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伊豆の幻 ~夢でもし逢えたら~

作者: ノーマン

私はこの作品に自信を持っています。

感覚的に体感できる小説を目指して書き上げました。

是非読んでみてください。


 伊豆の幻 ~夢でもし逢えたら~          


 八月の朝の日差しを思い出してほしい。蝉が声を上げるにはまだ早く、気温は幾分ひんやりとしている、あの清々しい朝だ。半分開いた窓から差し込む風が風鈴をそっと撫でる。リンリンリン、と澄明な音が部屋の温度を二度下げる。伊豆半島の城ケ崎海岸の駅から岬までの道のりを思い浮かべてもらいたい。広々とした道路はまるで飛行場の滑走路のようで、左右に並んで生える樹木が“滑走路”に交互に影を落としている。それは僕らにピアノの鍵盤を連想させた。“滑走路”からは一本の脇道がくねくねと伸びている。その脇道に僕らは入る。伸び放題の雑草には朝露がべっとりついていて、それは僕らの背丈をすっぽりと覆い隠してしまう。兄は先頭に立って足で草を踏み分けて進んでゆく。僕は毛虫とかこおろぎとかそういうものに怯えなら兄の後に続く。ようやく道を抜けた頃には文字通りびしょ濡れになっている。母はそれを見ていつもこう言う。

「草むらを歩いてきたのね。いつも言ってるでしょ。ブルーサマリアの脇の道路を通りなさいって」

 ブルーサマリアというのは一昔前にテレビにも取り上げられるほど大繁盛したレストランの事だ。それはちょうど30年前の事で、プラザ合意を受けて内需拡大に向かった日本経済が金融緩和政策を行って不動産投機が盛んになり、伊豆に別荘の乱立をもたらした頃に遡る。別荘の乱立は町に一軒しかないレストランを大いに賑わせた。ブルーサマリアの予約は一年先まで埋まっていた。「味は大したことないのにね」と当時を振り返って母が言った。だがおいしい話は長くは続かなかった。バブルが弾けると別荘は大量に売りに出された。客はいなくなった。バブルの崩壊など予期していなかった亭主は店を大改築していた。大量の債務が残った。弁済は滞り抵当権で縛られたレストランは強制売却された。どれも僕が生まれる前に起きた話だ。全てが一段落した頃に父は破格の値段で売りに出されたウッドハウスを発見した。すぐさま白樺で出来たこの家を一括購入した。兄も僕も喜んだ。だが母だけは違った。

「なんでこんな何にもない所にわざわざ別荘なんか買ったのよ」

母は夏が来て別荘に来るたびにそう言った。それでも僕は知っていた。母が実際にはこの別荘を嫌ってなどいないって事に。それどころか本当は夏を来るのを誰よりも楽しみにしていたって事。

母は別荘に着くとシルクのシャツの袖を捲ってまずキッチンに向かった。緑のスリッパを履いた右足の爪先を白樺のフローリングに立てて、くる、くる、と回転させながら。そして彼女しか知らない歌を歌ってパンの耳をリズムに合わせて切った。“トントントントン”そこに兄がマーガリンを塗っていた。爪先を立ててよく焼けた脚を目一杯伸ばしてそれでも見えないパンの表面に勘を頼りに塗りたくっていた。

僕は二人の様子を羨まし気に見つめていた。母は手際よくハムを切りレタスを切りその間に茹でていた卵の皮を素早く向いて次々にサンドイッチをバスケットに詰め込んだ。バスケットが一杯になるとマーガリンをどこかに投げて高らかに兄はこう言った。

「さあ、準備はできたよ。みんなでカブトムシを取りに出かけよう」

 正直僕はカブトムシに興味がなかった。図鑑で見ても心惹かれる事はなかったのだが、兄はカブトムシの素晴らしさを僕にその当時知っている限りの単語を駆使して説いてきたし、父も子供はカブトムシに夢中になるものだと僕を叱った。僕は父に叱られたくなかったし兄をがっかりさせたくなったからカブトムシが好きなふりをしていた。そして僕は虫籠と虫取り網を持って兄に続いて白樺の林の中を駆け回った。蚊に一杯刺された。スズメバチに追いかけまわされた。けれど僕たちはカブトムシを捕まえることが出来なかった。出会う事さえなかった。

 僕が兄の事を思い出そうとすると決まってカブトムシの事を思い出す。そしてカブトムシの事を思い出そうとすると母が作るサンドイッチの事を思い出す。母が作るサンドイッチの事を思い出そうとすると父の買った別荘を思い出す事になった。僕は記憶が褪せてしまいそうなとき伊豆まで電車で出かけた。そして別荘を眺めては消えゆく記憶と懸命に戦った。だが二年前に別荘は取り壊されてしまった。その三年前には兄が死んだ。その十二年前には母と父が僕たちの前から姿を消した。そして僕は今年で十九になる。


 2016年の4月に僕は大学生になった。初めての一人暮らし。キーケースには鍵が入っていて、それを触ると僕はとても嬉しい気持ちになった。そこには自分だけの部屋があって家具があって本がある。小説を書く為の部屋がある。しかし大学生活はあまり楽しいものではなかった。それは入学する前から分かっていた事なのでこれといってがっかりする事はなかった。僕が唯一望んでいた事は自分の内部のバランスを保つ事だった。僕の内部のバランスは事ある毎に崩れた。一度崩れるとそれを立て直すのに時間がかかった。僕の十代は何かにつけて崩れるそれを立て直している間に過ぎ去ろうとしていた。

 そんな僕にもちょっとした相手が出来た。大学の教室でたまたま席が隣になり、消しゴムの貸し借りをするうちに話すようになった、よくありがちな出会いから始まった関係だ。ありがちな関係はありがちな進み方をする。僕たちは一週間後にデートを、その一週間後にキスを、その一週間後にはセックスをした。しかしそれは恋人だとかそういう証めいた行動ではなくて流れるままに行った行動だった。少なくとも僕はそう感じていた。

その日も僕たちはなんとなくそういう雰囲気になったのでセックスをした。僕はその後のけだるい虚無感の中で午後の日差しに打たれてぼんやりと椅子に座って瞑想するようにじっと壁のシミを見つめていた。彼女は裸のままでベッドに横になり肩肘を付いて雑誌をぱらぱらとめくっていた。

「夏の伊豆なんかどう?」と唐突に彼女は言った。

「ああ」と僕は言って―言いながら頭の中で具合の悪い音を感じて―「いいんじゃないか」

「私、まだ一度も行ったことがないのよね、伊豆」

「伊豆」と僕は呟いた。内部では何かが高速で回転する音が聞こえ、すると僕の目の前には白樺の林やウッドハウスや海岸の突端や岩に砕ける高波とそれを掴もうとする一人の男の子が浮かび上がった。男の子は更に小さい男の子に服の裾を引っ張られていた。しかし何かきつい表情になって裾を掴む男の子を突き飛ばし、波を掴もうと更に先へと崖を進んだ。―突然、とてつもなく巨大な波が口を開き少年の頭を覆った。見上げると波が大口開けて少年を飲み込もうとしていた。「兄ちゃん」と小さな少年が叫んだ―と同時に目に飛沫がかかった。小さな少年は顔を伏せ目を擦った。そして顔を上げる―が兄の姿は見えなくなっていた。さっきまで兄が立っていた崖は黒く濡れていて波が噛んだ痕が残り、そこにはただ八月の光がチカチカと踊っているだけだった。

「ねえ、大丈夫」と声が聞こえた。その声はずっと聞こえていた。僕はそれを知っていたけれどたった今それが聞こえたように感じられた。

「酷い顔」と彼女はベッドの縁に座って僕を心配そうに見つめていた。ブロンドの巻き毛が後ろの窓から射し込む日差しに照らされて光っていた。逆光になっていて輪郭しか見えなかった。形の良い顔の肉は重力に反発するように上向いていた。盛り上がった頬の肉は常に笑っているみたいだった。ほっそりとした首にはティファニーのネックレスがかかっていて、それがチカチカと光線を放っていた。シルクのシャツを着ていた。とてもいいシルクで、色は白なのだが逆光のせいで黒っぽく見えた。腿の間に両手を放るようにだらんとさせていた。指にもティファニーのリングが二つつけられていた。そちらは鈍い輝きを放っていた。まるでずっと遠くにある星でも見ているみたいに。

「時々あるんだ」と僕はこめかみを掌でマッサージしながら言った。「何かの拍子に自分じゃないみたいな感覚に襲われて、そのままでいると自分が別の自分になってしまうみたいに感じてしまうんだ。それがとても怖いんだ」

彼女は何か言った。しかし僕には聞き取れなかった。もう一度彼女の言った言葉に耳を澄ませてみたが、彼女の口から二度と先ほどの言葉が発せられることはなかった。僕は椅子から立ち上がって彼女の横に座った。彼女は雑誌を僕の膝の上に乗せて言った。

「このペンション、凄く素敵でしょ。一泊五千円だって。泊まろうよ」

「伊豆か……」と僕は雑誌に向かって溜息を吐いて「城ケ崎海岸……」

「何?不満」と彼女は両手を広げて身体全体で疑問符を投げかけた。

「まさか。ただちょっと、昔色々あったから」

「知らないわ、そんなもの。昔の伊豆は今の伊豆じゃないわ。全く関係ないわよ」

 

 それから二か月経った八月の初めの月曜日、僕たちは伊豆に来ていた。電車を使って片道二時間半。たった二時間半で東京のど真ん中から静岡の山奥に来てしまった事に僕はちょっとした奇跡を感じた。僕がそれを伝えると彼女は興味なさそうに言った。「それがどうだって言うの?私なんか逆よ。なんで二時間半もかかるのよ?三十分で着きなさいよ」。僕は彼女のこういう発言に母を見た。そう、母は事ある毎に現状に文句を言っていたし何か僕が弱音を吐くとそれを打ち消した(それが愛情からだと知ったのは随分後になって、僕がよく本を読むようになってからの事だった)。彼女の言葉を聞くたびに母ならばこういう風に言うのだろうなと思い、そう思うと胸の奥でじんわりと生温かい血のようなものが広がってゆくのを感じた。

 駅を降りて僕らは広い“滑走路”を進んだ。左右には街路樹が並んでいた。幹に苔を沢山蓄え、ひんやりとした緑の影を交互に“滑走路”に落としていた。それがずっと目の見える先まで広がっていた。四辻の角に小さな郵便ポストが立っていた。その対角線には百合の花が咲いていた。彼女はそれを取って頭に乗せた。

「どう?」と彼女は微笑んだ。

「とてもよく似合っているよ」と僕は言った。

しばらく歩き、ブルーサマリアの角を曲がった。ペンションが見えた。周りには羊歯が生い茂っていてそのペンションの背後には白樺のちょっとした林があった。

「ここよ」と彼女は言った。トランクの“ゴロゴロ”という音があまりに聞きなれてしまったので聞こえなくなって初めて聞こえていた事を僕は意識した。そして掌に振動を感じなくなって初めて僕は振動を感じた。

「見ての通り、ペンションは白樺で出来ているの」と彼女は言った。

「いいペンションだ」と僕は言った。

 彼女は鍵を開けた。扉がギギギ、とゼンマイみたいな音を立てて開いた。木と埃の強い匂いがした。玄関を進むと右手に階段があった。正面にはリビングとキッチンがあり、リビングの先はポーチになっていた。ポーチには白樺の白いイスとテーブルと赤と青のパラソルがあった。パラソルは斜めにホルダーに収まっていて、もう何年も開いていないみたいに埃に覆われていた。ポーチの手すりの向こうは白樺の林だった。そこを抜けると海がある事を僕は知っていた。

「ここを抜けると海があるんだ」と僕は言った。

「へえ、そうなの?来た事あるの?」

「いや」と言いながら僕は戸惑った。そしてなぜ自分がそんな事を言ってしまったのかと考えた。「覚えていない。だけどなんとなく分かるんだ。もしかしたら来た事があるのかも。でも、上手く説明できないんだ。ひょっとしたら―」

「落ち着いて」と彼女は言った。「大した問題じゃないわ。海があろうがなかろうが」

「ああ、そうだね」と言って僕はこめかみを抑えながらペンションに戻った。

二階は仕切りのない大きな一つの空間だった。窓の傍に木のタンスがあって、その横にはベッドが二つ置かれていた。枕は真紅のカバーに金の房が付いていた。横になると身体の重みで一瞬沈み、反発するように浮き上がった。天井には斜めに窓が付けられていて、それがフローリングの上に街灯のようにほのかな明かりを送っていた。フローリングは歩くと軋むような音を立てた。強い風が吹くと部屋が揺れた。「この家、何か心配だな」と僕が言った。「なに、パラシュートでも抱えて眠る?」と彼女は僕を嘲った。鏡のついた扉がベランダと寝室を隔てていた。鏡は埃だらけでよく見えなかった。取っ手を掴んで引いてみた。固かった。

「貸して、こういうのにはコツがあるのよ」と彼女は色々な開け方を試みた。が駄目だった。「分かった」と言って彼女はしゃがんだ。しゃがむときにシャンプーのいい匂いがした。彼女はドアの隙間に手を引っかけるとそれを掴んで持ち上げた。ドアが上がった。

「なるほど、前後じゃなくて上下なんだ」と僕は言った。

「変わった建築家ね」と彼女は両手をパンパンと叩きながら言った。

ベランダには円形の大理石のテーブルと椅子が二つあった。白樺の枝が欄干を越えて迫ってきていた。林の方に目を向けると白樺の枝と枝の間から海が見えた。

「よかったわね」と彼女は言った。「ここを抜けると海よ」

 僕は欄干を握り、身を乗り出して海ではなく、林の中を眺めた。そして耳を澄ませるようにじっと林の中に見えるはずのものを探した。静かに、粘り強く、まるでウォーリーを探せでもしているみたいに。

目の右隅で羊歯が揺れるのが見えた。僕は素早く視線を移した。二人の少年が見えた。その少年達の身長には大分差があったが、年齢はたったの一つしか違わない事を僕は知っていた。僕は意識を絞るようにして少年達を見つめた。すると会話が聞こえて来た。

「ほら、こっちだよ。こっちにカブトムシがいるよ」とよく焼けた脚を青い半ズボンから覗かせた少年が言った。血色がよく、非常に腕白そうな様子が見受けられた。

「待ってよ兄ちゃん、僕、もう疲れたよ」と小柄で色白の少年が言った。少年は眼鏡をかけていて、どちらかというとインドア派の印象を受けた。時々後ろを振り返り、賢そうな眼差しを向けた。用心深く、思慮深い、一定以上の知能を持った人間のする眼差しだった。

「疲れただと?」と兄ちゃんは振り返り「朝飯を食べてこないからそうなるんだよ」と言った。そして弟の方へと歩いて行った。羊歯が左右に折れて、その茎から草の匂いがしてくるようだった。「ほら」と言って兄ちゃんは弟にバスケットから取り出したサンドイッチを渡した。

「ありがとう」と小さな声で言って弟は受け取った。

「歩きながら食べろよ」と兄ちゃんは言った。

「無理だよ。僕、喉に詰まっちゃうもん」

 兄ちゃんは弟を無視して先に歩き始めた。弟は急いで残りを口に入れ、兄の後を追った。二人は同じ服装をしていた。青い半ズボンに綿の白と青のストライプの入ったシャツを着て、同じように袖を肩の所までまくり上げていた。そこから斜めに虫かごをかけて、右手で虫取り網を持っていた。ただ一つ違うのは、兄が左手で持っていたバスケットが、弟の手には握られていないという事だった。更に決定的に違うのは体格と肌の色だった。兄の方は立派な体つきをしていた。背が高く、横幅もあり、がっしりしていて、その年にしてすでに貫禄があった。自信満々の顔にはいつも何かの理由で取っ組み合いになった喧嘩の痕がついていた。兄はそういう怪我をむしろ誇りにしているようで、ならず者が刺青を見せびらかすように顔の傷を周囲に見せびらかしていた。歩き方も一歩一歩大股で、目の前には何も壁なんてないんだ、と言った具合にずんずん羊歯をかき分けて進んで行った。弟の内部はそんな兄の真似をしようと必死にもがいていた。しかしそうはできずに苦しんでいた。学校で「あの問題児の弟か」と言われるたびに弟が恥ずかしがりながらもどこか誇らしげな気になっていた事を僕は知っていた。自分がテストで満点を取って褒められるよりも、兄みたいに0点で叱られる方に憧れた事を知っていた。でもそう出来なかった。そう出来ない事に一種の絶望をその少年が感じていることを僕は知っていた。まるで自分を見ているように知っていた。

 僕は更に目を絞って遠くを見つめた。二人は崖に出たようだった。

「見ろよ、海がある」と兄ちゃんが言った。

「危ないよ」と弟は言った。「僕は絶対に行かないからね」

「怖がることはないさ」

 兄はそのまま岩を歩いている。時々バランスを崩して手をついて、時々突風に打たれてよろめきながら。

 僕も行きたい、と弟は思った。僕も行きたい、と強く願うように思った。が怖くて脚がガタガタと震えて前に進まなかった。弟は必死に脚を抑えて震えを止めようとした。しかし脚は止まらなかった。どうして僕だけこんなに臆病なんだろう、と弟は意識の中でもがく。僕はその意識を思い出す事が出来る。思い出して、それを今、感じることが出来る。そして何かの叫びが聞こえて顔を上げると兄の姿がなかった。


“トントントントントン”

懐かしい音が聞こえて僕は微睡みの中から半分覚醒した。とても懐かしい音と、どこかで見た事ある風景。まるで昔の写真でも見ているみたいだ。一枚ずつページを捲る毎に僕の身体は静かに過去へと沈んでゆく。沈んでゆくのだけれども、自分が過去に戻るのではなく、過去を窓から見つめているような感じだ。そんな風に今僕は目の前で起きている事を見ている。

 キッチンで白い上着を肘の所まで捲った女性がハミングしながら料理を作っている。その横に小さな男の子がマーガリンをパンの表面に塗ろうとして脚を伸ばしている姿が映る。僕はその姿を見て心の平穏を取り戻す。しかしそれを人に言ってはいけない事を知っている。僕だけに見える姿なのだ。そして、それがいつかは砂のように消え去ってしまう事を知っている。この少年がいつ現れていつ消えるのか誰にもわからない。けれど確実にその少年は僕の前から姿を消す。だんだんと、気付かないくらい自然に、しかし確実に。だから僕は日が過ぎるのを怖く感じるし何か別の記憶で別の映像を創り上げてしまう事を恐れている。

「よし出来た」と彼女の喜びに染まった快活な声が聞こえた。そして踵を支点にしてクルッと回転した。目が合った。瞬間―男の子はスッ、と消えた。「大丈夫?」

「ああ」と僕は上体を起こした。

「あれから意識を失ってたんだよ」

「どれくらい?」

「三十分か、一時間」

「そっか」と僕は言って「なんか不思議な家だな」

「そう?」

「不思議なパワーがある家だ。まあ、君には分からないだろうけど。それでも、ここで君を見ているととても運命めいたものを感じる。君のその背丈とか、仕草とか、口調とか、外見とか、あらためて見てみるとそういうものが全て運命みたいだ」

「何馬鹿な事言ってるの?」と彼女はバスケットをテーブルに置いて「運命なんて存在しない。そういう言葉が似合うシチュエーションがあるだけ。要は解釈よ。いい?あるのは解釈。それだけ」

「君のそういうドライなところも、そっくりだ」

「誰と?」と彼女はその美しい顔を僕に近づけた。ほっそりとした顔に大きな目が埋まっていた。目はダイヤみたいに輝いていて、ヒヤシンスの色をしていた。その中で若さが光みたいに踊っているのが見えた。口元はいつも上がっていた。そういう口の形なのだ。胸は大きくもなく小さくもなかった。意識しないでも気づく大きさだが、それが性的魅力に直結するかと言われれれば、「ノー」だ。標準的な太さの脚は良く陽に焼けていて、普段スカートが多いのだろう、膝の上までしか焼けていなかった。彼女は髪をその形のいい耳にかけた。柔らかに波を打ったブロンドの髪は、動きの余韻で揺れていた。まるで夕日に映える薄みたいだった。囁くような声が雪みたいに降って来た。「昔の女を思い出したってわけ?」

「昔の女?まさか」と僕は顔を伏せて、微笑を浮かべながら「俺は女の子と付き合った事なんてないよ。これからも付き合う事はないだろう。友達だっていない。家族もいないんだ。俺は生涯孤独。それでいいんだ。俺は誰も求めていない。ただ静かに過ごしたいだけなんだ」

「そういう言い方、すっごく腹立つわ」と彼女は言って僕にクッションを投げつけた。顔に当たってゆっくりとフローリングの上に落ちた。「そういう言い方は人を不愉快にさせるわ」と彼女は繰り返した。

 僕は彼女がなぜ怒ったのか分からなかった。母がヒステリーを起こす時も同じだった。少し歳を食うと何故怒ったのか分かるのだけれども、その時は決して分からなかった。だから彼女の怒りも後になれば思い出して分かるのだろうと思った。そう思うと何故だか嬉しくなってきた。

「何笑ってるのよ」と彼女は腰に手を当て、腰のところで上体を九十度に曲げて僕を覗き込みながら言った。片側の眉毛が厳しい角度に上がっていた。

「いや、内部の事情さ」と僕は言って「君には関係ない」

「内部の事情?」と彼女は言った。「あなたってよく分からない事を時々言うわよね」

「でも後になって思い出すときっとその意味が分かるんだ。そういうもんさ」

 

 それから僕達はバスケットと水筒を持って白樺の林を抜けて海に出かけた。彼女は僕の前を歩いていて、僕は彼女の靴が踏む羊歯の匂いとか、反射するブローチの明かりだとかまではっきりと彼女の姿を捉えることが出来た。しかし彼女から僕は逆光となっていた。

「こうして見るとあなたが誰なのか分からないわ」と彼女は額に手を当ててコンタクトを付け忘れた人が遠くを見る時のような顔をして言った。「なんだかあなたは孝之に見えるわ。孝之って呼んでいい?」

「分からないな、俺は真だ。孝之じゃない」

「いいじゃない、今だけ、陽が昇ってこの逆光が変化するまでの間」

「俺は―」

「でも、あなただって、私の中に私じゃない『何か』を発見して、懐かしく思ったり、愛おしく思う時があるでしょう?それが私じゃないにしても。そして『何か』を愛でる事は、同時に私を愛でる事にもなる。そのうちにどっちがどっちだか分からなくなる。私達はやがて気づくの。『何か』なんてないんだって。みんな部分なんだって。真も孝之も、みんな部分なの。だから完全な真なんて存在しないの。完全な孝之も存在しない。人間は補い合っていて、ある場面になると真になったり孝之になったりするの。だから私は今あなたを孝之って呼ぶ。でもそれは真実なの。だってこの瞬間、私の前に立っているのは孝之だから。ね、孝之」

 僕は何か言い返そうと思った。しかしそうはせずにうな垂れて両肩の間に顔を落として左右に振った。お構いなしといった様子で彼女はとっとと前に進んで行ってしまった。よく焼けた脚が黒い影みたいに白い幹の間をすすす、と動いていた。僕は言いようのない不安に駆られてその影を追いかけた。追いかける時間が長くなった。林はどこまでも続いているようだった。僕はだんだんと自分が成長してきて強く、固くなってきた部分が剥がれてゆき、産まれたままの、何も補強されていない、弱い、正直な自分に戻って行くのを感じた。

「初めはね、なんとなく似てるな、って思った」と影は言った

「何が?」と僕は言ったが、自分でも不思議なくらい焦って怯えた声だった。まるでこのまま自分の存在が消えてしまうみたいに。

「孝之と真」と影は言って「仕草、髪型、体格、声、考え方、控えめなとことか……全部そっくり」

「僕は―俺は―僕だよ―俺だ―」

「それで孝之の事―真の事―もっと知りたいって思った。でも、一緒に食事したり、出かけたりすると、あれ、違うなって思った。そもそも同じはずないんだよね。でも今日ここに来て、やっぱり同じ。同じというか、真の中に孝之がいて、孝之の中に真がいたの。だから私、ずっと前からあなたを知ってた。あなたもそうなんじゃなくて?」

「僕は―俺は―」と僕は言って、そして急に胸の奥が詰まって、息が出来なくなった。蹲って地面に膝を付けた。白樺の幹に額が当たった。強く当たったので、葉がひらひらと肩に落ちて来た。ふと蝉が鳴いた。それに今初めて気づいた。鴉がバサッと飛び、羽が僕の斜め後ろに落ちた。声が聞こえた。

「早く来いよ」

 僕は膝に手をついて歩き出した。木漏れ日で暗かった林を抜けると一気に八月の陽光が視界に飛び込んだ。一瞬雪景色でも見ているみたいに真っ白になって、一拍後、岸壁と海が見えた。潮騒が重く低く轟いていた。

「こっちだ」

 声がして僕は駆けた。自分の両手が自由な事に気付きバスケットと水筒はどこに置きいてきたのかなと考えた。考えながら僕は目の前の崖を上った。風が強くなり髪が翻り額に耳に直に風を受け、やがて風は声に混濁し「来いよ、来いよ」と声は激しい叫びに変わった。僕は崖の突端に立った。本能的な緊張を背筋に感じて足が止まった。

「ダメ」と背後から別の声が聞こえた。

「来いよ」と崖の下の渦の中からもうひとつの強くひたむきな、ずっと長い間耳朶に響いていた声が言った。僕は天からぶら下がった糸に宙づりにされているみたいにその場に佇んでいた。

「来いよ、ほら、カブトムシがこっちにいるんだ。この崖の下の渦の中に、カブトムシがさ。カブトムシがここにいたなんてな、通りで白樺の林じゃ見つからねえわけだ。だがな俺は今カブトムシを見つけたんだ。お前に分けてやってもいい。クワガタだっている。だから来いよ。早く来い。ん?お前サンドイッチはどうした?俺は腹減ってんだ。あれから何にも食ってねえからな。おい、サンドイッチ持って来いよ。早くしろ」

 ふいに―ふいにとても強い突風が吹いた。まるで拳で思いっきり殴られたみたいに僕は吹っ飛んだ。そして崖の上に尻もちついてその後方に両掌を突いた。

「孝之―真―何やってんの。危ないじゃない」

 僕は声の方を振り返った。逆光でよく見えなかった。確かめようと彼女に近寄り手を伸ばして首に手をかけた。そしてそのまま不思議な力に誘導されるように彼女を引き寄せてキスをした。彼女は口の中で何か言葉を言ったけれど聞こえなかった。白樺林の向こうに四人家族が見えた。家族は僕をじっと見つめていた。僕は彼女の唇の柔らかさを感じながら彼らから視線を逸らさずにじっと見つめ返していた。何の予兆もなく突然一人の少年が林の向こうに向かって駆けだした。それを追うようにもう一人の少年も駆けだした。視線を戻すと三十代中盤の夫婦の姿はなくなっていた。彼女に視線を戻した。太陽が右側から射していた。彼女の顔がはっきりと見えた。一度捉えてしまうと最早他のものは何も見えなくなった。

 彼女は僕の名前を呼んだ。そう、僕の名前、僕は―。

                  終




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