第8話
ぼぅっと空を見つめるまき子を秋園は気持ちが悪そうに一瞥する。最近はずっと上の空で絵を描こうともしないまき子に、秋園は少々呆れを感じていた。
「お前どうしたんだよ。絵は描かないのか?」
今日まで何も触れなかったが、この状態でもう三日である。そろそろ正気に戻ってもらいたいところだ。
まき子は夢見がちな表情のまま、秋園を見た。まき子のその顔にゾワッと鳥肌が立つ。
「な、なんだよ、その恍惚とした気持ち悪い笑みは……」
「え、気持ち悪いって酷くないですか」
ガーンッとショックを受けたようにまき子は目を見開いた。そして力なく机に伏す。いよいよ様子の可笑しいまき子に秋園は日誌を書くのを止め、真剣にまき子の相談に乗ることにした。
秋園の妻、撫子も、まき子のとはまた違った方面で人に自分の感情を打ち明ける人物ではなかった。撫子はどちらかというといつも無口で、表情で喋るような変わった人だった。
ただ、絵を描くときだけはその感情が言語化されたかのように理解できる。撫子は元々、多く語ることを好まない性格であったが、まき子は少し違う。
彼女はどちらかと言えば、自分を語らない、ではなく語れない性格だ。
(お節介、お人好しってよく言われるから、俺も他人との距離感おかしいのかもしれないけど……。こればっかりは45年生きて治んねぇから仕方ないよなぁ)
秋園はポリポリと頭を掻いてため息を吐いた。
「描きたい、と思ったんです」
突然そう言ったまき子に秋園は内心、こいつも随分変わってるよなぁ、とひっそり思った。世界に"個性的でない人"などいないのだろうが。
「何を?」
秋園はゆっくりと聞いた。
「友人が……恋してる、様子を」
「それは、どういうことだ……?」
恋している様子というのがピンと来ず、素で聞き返した。
「この前友人が、好きな相手に深い愛情を抱いていることに気付いたんです。その表情を見て、即座に描きたいと思ったんですけど……でも写真撮るなんて失礼だし描かせてくれないだろうなって……。いやでも! 私としてはあの一瞬の表情が大事だったから、今その子を描いてもちょっと違うなぁ……」
ブツブツと呟きながら自分の世界に入り込んだまき子を秋園はそっとしておいた。なんだかこだわりがあるようなので、これ以上の詮索は止める。
「先生、先生と奥様の写真とか、ありますか?」
「はぁ?」
唐突すぎる申し出に、秋園はすっとんきょうな声を上げた。
「あ、いえ……描きたいものがどうしても見つからないので、愛し合っていたお二人の様子を見させて頂ければ……と思ったんですけど不謹慎ですかね。先生が不快に思われるなら」
「いや、ぜんっぜんいいけど。なんでそんな卑屈になんの」
「とてもデリケートな問題だと思ったので」
「むしろデリケートに扱われる方がなんかヤだわ」
秋園がそう言えば、まき子は「あ、そうですか……」と少し安堵したように笑った。随分と人に気を遣う性分らしい。それとも秋園が無神経すぎるのか。
「つっても、急には用意できねぇけどな」
「いつでもいいです。その友人の恋心とかインスピレーションを受けたままスケッチブックに描き出したりしたんですけどどうしてもしっくり来なくて」
「あー、いいよいいよ。お前らみたいな芸術肌の奴らって満足いくまで描き続けるんだろ」
分かってる分かってる、と秋園は資料を整理しながら手を振った。まき子はそれにキョトンとしてから、ニヤリと笑う。
「いいですね」
「は? 何が?」
「先生は、奥様のことよく理解していらっしゃるんだなって」
まき子はまた思い付いたようにスケッチブックに下絵を描き始めた。秋園はまき子の意図が掴めず首を傾げ、再び日誌に視線を落とした。
まき子が描きたいものは案外早く見つかった。それは、秋園と撫子が楽しそうに海でBBQをしている様子を他の誰かが撮った写真だった。
「え、これ?」
「これです」
「趣もなんもなくね? 海だけならまだしも、肉めっちゃ焼いてるけど」
「いいじゃないですか。お肉」
「え、えぇ……。わかんねぇわぁ……」
それならまだ二人の後ろ姿とか、撫子が真剣に絵を描く様子とかを描いて欲しかった、と秋園は思った。
「これ、付き合う前とかですか?」
「そうそう。大学のサークルでな、BBQしたんだよ。その時」
「先生、奥様のこと大好きなんですね」
「あ? そりゃあまぁ猛烈アタックしてた時だしな。マジで手強かったんだぜ?」
焼けた肉を振る舞う秋園と、それを笑って受けとる撫子。その様子はお世辞にも格好いいものとは言えない。というか秋園からすれば必死すぎる自分がダサいとまで思っていた。
「やっぱり、これにします」
まき子からすれば、これはただのBBQの写真じゃない。この時点で撫子も、きっと秋園のことが好きだったとまき子は思う。
秋園には分からないかもしれないが、まき子にはそう見えた。二人の気持ちが、互いに向いている瞬間だ。
なんの変哲もない日常の切り抜きほど、尊いものはない。しかもその中に小さく恋が散りばめられていたらどうだろう。まき子の求める"美"はそういうものだった。
頭の中に一瞬で絵の構造が思い浮かんだ。その衝動のまま、近くにあったスケッチブックに候補となる下絵を描き出していく。細かい調整は、全体を見てから決めよう。油絵の良いところは色が混ざることなく重ね塗りができるところだ。乾燥するのに時間はかかってしまうけど、それもまた油絵の魅力である。時間をかけて作り上げた作品には妙な愛着が湧くもので、まき子はそれが好きだった。
真剣に下絵を描いては修正していくまき子を興味深そうに秋園は眺め、完成を待ち遠しく思った。
□□□
好きなことをする、というのは至福の時間である。
まき子にとって、ひたすらに好きな絵を描くことは、ワクワクするほど楽しいことだ。授業中でも家に帰っても、ただただ絵の完成図を思い浮かべては脳内で手直しをする。
他の人には何が楽しいのか理解されないかもしれないが、まき子は趣味に没頭できる瞬間が何よりも幸せだった。
「正直想像以上だったわ……」
「何がですか?」
「お前の絵に対する熱意がだよ」
「熱意なんて大層なものじゃないですよ。ただの趣味です。楽しくて楽しくて、描かずにはいられないだけですから」
「いや、それ自体が凄いって言ってんだけど……」
秋園の言葉に返答は返ってこなかった。まき子はひたすら絵に向き合い、この二週間近くずっと美術室に入り浸っている。昼休みも描きたいようだが、流石に秋園も休憩時間は欲しい。
放課後は運動部と同じくらいの時間に帰るのだから、熱心というかなんというか。
一度集中し始めたら、話しかけても反応が無くなるため秋園は日々完成に近づいていく絵を眺めているくらいしかできない。
(しかしまぁ、立派なもんだな)
秋園はプロの画家である撫子の絵を知っている。プロに匹敵するほど上手いとは言えないがそれでもまき子の絵には言葉にできぬ魅力があった。上手い、下手という次元ではない。己の絵に対する絶対的な理想が彼女の絵からは感じられた。荒削りで、若さを感じる勢いのある筆使いである。
油絵ならではの重厚感。描いては描き直してを繰り返し、深みのある色になっていく。
その絵を見ていると、秋園は時々泣きそうなほど胸が苦しくなる。まき子の絵は、どちらかというと写真のオマージュだった。摸写するように描くのではなく、写真を参考に手を加えていく。
美しい海や網で焼かれる肉は写真よりもずっと輝いて見える。それは比喩などではなく、まき子が意図的にその部分を明るく優しい色使いで描いているからであった。秋園は、なんとなくまき子のこだわりの片鱗を見た気がした。
自分の思いを、感じたものを、そのまま絵で表現する。きっとそれが、まき子の絵の描き方なのだ。
「お前には随分と俺たちが輝いて見えたんだな」
誰に問いかけるわけでもなく、ポツリと呟く。
「……そうでしょうか」
まき子はカタリと筆を置いて深く深呼吸をした。答えが返ってくるとは思わず、秋園は少し驚く。どうやら集中力が切れたようで、まき子は背伸びをしながら続けた。
「きっと、先生の中の奥様との思い出もこんな風にキラキラしていたと思いますけど」
まき子にそう言われ、反射的に撫子との思い出が秋園の中に駆け巡った。
彼女を愛し、彼女に愛され、二人で幸せに過ごした日々が脳裏に過る。
『見てみて、すごく上手に描けたでしょう? 自信作なの』
『麿ちゃんどうしたの? 落ち込んでいるなら話くらい聞くよ』
『……今、集中してるから』
『出掛けましょう。どこにって……初めてデートに行った浜辺よ』
『麿ちゃんを好きになれて幸せだったなぁ』
『黙ってて、ごめんね。心配かけたくなかったの』
『泣かないで。お願い』
『ありがとう。愛してるわ。──さようなら』
熱くなった目頭をぎゅっと指で押さえ付けた。どうしてか、この記憶を今のいままで忘れてしまっていたような気がする。
妻の死は乗り越えたつもりだった。苦しくて辛くて叫びだしたいほど悲しい時もあったけれど、それも含めて前に進めていると思っていた。だけれど、我が儘を言うならば、一緒に過ごす日々は15年では物足りなかった。
ずるっと鼻水を啜り前を向けば、まき子はまたいつものように絵を描くことを再開していた。秋園が泣いていたことに気付いて気を利かせたのか、全く気付いていないのかは分からない。取り敢えずあの絵は完成次第貰おうと思った。きっと見るたびに、彼女の笑顔を思い出せるから。
愚直に素直に、感情の赴くまま絵を描くまき子は世の中の誰よりも輝いていた。
「若いっていいねぇ」
「叔父さん!」
バンッと凄まじい音がして、扉が開いた。さっきまでの情緒を吹き飛ばすほどの勢いだ。秋園はビクッと肩を震わせ、扉の方を向く。まき子も流石に驚いて反射的に振り返った。
「………え、女子がいる」
呆然とそう呟いたのは、つり目がちな瞳を真ん丸に見開かせた鵬華王蘭学園の生徒会長だった。