第7話
「弟子……?」
あんぐりと口を開け、信じられないと目を見開いたまき子に、秋園は再び笑った。
「そうだ。弟子だ。喜べよ、美術教師から教わるんだぞ。ありがたい話じゃねぇか」
「いやいやいや、頼んでないです。そんなこと」
「そんなことぉ?」
ムッと片眉を上げた秋園は、少し考えるように腕を組んだ。まき子はその様子をじっと見つめる。
全く意味が分からなかった。だって、まき子はただ秋園の話を黙って聞いていただけなのに、なぜ弟子にされなければならないのだ。
「分かった、じゃあこうしよう。お前が弟子になるなら、ここの美術室を放課後お前に貸してやる」
「え、いや、美術部員だったら誰でも自由に使えるんじゃないんですか?」
「そんなの、監督者がいてこその話だろうが。俺だって仕事があるし、いつまでもここに居座る訳にはいかない。職員室に戻るときはここの鍵を閉める」
「そんな! じゃあ、東校舎の美術室は!? あそこは生徒しかいませんでしたよ!」
「そっちには部長の七々扇がいるだろ。ちゃんと部として申請してるんだから部長が鍵を持ってるのは当然だろ。まぁ、七々扇に鍵を開けてもらうよう頼むなら話は別だけどな」
肩を竦める秋園に、まき子は悔しさから歯を食い縛った。あんな女子に大人気の真澄に近づけるはずがない。それだけでなく、真澄の顔はまき子にとって凶器となりうるほど好みの顔なのだ。目の前に来たら確実に喋れなくなる。
ぐぬぬ、と顔をしかめるまき子を、秋園はただ待っているだけだった。
「お前、名前は?」
「……西島、まき子です」
「まき子はあれだろ、あんまり自分の感情を自ら言うタイプじゃないだろ」
図星を突かれてまき子はビクリと肩を震わせた。いきなり名前で呼ばれたのも驚いたが、それよりも簡単に自分を暴かれたことへの驚きが勝った。
「なんでそんなこと分かるんだ、みたいな顔してるけど、分かるからな。俺も伊達に教師してねぇよ。生徒の顔色窺ってた時期もあるしそれなりに生きてんだから。お前みたいなのも沢山見てきたし」
「……そう、ですか。いや、まぁ合ってますけど」
「なんだよ、生意気だな」
「先生なら別にいいかなって」
うんと歳の離れた先生に対してなら、大胆になるというか、きっと隠しても無駄なのだろう。先ほど問われたことも今になって理解できた。きっと、まき子が秋園の顔色を窺って、質問することを躊躇していたのを見抜かれたせいだ。言いたいこと、聞きたいことはハッキリ言えばいいのだと、遠回しに言われた気がした。
「別にいいじゃないですか。わざわざ聞いて相手を不快にするくらいなら、私は何も聞かないことを選びます」
「えー、そこは突っ込めよな。先生悲しいぞ」
「深く追及できるほど仲良くもないですし……」
「逆だよ、逆。仲良くなるために聞くんだろ」
まき子は胡乱げに秋園を見やる。そういうものか、と思いながらもまき子はスルーした。きっと、まき子は秋園のように相手の心にするりと滑り込むことはできない。
相手がどう考えているか、相手の線引きはどこか、どうしても無意識に探ってしまうから。中学の頃から癖になって抜けなくなってしまった。
「で? どーすんの? 弟子の件」
「なんか弟子って言い方が嫌です。普通に部員でよくないですか」
「いや、弟子。特別感あるじゃん」
「じゃあそれでいいですよ」
折れたのはまき子だった。別に弟子だろうが、生徒だろうが部員だろうが指す意味は変わらない。
顧問と部員。師匠と弟子と考えても……良いのでは?
まき子は無理やり納得した。
「じゃあ明日から活動な。放課後ちゃんと来いよ」
「私、好きな絵を描きたいんですけど……」
今更ながら、まき子が遠慮がちにそう言えば、秋園はあっさり頷いた。拍子抜けである。
「好きなのを描けばいい。水彩でも油絵でも」
「え、いいんですか……?」
「おう。俺はお前の描く絵を見たいだけだし」
「そんなの絶対飽きますよ」
呆れたようにまき子がそう言えば、秋園はきょとんとしてから、妖しく口角を上げた。
「飽きねぇよ。人が丹精込めて作る芸術品はなんだって美しいからな。そうだろ?」
(それもそうだ)
まき子は素直にこくりと頷いた。
□□□
慌てて弁当を掻きこむ美千代に、まき子は首を傾げた。
「そんなに急いでご飯食べてどうしたの?」
「え、今日の昼に部のミーティングがあるって言ったじゃない」
まき子は驚いて、「いつ?」と考えるまま聞いていた。美千代は顔をしかめて、やれやれと呆れたように首を振った。
「今日の朝だよ。なんか考え事してるなって思ってたけど、やっぱり聞いてなかった」
「ご、ごめん……。描きたい絵の題材を考えてたんだよね」
まき子の言葉に、美千代は目を見開いた後キラキラと表情を明るくした。そしてぐいっとまき子に顔を近付ける。
「そうだ! 昨日美術部行ったんでしょ? どうだった!? 七々扇先輩格好良かった?」
「実は一瞬しか見てなくてさ。あんなところで絵なんか描けないよ」
「えっ、じゃあどうするの?」
「本校舎の美術室を貸してもらうんだ」
「なるほどねぇ」
もしかしたら、本気で絵を描きたい部員も一定数いるのではないかと、後でまき子は思った。秋園が言っていた弟子というのは別にまき子一人のことではなく、本校舎の美術室を使っている部員のことを指すのでは? と昨日帰り道に不意に思い至ったのである。
「真面目に絵を描きたい部員もいると思うんだけどさ……」
「いないいない。まき子くらいでしょ」
「え?」
まき子はポカンとしてから、どうして? と小さく尋ねる。なぜそんな自信満々に否定出来るのだろう。
「聞いた話だと七々扇先輩は部員全員の名前と顔を覚えているんだって! もうそんなことされたらイチコロじゃない? 新入生には先輩自ら歓迎の言葉をかけるらしいよ。そんで、結局みーんな先輩の虜になっちゃうってわけ」
「私忘れられてるってこと? それはそれでショック……」
「いや、そもそも美術室Ⅰに入ってないみたいだし、まき子は……私のせいで最初の方部活行けてなかったじゃない」
少々申し訳なさそうに、美千代は言った。確かに、そもそもまき子と真澄は面識がない。まき子が一方的に知っているだけであって、会っているとすら言えないのである。
であれば、彼がまき子を認知していないのも当然のことだ。むしろあれだけの人数がいる美術部の部員全員の名前と顔を覚えているだけ凄い。
「まぁ、それは仕方な」
「綾瀬」
まき子の言葉に覆い被さるようにして、すっと耳に馴染む低音が鼓膜を揺らした。美千代が箸を落とし、口元を手で覆っている。彼女のその様子だけで、誰が来たのか一目瞭然だった。
「清史先輩!」
明るい声の主は、言わずもがな春陽のものであった。以前の緊張したような様子は消え失せ、親しい友人に向けるような……否、それにしては甘い声色で返事をする。
(清史……清史? 苗字でなく、名前で呼んだ!?)
テコテコと可愛らしく清史に近づく。そして上目遣いのまま、困ったように眉を下げた。
「ごめんなさい、わざわざ教室まで来てもらって……」
「いや、構わない。俺にとっては練習のついでだ。綾瀬は気にするな」
「先輩って本当にお兄ちゃんみたいですよね」
和気あいあいと楽しそうに話を弾ませる二人に、クラスメイトは釘付けである。なんせ、生徒会の東條清史が来たのだ。ガン見しといて損はない。それほど彼は整った顔立ちをしているのだから。
清史はふと思い付いたように教室内を見た。
「綾瀬、お前一人で飯を食っていたのか」
「あ、あー……えっと」
春陽は視線を泳がせ、気まずそうに目を伏せた。その様子を見た清史は、首を傾げる。
「友人が出来ないのか?」
「いえ、その、私はあまり好かれるタイプじゃないようで……。いや、昔からそうなんです。空気読めないって言われるから、仕方がないんです」
その瞬間、ザワリとクラスの女子が殺気立ったことにまき子は気付いた。春陽は、クラスの女子からはあまり好かれていない。生徒会へ入った春陽への嫉妬のせいであることはまき子にも分かる。
誰も春陽へ声は掛けなかったが、春陽もクラスの誰かに声をかけることはなかった。いつも一人でいるか、男の子と話しているか。それがまたむかつくのか、クラスの女子はさらに春陽を邪険に扱う。
まき子は中学の経験から、あまり春陽に関わりたくないとは思っていたけど、こんな扱いは望んでいない。時々声をかけたり、挨拶をしたり、仲良くなろうとしたつもりであったが春陽の反応は薄かった。
分かりやすいほどに、男の子へ向ける態度と女の子へ向ける態度が違ったのである。まき子は思わず天を仰ぎ、これは擁護のしようもない、と諦めた。
同性同士であろうと、態度を変えられることに良い気持ちになる人なんていない。自分がされたら嫌だし、それを春陽も分からないはずがないのだ。
清史はそれ以上何も言わず、突っ込むのを止めたようだ。賢明な判断である。よく分からないことには、無闇に首を突っ込まない、これ大事。
「行こう。斗真が待ってる」
「はーい!」
一番関わりたくない人種だ、と思いながらため息を吐いた。所謂、彼氏の側に一番いてほしくない女友達、だろうか。
そこでまき子は美千代の存在を思い出した。春陽が強烈で、美千代の反応を忘れていた。
これは修羅場確定か、と恐る恐る美千代を見たまき子は思わず箸を落としそうになった。切なげに、しかし慈愛の表情を持って去っていく清史を見つめる姿は、恋する乙女よりもずっと高貴なものだった。
ともすれば、親の愛とでも言えそうな無償の愛。そんな美千代を『描きたい』とまき子は思い、そして次の瞬間唐突に理解した。
(美千代は、東條先輩が好きなんだ)
ただの勘だが、女の勘は意外と当たる。根拠など何もないが、きっと美千代の清史に対する感情は、まき子には到底理解できない深い深いものだということだけは、漠然と理解することができたのであった。