第9話
突然現れた人物にまき子は固まった。まき子と同じように、斗真も扉のところでガッチリと固まってしまっている。
時が止まったかのような静寂の中で、一番最初に動き始めたのは秋園だった。
「まき子、ちょっと背中向けて黙っててくれないか」
秋園の、静かだが有無を言わせない声色にまき子は反射的に従った。斗真に背中を向け、口を塞ぐ。
「お、叔父さ……なんでここに女子が」
「はいはい、お前も黙れ。おら、準備室空いてるからそっち行け」
扉が開く音がして、話し声が聞こえたあとまた扉が閉まった。それと同時にガラガラと美術室の引戸が開く。
気になったものの、秋園に言われた手前後ろを向けない。気を張っても仕方がないか、とまき子は筆を手にとって絵を描くことを再開した。
「ここは美術部員以外立入禁止だぞー」
秋園は美術室に入ってきた女子三人を見て、いつも通りそう言った。彼女たちの手には携帯が握られており、何かを探すようにキョロキョロと視線を動かす。
「あの、ここに斗真様はいらっしゃいませんか?」
「は? 生徒会長がこんなとこ来ねぇよ」
荒々しい秋園の声に、まき子は若干吃驚した。そんなに厳しく言わなくてもいいのに。
「いえ、でもここに入るのが見えたのです。探してもよろしいですか?」
「いや、美術室のもの触られるのは困るから帰ってくれないか。さっきも言ったが部外者立入禁止だからな」
「ならば彼女は良いのですか?」
「美術部員は部外者じゃない。ほら、絵を描いてるだろ」
突然自分が話の話題にされ、ヒヤリと背筋が凍った。
「いいえ、ですが、斗真様はここに入られたのです」
「うるせぇな。だから駄目だっつてんだろ。そもそも生徒会長見つけて何するんだよ」
「写真を撮らせていただきます」
「それ、生徒会長の許可取ってんの?」
「いいえ。どうして許可を取る必要があるのでしょう。斗真様の美しさは全人類が知るべきもの。僭越ながら私たちがその手引きをして差し上げるだけです」
「それ、つまり写真撮ってバラ撒くってことだろうが……」
「そんな下品なことは致しません。ただその美しさを分け与えるだけの話」
(こっっっわ! 怖すぎでしょ。ストーカーかつ盗撮って犯罪者だよ)
まき子は鳥肌の立った腕を擦る。自然と後ろを振り向く気概はどこかへ消えてしまった。まさに過激派である。こんなのに好かれるなど、イケメンは大変だな、と他人事のように思った。顔が良いのも考えものだ。
「あのな、お前ら本当にやり過ぎだぞ。中等部の事件忘れたのかよ」
「あぁ……強姦未遂の。あれは斗真様の美しさ故の卑しい事件です。それを守るために我々がいます。室内を点検しますがよろしいですね?」
「マジ怖ぇ……」
秋園の心底引いた声にまき子は内心同意した。もはや気持ちが悪い。
「いや、教員の許可なく教室探るのはマジ止めてくれ。………いや、待てよ。お前ら斗真の何の写真撮るつもりなんだ……?」
「何って、裸体です」
「アウトォ!!!」
まき子は思わず叫んで立ち上がっていた。カッと頭に血が上ったのである。
後ろを振り返れば、秋園も可愛らしい女子三人もポカンと驚いていた。さっきまで石のように動かなかったまき子が叫んだことに思考が停止してしまったようである。
(ムカツクな。これはちょっと許せない)
まき子は察しがいい方である。人の機敏を慎重に窺ってしまう性分のため、状況把握や空気を読むことには慣れている。
先程、秋園の言った"中等部での強姦未遂"、女子生徒の言った"美しさの布教"、"裸体撮影発言"。もうこれだけで斗真の苦労が偲ばれる。
イケメンも大変だ、と同情すると同時に沸々と怒りが沸き上がった。
嫌がる人間の裸体を撮るなど正気ではない。自分がぜんっぜん好きでもない人間にそんなことをされたらどう感じるのか、分からないほど馬鹿ではないはず。人の嫌がることは、他人にしてはいけません、なんて小学校で習うことだろう。
人の尊厳を踏みにじるようなことを、まるで美学のように嘯くコイツらに、まき子は腹の底から嫌悪感を感じた。
「貴女たちは生徒会長が好きなのに、好きな人が嫌がることをするんですか? 自分が裸の写真撮られたら絶対嫌でしょ? なのに他の人にはするの?」
──とまぁ言いたいところではある。めっちゃ言いたい。だって正論じゃん。間違ってない。
だけど……こういうブッ飛んだ人間というのは、本気で常識が理解できないのである。どうして? 自分が悪いの? と平気で言ってしまうのだ。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け。今は怒るな。この人たちには何を言っても通じない。だって、秋園先生の言葉も全然響いてなかった。最悪揚げ足を取られるか、逆ギレされる)
「……わ、ワタシは、ココデ、絵を、描いておりました……」
ぎこちなく言葉を続ける。脈絡のない私の言葉にその場全員が脳内にはてなマークを浮かべた。
「その、おっしゃる通り、生徒会長はココにいらっしゃいました」
「やはり!」
「でも! そこのドアから出ていきましたよ!」
まき子はビシッと彼女たちがいる場所とは反対に位置する扉を指す。女子生徒たちはハッとしたような顔で、神妙に頷いた。
その可能性は考えてなかった。情報提供感謝する、と言わんばかりの表情である。
(良かった。美術室の出入り口が二つあって助かった)
彼女たちは礼を言うと、美術室の反対の扉の方へ去っていった。緊張が解けて椅子に座り込む。どうしてこんなことに体力を使わなければならないのか、まき子は本気で思った。
「いやぁ、助かった! ありがとうな!」
秋園は少年のような明るい笑顔を浮かべて、まき子に感謝を述べた。
「さっきので良かったのか不安ですけど……」
「お前が怒りを抑えたの、立派だったよ。こう言ったら嫌味っぽく聞こえるかもしれないけど、ややこしくならずに済んだ」
「……」
やはりあそこで感情のまま言わなくて正解だったのだ。まき子は大きくため息を吐いて、もう二度と関わりたくないと思った。
変な真実を知ったせいで斗真のことをまともに見られなくなりそうだ。
「おーい、斗真。もう大丈夫だ。……おい」
秋園が準備室にいる斗真に声を掛ける。最初は扉の方から声を掛けていたが、斗真の異変に気付いたのか、声が険しくなり秋園も準備室に消えた。くぐもった話し声の末、秋園が準備室から出てくる。
「まき子、悪いが今日は帰ってもらえないか」
心底申し訳なさそうに言う秋園に、まき子は素直に頷いた。あの嫌な気持ちを絵を描くことで発散させたかったが仕方がない。
「もう来ない方がいいですか?」
「あー、うーん。後日連絡する。ごめんな」
まき子は小さく頷いて、その場を後にする。なんとなく、気付いてしまった。斗真は、トラウマのせいで女性が苦手なのではないか、と。これはまき子の予測でしかないが、恐らく合っている。
まき子は固く目を瞑る。先程感じた怒りにも斗真のトラウマにも気付かないように蓋をした。
□■□
あれから秋園から連絡はない。絵を描けなくなって一週間。そろそろ絵を描きたい。完成させたい。
遠目から時々斗真を見ることがあったが、彼は至って普通だった。時々春陽と腕を組んでいるだとか、二人は付き合っているだとか噂を聞いたがそれくらいだ。まき子には関係ない。
「え? 生徒会長の強姦未遂?」
まき子はやはりどうしても気になって、美千代に聞いてみた。美千代は眉を潜めて首を傾げる。珍しく煮え切らない様子だ。
「あー、まぁ小耳に挟んだことはあるけど、本当か嘘か分かんないんだよね。当時高等部だった女の先輩に襲われかけたって。まぁ皆真実は知らないけど、生徒会長くらいイケメンだったらあるかもな、ってくらいの認識かな。それがどうかした?」
「……いや、なんかこの前美術室に生徒会長ファンが来てさ……過激派だったんだよね。気持ちが悪くて」
「過激派はどのファンにもいるからさ。ほら、距離近いとガチ恋多いし」
「……あれは恋じゃない」
あんなおぞましいものが恋などと、まき子は思いたくなかった。恋とは愛とは、美しく尊いものだ。己の欲望を押し付けるような傲慢なものじゃない。
「バスケ部には生徒会長来るの?」
「生徒会の仕事が無かったら来るよ! 三年生だし引退試合あるからねぇ」
まき子は美千代の話を聞きながらそっと目を伏せた。斗真が普通に生活していることに、どこかホッとした。
どうしても絵を描きたくなったため、まき子は家で描くことにした。そのために持って帰る絵を昼食後に取りに行く。放課後は美術室によらない方がいいだろうというまき子の気配りだった。
しかしその配慮もすぐに意味を成さなくなる。
最小限の音しかでないほど立て付けのいい扉を引いて、中にいた人物に驚く。タイミングが悪かったと言わざる終えない。どれだけ滑らかな扉といえども開けたのは気配で分かるだろうし、静かだったらそれなりに音も聞こえる。
まき子の描いた油絵の前で佇んでいた斗真がまき子の方を振り返り、息を飲んだ。
それが緊張故だということに、まき子は気付く。無表情にも見える強張った顔に、また明日来ればいい、と判断した。
数秒間見つめ合った後、まき子は素早く視線を反らして美術室から逃げるように退散した。これ以上、まき子が斗真にストレスを与える必要はない。まき子が気を付ければいいだけだ。
(明日の早朝に取りに行こうかな。……どうして私の絵を見ていたんだろう……)
朝が苦手なまき子はちょっと憂鬱になったが、一日くらい頑張ろうと思い直した。