Ⅰ
初稿は2002年頃。タイトルも登場人物の名前もなく未完結のまま放置されていた。
2013年別サイトへ載せるため、ひぃひぃ言いながら完成させたもの。
憎まれることで、守るしかなかった――。
*
「君か、この旅で唯一の独身者というのは」
出航前の船内ロビーで漫然と座っていると、そう声をかけられた。正直、話す気分ではなかったが、第一印象は肝心だ。わずらわしさをどうにかぬぐい、社交的な笑みをまとう。
「ああ……永いつきあいになるが、よろしく」
「こちらこそ――妻だよ」
軽く握手をかわすと、男の背後にいた女性が全身を現した。俺は、はからずも目をみはる。
「……その体で、よく思いきったな。優秀な医師団もいるにはいるが」
「もちろん不安はあるよ。でも、妻がどうしても生みたいと言ってくれてね」
「この子は宇宙世代1号になるんですもの。そんな歴史的誕生に立ち会えるだなんて親として、何より地球人として冥利につきますわ。出産の勇気を与えてくれたのは、むしろこの子です」
大きな腹部を撫でながらこぼす笑みには慎ましさが漂っていたが、母親としての誇りも芽生えているのか、口ぶりには自負たる響きがこもっていた。
本当ならあいつにも、こんな強さや喜びを与えられたかもしれないのに……。
ふと黙りこんだ俺を見て、女性は失礼があったのかと戸惑いをみせる。
笑顔をつくろい直した俺は口をひらいた。
「あなたたちの決断は、俺たち同船者にとっても大きな希望になるだろう。無事の出産を祈ってる」
「ありがとう」
男は守るように妻の腰へ手を回すと、去っていった。
そんな2人を見つめる俺の目は、かけた言葉とは裏腹にすこぶる冷めたものだった。嘘まみれの科白をよどみなく吐ける程度には、偽善者ぶりが板についてきた。俺がシングルと確認したうえで自分たちの幸せをこれみよがしに突きつけてくるあの夫婦の厚顔も、なかなかのものだろうが。まぁ、それくらいの図太さがないと耐えられる旅ではない。
それにしても《大きな希望》とは……我ながら最高級の偽善じゃないか。この旅で子供を生むだって? 正気の沙汰じゃない。嘲笑だ。
だが、こうしたあざけりを受ける立場に、そもそも彼らはいないのだ。何も知らされていないからこその言動。絶望に打ちのめされるのは、まだ遥か先。あのようにまっすぐな希望を抱ける余地が今の彼らにはあって、俺にはない。それだけだ。
公表されている新天地ベルガのデータは、すべて虚偽だった。虚偽というより、無。人間が確実に生きていけるという最低限の保障さえない惑星までの旅を始めてしまった俺たちは、はなから生死を重要視されていない地球政府の実験体なのだから――。
*
「今『離婚したい』って聞こえた気がしたけど」
「そう言ったからな」
「……どういう意味」
「言葉どおりの意味だよ」
俺は手元のデジタル新聞を起動するなり一面を素早くスライドさせた。この半年間トップを独占している注目記事は視界のすみにも入れたくなかった。
「真顔で冗談はよして。あなたらしくもない」
「冗談をまじえてできる話じゃないだろう」
「わたしとしては冗談にしてもらいたいけど?」
俺は一瞬考えてのち、尋ねた。
「別れ話をニヤケながらしろというのか」
同じように一瞬おいた彼女が吹き出した。
「もう、あなたって人は本当に――」
そこで途絶える。俺には沈黙の意味がわかった。これまで何度も口にしてきた科白を言ったが最後、俺の本気さ加減を自ら認めてしまうことになるからだ。
だから、代わりに口にした。
「『適当ってことを知らない不器用で生真面目な男』だろ。そんな奴の相手はずいぶんと面倒だったろうな。それも今日で終わりだ」
口調に込めたのは嫌味ではなく、むしろ彼女の苦渋を減らしてやりたい一心で装った最初で最後の《不真面目さ》だったのだが。
「……下手な芝居。あなたに《軽い男》は無理ね」
一世一代の演技は、あっけなくダメ出しされた。嘘でも褒めてくれればいいものを。
その後はだんまりが続いた。やむをえず、もう一度切りだそうとしたときだった。「原因は何」と彼女が口を切った。
やはり、すんなりと受け入れる気はないか……。
早急にケリがつくことを願う一方で、彼女の食い下がる態度にどうしようもなく安堵している自分がいた。
「やっとの思いで両親を説得して晴れて入籍できたのに、まだ1ヶ月しか経ってないわ」
「早すぎる離婚に喜びはしても落胆はしないだろう。これで、大事な1人娘を危険な長旅にやらないですむ」
視線を手元の画面に据えたまま、俺は答えた。さっきから1度も顔をあげていない。彼女の深いため息はそんな俺の態度に対してなのか、科白に対してなのか。
「今さらむしかえす話? ついて行くと決めたのは私よ。親は関係ない。それに、あの船に乗るには夫婦であることが条件でしょう。昔からの夢を棄てるの?」
「いいや、だから俺は乗る」
「乗るってどういうこと」
「1人で乗るってことさ」
「そんな条件なかったわ」
「特別許可が下りたんだ。これまでの莫大な訓練費を考えれば、政府側もたやすく人員削減できないんだろう」
政府だけじゃない。乗組員はもはや全地球人の衆目を集めていた。半年前に船団メンバーが発表されて以来、メディアはカウントダウン形式で出航までの経緯をつぶさに報道し続けている。
「それなら私だって同じでしょう。ずっと一緒にやってきたんだから」
俺は内心、苦笑した。彼女の芯の固さというか頑固さは2人の目指す方向が同じならば心強くもなろうが、逆となると厄介だった。納得するまで意志を曲げない。そういうところに惚れもしたんだが。
「要は気持ちが冷めたんだ、君に対する」
「…………」
「出航前でよかったよ。飛び立ってからじゃ遅いだろ。逃げ場のない宇宙船で毎日顔を合わせるなんて、苦痛でしかないからな」
「そんな理由、私が信じるとでも?」
下手な芝居とダメ出しされたあとなので、格好がつかない。だが、信じたふりだけでもしてもらわなければ。
「勝手なのは、わかってる。一生恨んでくれていい。とにかく俺の望みは金輪際、君と関りを持ちたくないってことだ」
画面をひたすらスライドし続ける。内容なんて1文字も頭に入ってこない。視線を合わせないためだけの行為と、彼女もわかっているのだろう。
「ねぇ……あなた、さっきから一度もこっちを見てないわ。本心だって言い切るのなら、私の目を見てもう一度話して」
俺は勢い立ちあがり、初めて彼女を真っ向から見つめた。
「君がこんなに物分かりの悪い女だとは思わなかったよ」
無茶苦茶だという自覚はあった。だが、答えにならない理不尽な悪態を吐くことが、このときの俺にできる精一杯だったのだ。このまま押し問答を続けていたら頼りない決断は自尊心もろとも砕け散り、彼女を連れて逃亡してただろうから――。