Ⅲ
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航行自体はきわめて順調だった。小惑星群や隕石との接触もなく、大幅な軌道のずれはありえなかった。
が、現実にそれは起こったらしく、今なお船は宇宙を往く。
地球を離れてわずか4年で透眞の母親は鬱におちいったが、その後の7年間は第2の故郷ベルガを臨むことで均衡を保っているかに見えた。
11年で辿りつく筈の新天地をレーダーが一向にとらえられない中、事件は起こった。つんざく悲鳴を聞きつけた乗組員が部屋に飛びこんだときにはもう遅く、腹部から血をあふれさせて横たわる夫のそばで、妻はケタケタと嗤っていた。鬱になって以来初めての笑顔、明るい声を響かせて――。
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父親を宇宙葬で弔ってのち3年間、透眞はいじらしいまでに母親を看てきた。父親を奪ったことを責めもしなければ、見捨てもせず、いたわることで自身と母親の苦しみを昇華させているようだった。
俺は父親役をつとめる気にはなれなかったが、成長著しい透眞が精神面で年上の男性を必要とする際には相手になってやりたいと思っていた。しかし、こんな話題は予想だにしていない。
「あなたは悔しくないの? 死ぬことがわかっている未来も夢もない旅なんて。僕は許せない。だから決めたんだ。パパの報われない魂のためにも、ママの傷ついた魂のためにも、僕たちをこんな目に合わせたやつらに復讐する。絶対に還るんだって」
「……何を言っている。復讐? 還るってどこへ」
透眞は待っていたとばかりに身を乗り出した。
「この船は2年前に進路変更したんだよ。僕たちは今、地球へ向かってる」
今……何て? 地球へ向かっている? そんな馬鹿な!
俺の反応が期待にそぐわなかったのだろう。透眞は心底がっかりした素振りをみせた。まるで満点のテストを褒めてくれない親に不満をつのらせるように。
「ちっとも嬉しそうじゃないね……どうして? 心配は無用だよ。漂流なんてことにはないから。僕らの力は、そんなやわじゃない」
いぶかるべき事態になぜ気づかなかったのだろう。最初から片道分の燃料しか積まれていない、俺しか知らない機密をはらんだ船が、到着予定の11年を超えても航行し続けていた事実に。
なおも不可解なことはある。透眞の言う《僕ら》とは他の乗組員のことなのか? 俺以外はみな承知している話だとでも――。
「違うよ。《僕ら》ってのは、この船で生まれた10人の子供たちのこと。宇宙世代って先天的にESPがそなわってるみたいだね。はい、チェックメイト」
その一言が合図となり、視覚が正常さをとりもどす。触れてもいない俺の駒は勝手にゲームを進めていた。そればかりか自分の思考は筒抜けだった。船の燃料、ベルガのデータ改ざん、そして俺だけがシングルで参加した経緯も、とうの昔に読まれていたのだ――透眞のいうESPによって。
例の事件は確かに悲惨な悪夢だったが、あれを機に家族間の絆は深まり、乗組員同士の理解も強まった。子供たちに不安な思いを抱かせることなく日々を乗り切ろうと、話し合いを重ねた。だが、その守るべき子供たちに親は精神をコントロールされていたのだ。透眞の母親が鬱におちいった原因も、はたして環境だったのか今となっては疑わしい。
透眞は初めて気まずさをみせた。
「血縁関係があると、はずみで操作できちゃったりするんだよ。そのつもりがなくてもね。肉親は波長が合うせいだと思うけど」
不可抗力とでも言いたげだが、よくある子供の言い訳には到底なりえない。
「その点、あなたは手ごわかったな。DNAに類似性がないうえ、頭の中のチップが邪魔をして感情や思考を読むくらいしかできないんだ。本気を出せば造作もないだろうけど、それではあなたの脳が壊れてしまうからね」
透眞の手にかかれば俺の肉体など玩具同然だろう。最高の皮肉じゃないか。反吐が出るほど悪趣味な政府のお荷物せいで、俺は子供たちの傀儡にならずにすんだのだ。
「権力者とキレ者は違うんだ。僕ならたとえ切り札をつかんでも、つまり、奥さんの命を盾にとっても機密を知った人間は船には乗せない。地球に置いて、そこで監視する。永遠に。だって僕らみたいな子が生まれたら困るもの。素因分子は加えない。とりわけ触媒となるようなものはね」
「…………」
先ほど感じた違和感、俺を見つめる無邪気で純真な双眸に不釣合なものの正体が、今やはっきりとみなぎっていた。まぎれもない野心と狡猾さ。このような旅では大人も決して抱いてはならない、抑えなくてはならないもの。
透眞は俺を触媒だといった。俺が機密をかかえてさえいなければ、この子たちの脳力はここまで強くならなかったのかもしれない。屈するしかない絶望だと諦めるには、まだ幼すぎたのだ。どうにかすればくつがえせるという子供特有の純粋な過信が、力の増幅につながったのかもしれなかった。
そして、俺が透眞に植えた野心と狡猾さは、今度は俺にとって触媒となり始めていた。胸のうちに新種の感情が芽生えていく。
地球への帰還。そんなことがありえるのだろうか。この船に乗り込んだ日から、いや、俺の場合はそれよりも前から諦念しかなかったというのに。
政府への復讐。そんなことができるのだろうか。俺一人だったら到底無理なこと。だが今は――?
テーブルの上でにぎりしめる俺の武骨なこぶしに、白くて薄い手の平が重なった。新種の感情に、刺激的な躍動が注ぎこまれてくる。もうずっと忘れていた、葬って久しい情動。
ああ、これは何というものだったか。昂奮とも快感とも似ているがどこか違う。
「ケヴィン、あなたは今こそ《希望》を持つべきだ」
透眞がそれに名前をつけた。
END
続編を考えていた記憶が、うっすらとある。地球へ帰還すると、ケヴィンの元妻はまだ健気に彼を想い独身を貫いていて、そこへ透眞が加わり、複雑な三角関係が生まれるという――。
問題なのは、透眞のライバルがケヴィンではなく元妻ということ(笑)。