第6話
美千代は悩みに悩んだ結果、結局バスケ部のマネージャーになった。生徒会長である、伊集院斗真が入部しているということもあり異常に人気で面接やらテストやらがあったらしい。
美千代は経験者であることと、斗真のファンでないことから簡単に採用されたようだった。
「じゃあ今日から部活なの?」
「そうそう。またバスケかぁって感じだけどこれくらいしかできないし」
美千代は大きなスポーツバックを肩に掛けてため息を吐いた。美千代に付き合う必要のなくなったまき子も、初めて美術室に顔を出すつもりだった。
「こんなに悩んだくせに結局バスケ部ってのが本当に申し訳ないよ。まき子も今日は部活行くの?」
「うん。ちょっと様子見して、あとは描く絵の題材を決めようかなって」
「まぁお互い生徒会メンバー所属の部活だし、頑張りましょ」
「うん、じゃあまた明日」
美千代と別れて教室を出る。一応、キャンパスだけは持ってきた。今日は美術室の下見と描く風景を考えるために校舎を徘徊する予定だ。
さすが天下の金持ち学校、鵬華王蘭学園というだけあって、美術室だけでも三つある。もちろん美術部員なら誰でも全ての美術室が使えるようになっているらしい。
もう入学して一ヶ月半は経ったが、まき子は未だに教室の位置を覚えられないでいた。とりあえず、一番大きな美術室がある東校舎に向かうことに決めた。
東校舎は生徒会室や図書館、謎のサロンのある本校舎より贅沢な校舎である。
小中校一貫のこの学園は、都心にあるにも関わらず、東京ドーム凡そ10個分の敷地面積を持つ。正直ピンとこない数字ではあるが、とにかく広いことだけはまき子にも理解できた。高等部、中等部、初等部と校舎も敷地も分けられているが人数の関係で、圧倒的に高等部の敷地が広い。
まき子はとにかく迷わないように、必死に地図を見ながら進んでいく。野球部特有のボールが金属バットに当たる音がよく聞こえた。
東校舎の中は本校舎よりずっと綺麗でまき子は居心地が悪くなる。廊下に吊るされたシャンデリアは食堂と似たものだったし、敷かれたカーペットも美しい刺繍が施されていた。
城のような内装の中、まき子はひたすら地図を見て真っ直ぐに進んでいく。美術室Ⅰという文字が見えたことにホッと息を吐いたのもつかの間、突然後ろから声をかけられた。
「おい」
「……っ!」
まき子は息を飲み、反射的に後ろを振り向く。声からして聞き覚えがあったが目の前にいるとなると迫力に圧倒された。
不思議そうな顔でまき子を見下ろしたのは、生徒会長である伊集院斗真。
(バスケ部じゃなかったっけ……?)
言葉も発せず呆然とするまき子を無視して斗真は眉を潜めた。
「君はここで何をしているんだ? 真澄目当てか?」
まき子はここでようやく意識を取り戻した。イケメン過ぎる顔面に見惚れている場合ではない、とようやく頭が回りだしたのだ。
しかもよく見れば、斗真の後ろには春陽がいた。意外にも状況把握能力に優れたまき子の脳みそは、新人に生徒会の仕事を教えている途中だったのだ、と正確に現状を理解した。
「わ、私は美術部で……」
「あぁ」
ボソボソと小さく言い訳のように呟いた言葉は幸い斗真に伝わったようだった。斗真はまき子の腕章の色と抱き締められたキャンパスを見て、新しい部員だと理解したらしい。
心得たように頷いた斗真を見て、まき子はサッと扉の前を空けた。恐らく美術室に用があって来たのだろうとまき子が推測した結果だった。
まき子の予想は見事的中し、斗真は流れるように美術室に入っていった。その後を春陽が追う。春陽とまき子は一応とはいえクラスメイトである。目があった気がしたのでまき子は軽く会釈をしたが、春陽はフイッと前を向いてしまった。
(あれ、タイミング悪かったかな)
ほんの少し感じた疑問も、次の瞬間まき子の中から吹っ飛んだ。美術室の中にはびっしりと女子がいて、その中心で真澄が優雅に絵を描いていたのだ。
真澄は斗真に気が付くとヒラヒラと手を振る。
まき子は目が飛び出るかと思った。こんなのはまき子が望んだ美術部ではない。その場を逃げるように立ち去り、今度は本校舎の美術室Ⅱに行くことにした。
(なんでこんなに校舎と校舎の距離が遠いわけ!?)
これでは、移動時間だけで放課後が終わってしまうとまき子は一人憤慨していた。
本校舎の美術室は生徒の美術の授業に使われるものだ。電気の消えた教室に鍵がかかっているかもしれないとまき子は不安になったが、扉はあっさり開いた。
使いかけの絵の具や汚い机、脂ぎった臭いはまさにまき子の想像していた美術室だった。
(そう! 私が求めていたのはこれよ、これ!)
美術室を一人占めできるなど、今まで無かった。美術室Ⅰになぜあんなに人が集まるのかが不思議でならない。一人や二人くらい、本気で絵を描きたい人もいるだろうに。
まき子は通学鞄を机に置いて、美術室の壁に掛けられていた絵をじっくり見ていった。卒業生が描いた作品や、彫刻。現在授業で使用していると思われる色がついたまま放置された筆、出しっぱなしの絵の具。
キョロキョロと見ていると、視界に一つの絵が写り込んだ。引き寄せられるように、その風景画に近づいていく。赤く塗られた鳥居と、その奥にポツリと置かれた賽銭箱。森の奥にひっそりと隠された小さな神社を描いたものだった。
新鮮な風を感じられるかのようなみずみずしい色使いと、柔らかな光。全体的に影が多いはずなのに暗くはならず、淡い色彩を保っていた。
「……綺麗」
「おいおい、部外者立ち入り禁止なんだが」
ポツリと呟いた言葉をかき消す声に、まき子は後ろを向いた。今日は後ろから突然声をかけられる日なのだろうか、とまき子は内心うんざりした。
「私、美術部なんです」
そしてこれもさっきと同じ。
まき子に近づいてきたのは、メガネを掛けた髭面の男だった。髭さえなければもっと良い顔になるのに、とまき子は思いながらも口にはしない。茶色に染めているのか髪色はとても明るく、瞳も琥珀色に近かった。どことなくあの生徒会長を彷彿とさせたが、如何せん、汚い服とボサボサの髪は野暮ったかった。
「あ、お前新入生か」
「はい。今日初めて美術部に顔を出しました」
「その様子だと、東校舎の美術室から逃げてきた奴だな」
男は意地が悪そうに笑って、まき子と同じように壁に掛けてあった風景画を眺めた。
その男の首に掛けてあった名札には、『美術教員 秋園影麿』と記載されてあった。まき子はそれを見て、この男がここの教師であることを知る。
「この絵はどうだ?」
何の脈絡もなく、秋園はまき子に話しかけた。まき子はもう一度、絵に向き直りそしてやはり同じ感想を抱く。
「……美しいと思います」
「なぜ?」
「この画家にとってこの場所はきっと心暖まるものだったと、感じられるからです」
まき子の言葉に、秋園は驚いたようにまき子を見た。そして小さく、どうしてそう思ったんだ? とまき子に問う。
まき子は少し考えてから、秋園の方をちらりと一瞥する。
「私も、絵を描きます。その時、自分の心動かされたものを絵に残そうとします。その時感じた感動を、幸せを、美しさを永遠と眺めていたいからです。人が思い出を忘れないように、写真を撮ったり、日記を書き残すように私も自分の感じたことを形に残したくて絵を描きます。私は、そうです。だから、この絵を描いた画家もそうであればいいなぁ、と思いました」
「……」
反応のない秋園をちらりと見ると、彼はじっと石のように目の前の絵を見つめたままだ。
「……先生? どうしました?」
「俺は、この画家を知ってる」
ポツリと、秋園は呟いた。まき子は取り敢えず静かにしていようと口を閉じる。
「彼女は、明るくいつも笑顔だった。花が咲くように笑って、絵を描くことが何より好きだった。淡い色使いと神々しいまでの風景は彼女らしいものだといつも思っていたよ」
秋園は目を細めてから、まき子の方を見た。
「一度、彼女の個展に足を運んだことがある。その当時、俺には絵画なんぞよく分からなかったから、彼女の絵を見ることもあまりなかったんだ。でも、彼女の、最後の個展は見に行った。太陽の元に咲く花畑のような淡く眩しい絵画たちの中で、異質なものが一つだけあったんだ」
見るか? と秋園が言うので、まき子はこれで断るのも気まずいと思い、小さく頷いた。秋園が背を向け、準備室に入っていく。
それを追うようにまき子も歩き出そうとした瞬間、ふと絵の下にある文字に目が行った。この風景画の題名とそれを描いた画家の名前が記載されたプレート。
(……『逢瀬』秋園撫子。……たしかさっきの先生も秋園って名字だったはず)
秋園が無心に見つめていたこの絵の画家と、彼が無関係なはずがない。まき子はプレートから視線を外して準備室へと足を進めた。
準備室はやや埃っぽく、カビ臭い匂いが鼻につく。沢山の絵が、埃を被って積み重なっていた。秋園がいる場所に、そっと寄ってみる。
その場に立て掛けてあった絵に、まき子は驚き目を見開く。血をぶちまけたような赤。
落書きに見えるかもしれないが、この絵が、さっきのような澄んだ風景画の中にポツリと飾られていたら、その存在は異常である。
美しい風景画たちの中に紛れ込んだ、血のようにも見える毒々しい絵画。それは人を殺した後の血飛沫のようでもあり、真っ赤な彼岸花のようにも見えた。
「赤い、ですね」
まき子はそれしか言えない。秋園が隣で頷く気配がした。
「この絵は、彼女の描いたものの中では異常だった。どうして、こんな絵を描いたのか、俺には分からなかった。当時も、よく分からない恐怖に駆られたよ」
秋園は絵の具が固まった絵の表面を指先でなぞった。懐かしむようなその行動に、まき子は目を伏せる。
「彼女は、病気だった。病気が発見されたのは、その病気がもう治らない段階まできていた時で、余命一ヶ月だと言われたんだ。………いや、こんな所で誤魔化してもどうしようもないな。俺が彼女の病気を知ったのは、余命一ヶ月を切った頃だった」
「……彼女はどうして先生に病気のことを告げなかったんですか?」
「今となっては、もう分からないさ。沢山の憶測を何年も続けたがそれももう疲れた。でも、彼女は一度だって俺に弱音は吐かなかったんだ。いつだってニコニコと楽しそうに笑っていた」
そんな彼女が、なぜ血に濡れたような絵画を描いたのか。まき子には、容易に想像がついた。
真っ赤な絵から感じられるのは、恐怖や悲しみ、後悔、憎悪、負の感情ばかりだ。この絵は、彼女の最初で最後の弱音だったのではないだろうか。
まき子は口を開こうとして、閉口する。今、気の利いたことを言える自信はなかった。
「何か聞きたそうだな。先生に話してみろ」
秋園はパッとまき子の方を見て、ニヤリと笑った。まき子は面食らったように瞬きを繰り返す。まさか、秋園からそう言われるとは思っていなかった。
「なんだよ、その驚いた顔は。俺がお前みたいなガンチョの感情一つ分からないと思ったのか?」
これでも、一応教師だぞ、と秋園は不貞腐れたように言う。まき子は一度考えるように視線を泳がせ、まぁ相手がいいならいいか、と遠慮なく聞くことにした。
「聞きたいことはいくつだ?」
「……二つ」
「一つ目は?」
「先生と、"彼女"の関係性は……?」
「旦那と妻。二つ目は?」
「………」
(なんだか面談してるみたい)
やけに手慣れた様子の秋園に若干の居心地の悪さを感じながら、まき子は口を開く。
「……どうして、私に奥さんのことを話したんですか」
目を合わせることなく吐き捨てるように言った言葉に、秋園が息を飲む気配がした。そしてすぐに笑い出す。彼は心底可笑しそうに、ケラケラと笑った。
「別に隠してることじゃないし、なんなら俺は生徒には言うようにしてるぞ。クラスを受け持った時はクラス全員に話すし、俺の授業を受ける奴らにも言うようにしてる」
あー、可笑しい、と笑う秋園にまき子はかぁっと顔が赤くなった。まるで自分が特別に彼の事情を聞かせられたような気になっていたことが、恥ずかしかったのである。
とんだ勘違いじゃないか、と思いながらも悔しさから秋園を睨み付けた。
「そう睨むなよ。この絵を紹介したのはお前だけだって」
「そうですか」
「いやぁ、楽しくてついな。お前は、絵を描くことが好きみたいだったから」
そう言って、秋園は少年のように朗らかに笑った。
「だから、お前を俺の一番弟子にしてやる」
「は?」
先生相手に失礼だとは分かっていながらも、まき子は心底、意味が分からない、と目を丸くしたのであった。