち上げた。
その先に金属でできた棒を結びつけ、それを頭上で振り回す。そして渾身の力で兄の方へ向かって投げた。だが離すタイミングを間違えたのか、それは兄のいる方とは全く別の方角へと飛んで行く。
「泥に沈む前に引くんだ。そしてもう一度投げろ!」
兄の口から怒声が響く。少女はそれに頷くと必死に縄を引いた。だが錘が泥に沈んで行こうとするため、なかなか手元には戻ってこない。それでも少女は泥で滑る荒縄を必死に引いた。
「早くしろ!」
兄の言葉に顔を上げると、巨大な鋏がさらに巨大に見え、それが兄の背中へと迫っている。慌てて再び頭の上で錘を回す。縄についた泥が雨のように自分の体に振ってきて、目を開けるのさえ難かしい。だがもたもたしている時間はない。
少女は慎重に錘を回しながら、それが体の横にきた瞬間を見計らって、縄を持つ手を緩めた。錘が弧を描きながら兄の方へと向かっていく。
「どこかに固定……」
泥の中に沈む前になんとか縄を掴んだ兄が妹に叫んだ。しかし背後を肩越しにちらりと振り返ると、慌てて縄を引っ張り始めた。その力に少女の小さな体が前のめりになる。
「引け! 思いっきり引くんだ!」
兄の叫びに、少女は縄を両手に巻くと、それを一生懸命に引っ張った。いや、引っ張るというより、兄の力に負けないように、なんとか足を地面につけているという方が正しい。
巻いた荒縄が両手に食い込む。だが少女は両手に走る痛みに歯を食いしばって耐えた。縄で体が安定したせいか、兄の体は少しずつ岸に向かって近づいている。
しかしその後ろから迫ってくる鋏の方が遥かに早い。その反対側には巨大ではあるが、左側よりも小ぶりな鋏も泥の上に見え始めていた。
「お兄ちゃん!」
少女は必死に縄を手繰り寄せる兄に声をかけた。見ると兄はまだ肩に網を担いだままだ。
「網から手を離して!」
「だめだ。これを離したら意味がない!」
少女は兄の言葉に驚いた。命がかかっているというのに目先の獲物を……違う。きっと皮屋の娘とのことを考えているのだ。
そのせいだろうか、やっと腰から下まで泥の中から這い上がってきた兄の体が、前のめりに泥の中へ倒れそうになった。そしてその拍子に縄からも手を離してしまう。少女は慌てて泥の中へと進むと、兄に向かって手を差し出した。
視線の先にはこちらに向かってくる巨大な泥カニの姿がはっきりと見える。鋏だけではない。泥の中から顔を出した、黄色い光を湛えた目がこちらをじっと見つめている。兄は必死に手を伸ばすと妹の手を掴んだ。
「ウォーーー!」
兄の口から獣のような声が上がり、妹の手を引っ張り岸に体を持ち上げる。その数歩が兄の体を泥から膝下まで持ち上げた。しかしその力に少女の小さな体が耐えられるわけはない。
少女の体はバランスを崩すと、兄と入れ替わるように泥の中へと倒れ込んだ。慌てて体を起こそうとするが、まとわりつく泥に息すらままならない。
「手を出せ!」
兄の言葉に少女は顔の泥を拭うと手を差し出した。だが兄の手までは僅かに届かない。
次の瞬間だった。自分の腕が何かの力で兄と反対側へと引っ張られる。慌てて振り返ると、巨大な泥カニの鋏に何かがまとわりついているのが見えた。荒縄だ。それは自分の手へと繋がっている。
少女は慌てて手から荒縄を解こうとしたが、ガッチリと食い込んでいるそれはすぐに解けそうにない。
「兄ちゃん――」
少女の言葉はそこで途切れた。少女の目には兄が網と麻袋を手に、茂みの奥へと走っていく姿が見えた。そして沼の奥へと体を引きずられながら、風に僅かに揺れる茂みを見つめていた。