悪口
絵美が俺の背で槽をこぎ、そして睡魔に負けたところで、俺達はやっと朝日ベーカリーに辿り着いた。
遠かった。その一言に尽きる。バイクでも二十分はかかる距離なのだから、歩きになれば相当だ。
出来ればもう経験したくない。
「ほら着いたぞ絵美。とっとと起きろ」
「むにゃ.... なんだもう朝飯か?」
「そんなわけないだろ。朝日ベーカリーについたんだよ。とっとと背中からおりろ」
「むにゃ.... なんだ昼飯か?」
朝飯どこいったんだよ。いや、そもそもなんで起こされるのがご飯時前提なんだ。
絵美は呼び掛ければ一応起きたが、またすぐに寝ってしまった。
やれやれめんどくさい奴だ。
「.... 朝はオムライス定食だぞ」
「なに! どこだ。どこにある!!」
「.... 」
こんな子供だましにもならないことに引っ掛かるなよ。
絵美は背中からおり、キョロキョロと辺りを見渡すが、勿論オムライス定食なんてものがこの場にあるはずもなく。あるのはせいぜい閉店したパン屋と電柱だけだ。絵美はやがてこちらを恨めしそうに睨んで、
「貴様謀かったな」
「なわけないだろ。それよりもほら早く帰るぞ」
「うむそうだな。そして帰ったらオムライスを食うのだな」
夜食にオムライスとはなかなかヘビーな胃なことで。俺はてきとうに受け流し、駐車場へと向かう。
正直ここからは早く立ち去りたい。いや、正確にいえば絵美と二人きりのこの状況から早く逃れたい。
夜だから人が歩いていないとは限らない。もし、この状況をなにもしらない赤の他人に見られたとしたら.... 想像するのも恐怖だ。
俺は後ろでオムライスと題して謎の歌をうたう絵美を他所に愛車に早足で近づき、そこに貼り紙が貼ってあることに気がついた。そして見てしまった。
「なんだこれ?」
剥がして、スマホの光で照らしてみる。そこには赤く太い文字で『馬鹿』と書かれていた。
「.... 」
馬鹿だけではない、アホや死ね、消えろなど所謂悪口やいわれのない誹謗中傷の貼り紙が沢山貼られていた。俺のバイクに、そして朝日ベーカリーの窓や壁一面に。
そこで俺は、この悪意は俺に対してではなく、朝日ベーカリーの店主葵に向けられているものだと悟った。悟るのに充分すぎるほどの貼り紙だった。
「ほう.... なかなか面白いことをする人間がいるのだな」
絵美は皮肉で言ったわけではなく、実に楽しむかのように、面白くなってきたとくっくとすました声で笑いそう言った。
一々反応するのも馬鹿みたいだ。俺は絵美を無視し、貼り紙を剥がしていく。
ふざけている。馬鹿げている。悪口をいうなら影でこそこそとせずに本人の目の前で言えよ! こんな餓鬼みたいな嫌がらせをして恥ずかしくないのか。
「斤十ーー 何してるの?」
両手から溢れ落ちそうなほど貼り紙を剥がしたところで、聞き覚えのある声に呼び掛けられた。
「葵.... 」
抱えきれず、大量の紙屑がポロポロと溢れ落ちた。