はじめてぼくが死んだ夜
ぼくは死んだ。
冷たい粉雪がこの町のアスファルトをうっすらと覆う、そんな夜だった。
おしまい。
なんてね。
おっと、ご安心を。
ぼくたちの“死”は君たち人間とは少し違っている。なんてったって “猫”は九つの魂を持っているのだ。
平均して十年も生きれば長い方であろうぼくらの寿命。それが九回、繰り返されるというわけである。ま、こっちとしてはたまったもんじゃないけど。
よって、ぼくらの世界では“何度目の生まれ変わりか?”によって先輩後輩が決まる。だから見た目は子猫なのに大先輩であるとか老猫なのに実は若輩者、などといった現象も日常茶飯事なのだ。
とにかく、ぼくは死んだ。
あれは一度目の、ぼくにとって初めての死だった。
「ミリィ! ミリィ……」
ぼくはその時ミリィという名の真っ白なメス猫だった。
「死なないでよぉ、ミリィ」
そう言って顔をすり寄せてくるのはチビの泣き虫、竜太だ。小学一年生だが、名目上はぼくの御主人様になる。
「どうせ、すぐまた生まれ変わるんだから泣くなよ、リュウ」
ぼくはそう言ったつもりだったがもはやかすれて声が出ない。
「もっともまたリュウに会えるかどうかはわかんないけどな」
死なんていつもよりちょっとだけ長く眠るようなもんだからちっとも怖くない。ただ、相手が悲しんでいるのが涙や鼻水を通して伝わってくるだけだ。
──汚ねえなぁ。ベトベトじゃないか、まったく……。
それが、ぼくにとって最後の、いや、最初の死の記憶だった。
二度目の死はあっという間にやってきた。
死産だったのだ。
今回ぼくは名前をつけられることもなく、外の空気に触れるとものの数分で息を引き取ることになった。どうせすぐ死んじゃうんなら、生まれなきゃいいのに。
──めんどくさいな。
なんだか一回分の“生”を無駄にしたような気分だ。
それでもそのわずか数分の、ぼくが誕生してから息を引き取るまでのほんの短い間、母猫はずっとぼくの体中を舐め続けていてくれた。
なんだかくすぐったくて、あったかいや。
ぼくがすぐに死んでしまうことを母猫が察知しているのかそうでないのかはわからない。
たとえそれをわかっていたとしても母はぼくが死んでしまう哀しさよりも産まれてきてくれた喜びの方が遥かに大きいのだということを体中で伝えようとしているように思えた。
そしてそれは言葉や表現の垣根を越え、ぼくがぼくを形成するための中枢部へとダイレクトに到達するのだ。
やがてすぅと目の前が真っ白になっていく。もといた場所に戻っていく瞬間は前回の死とまるきり同じで、それはまるでこの世界を司る指揮者からの合図のように感じた。
その一秒を微塵切りにしてもまだまだ足りないほどの小さな小さな時間の中でぼくは『いったい何のため生まれて、死ぬんだろ?』と少しだけ考えたのを覚えている。
三度目は今までとはちょっと違っていた。
ぼくは“鉄棒をする猫”として有名になったヒマラヤンだった。
横にした二本の鉄棒を脇に挟み、前へ進むだけのことだったが、猫としては珍しいらしく、テレビやCMに引っ張りだこになった。
それによって御主人様にまとまった大金が転がり込み急にぼくらの暮らしは裕福になった。そしてぼくといえば今まで見たこともないようなものを食べたり、ぴかぴかの風呂に入ったりと贅沢を満喫した。
そしてその時初めてぼくは『死にたくない』という感情が芽生えたのだ。そりゃ例え死んだとしても、あと六回は生まれ変われるさ。だがどんな境遇で? どんな姿形で?
どれだけ高く理想を見積もってみても所詮は猫なのだからとても今以上の暮らしが約束されることなどあるはずもない。
だが、呑気にそんな気苦労ができたのも束の間だった。やがて我が御主人様が慣れないギャンブルや株に手を出したのが運の尽き、気が付けばもとの生活、いや、もといた生活よりも貧しくなってしまっていた。
そして今回、ぼくの三回目の生涯は借金取りの足で壁に蹴りつけられて終わるはめになったわけだ。
その死には涙も、そしてあったかさもなかった。
そして四回目の生。
驚くべきことが起こった。今回、ぼくは初っぱなから財閥のお屋敷で誕生することができたのだ。
ラッキーだ!
助かった!
そんな思いでぼくが神様に感謝したか?
それは否である。
ぼくは自らの目が開くまで母猫の胸の中でじっと考えをまとめた。たった数分でも温かい死があった。他人が泣いてくれる死もあれば、なにひとつ感じぬ虚しい死もあった。
なるほど、死ぬことにおいても、それはそれはいろんな死に方があるのだなと実感する。そして見出したぼくの結論とは歩けるようになったら、すぐにでもこの邸を飛び出そうという思いだった。
決行当日といえば、安定した暮らしを失う怖さが鉛のようにのしかかってもきたわけだが、失うことと自らの意志で切り捨てることはまるで意味が違うのだと自分に言い聞かせて走り出すしかなかった。
やがて──焼きたてのソーセージのようなぼくの薄茶色の毛並みは雨や泥にまみれ、爪の先といえばロープの切り口のように毛羽立ち、今のねぐらに辿り着く頃にはすっかり薄汚い一匹の野良猫が完成していた。
ぼくは考えるネコである。だけどこれでよかったのかどうか考えることはない。だって、まだまだあと三回も四回も生まれ変わっていかなければならないのだから。感傷に浸るにはまだ早すぎるし、不感症に至るにもまだ早い──
ぼくがそんなことを思いながら後ろ脚で耳の裏を掻いていた時のことだ。
『油断した!』と思った時はすでに遅し、いつの間にかぼくの尻尾は誰かの手によってむんずと掴まれていたのだ。驚きのあまり必死に抵抗してなんとか飛び退いたが、そこにいたのはキャッキャと無邪気に笑う小さな子供だった。
すぐに父親らしき人間が「コラコラ、ダメだろ引っ掻かれるぞ」と駆け寄ってきた。まったくだ。危うく引っ掻くとこだった。女子供に爪を上げるのはぼくの美意識に反する。
だというのにまったくこの子供ときたら、今度はぼくの首根っこを無造作につかみ「飼って飼って、このネコさん飼って!」と駄々をこね始めやがった。
──とんでもない!
ぼくはジタバタと暴れた。
「ダメダメ、うちは団地だからな。ホラ、な、猫さんも嫌がってるだろ」
いいぞ、ガンバレ、父親。
息子を抱き上げようとその父親が近くに寄ってきた時だった。ぼくはふと懐かしい匂いを嗅ぎとったのだ。
(──汚ねえなあ。ベトベトじゃないか、まったく……)
リュウだ。
間違いない。姿は変われどこの父親の匂いは間違いなくリュウだ。
「ほら、おまえもあっちいけ。しっ、ほら、しっしっ!」
子供は父親に抱きかかえられると今度は手のひらを返したように別のものにすぐ興味を奪われたようだ。空から白いものが降り始めている。
「雪!」
笑える。
あの、チビで泣き虫の竜太が父親に。
“死なないで!”と訴えていたリュウがぼくを“しっしっ!”と追い払っている。
ぼくは一声だけにゃあと鳴いた。人間にはわからない言葉だし、そのとき何と言ったかなんてぼくだって覚えてない。
父子はもう振り返らなかった。
ぼくは逞しく成長したリュウの背中をしばらく見つめていたが、また歩き出した。
ふん──
飼われるなんてこっちから願い下げだね。もうガキの鼻水にまみれるなんてのは二度とごめんだ。
雪はもうすぐ東京のアスファルトをうっすらと覆うだろう。
ぼくが初めて死んだあの夜のように。
今度の生涯はいつどこでどんな風に終わるのか。
それはぼくもまだ知らない。