伍
実は先の対峙以来、気になって仕方のないことがあった。
あの構え――この私が初めて逡巡した。
どんな相手でも打ち負かす自信はあるし、斬られる恐怖も湧いてこないのだが、あの一瞬、抜刀にためらいが生じた。実力の差を痛感したからでも、勝てないと畏怖したからでもない。言うなれば、迷いのような。
左太刀だったのだ。ふつうは右手を前、左手を後ろに刀を持つものだが、逆の型をとる系統となると――。
『知りたくば、わたしの流儀を明察されよ。さすれば自ずとわかろう』
蓮暁の言葉を反芻する。いや、これよりもっと重要な一言がありはしなかったか。
『先生をご存じか。でも《こちら側》ではなさそうだ。官軍か』
『否。わたしも《そちら側》だ』
会話がよみがえった瞬間、符号が合致した。全身を震えがおそう。水の冷たさのせいではない。
せいぜい佐幕派の志士くらいに思っていたのだが……何てことだ、幕府そのものではないか!
徳川家兵法指南役、柳生新陰流。
ためらったのも道理だろう。幕府を守る身で幕府の剣に手向かうなど、できる筈がない。
新陰流は江戸柳生と尾張柳生とにわかれてのち、奥義や秘儀は尾張の雄・柳生連也斎に継承されたと聞いている。蓮暁が連也斎ということか? あれだけの構えや隙のなさを持つ身なら納得もいくが。
しかし、すべては私の生まれる200年も前の話なのだ。蓮暁は自分と同年代にしか見えないし、時代的に私のことなど知る由もない筈。天雅なる人物と記憶違いしているのは、そのためか?
仮に柳生一族の者だったとして、名を偽ってるのも気になった。連也斎と知られたくないのだろうか。敵も多いだろうしな。まぁ、敵でなくとも腕に覚えのある者なら、手合わせ願いたくなる名ではある。これは剣客の性分だ。
突如、水中に頭を沈められた。鼻から水を吸い込み、思いきりむせる。
「げほっ、な、何するんですか!」
「もう知らん! お前、一生そこにいろ!」
すねるように猛然と泳ぎ去っていく慈音を、私はあぜんとしながら見つめた。それから無性におかしくなって、大声で笑った。
慈音が振り向く。暗くてわからないが、きっと仏頂面をしている。海に着水したときより私たちにかまうことなく、どんどんと先へ泳いでいた蓮暁も、動きを止めたらしい。たぶん、同様にこちらを見ている。私の声は甲高いのでよく通るのだ――とは佐藤家の談だけど。
笑うことは好きだった。あの頃も先生や仲間に囲まれて、いつも笑ってた。楽しかった。京へ向かってからは血を浴び続ける毎日だったが、そんな仕事も苦じゃなかった。みんなが一緒だったから。
大怪我を負っても、病気にかかっても、独りになるのだけは嫌だった。重荷と言われても、邪魔だと言われても、這ってでもついて行きたかったんだ、本当は。
日々訪れるのは黒猫。呼びかけても近づかず、手を伸ばせば逃げた。私は独りだった。
私の前に人はいない。それがいつの間にか、前にも後ろにもいなくなっていた。
そして今、私の前を蓮暁と慈音が行く。それもいいかなと思う。心を許したあの3人ではないけれど、こんなふうにまた笑えるのなら。




