決意
「事実は何ですか?」
「事実……?」
ミナセの涙が止まる。言われた意味が分からずに、思考も止まってしまった。
そんなミナセに、今度はマークがゆっくりと話し始めた。
「人はね、自分が反応した出来事しか記憶しないんじゃないかって、俺は思ってるんです」
ミナセは無言。
構わずマークは続けた。
「楽しいとか悲しいとか、役に立ちそうだとか邪魔だとか、自分が反応した出来事だけを記憶する。つまりね、記憶される事実には、必ずその時の反応がくっついているんです。事実と反応は混ざり合い、一体となって記憶される」
突然始まった話にミナセは戸惑っていた。明らかに追い付いていないミナセを少し待つように、マークが間を空ける。
そのマークが、空を見上げた。そして、また話し始める。
「ある事実に対する反応は、人それぞれです。今日は晴れている。これをいい天気だと思うか、日焼けを誘ういやな天気だと思うかは、人によって違います。事実は一つでも、記憶の中身は別物になる訳です。そしてね、これが重要なんですけど」
そう言って、マークはミナセを見た。
ミナセを見て、真剣にマークが言った。
「人はね、事実への反応を変えてあげるだけで、その出来事を、まるで違うものにしてしまうことができるんです。過去の出来事でさえも、そこに新しい解釈を与えることで、正反対の出来事にしてしまうことだってできるんです」
「正反対の、出来事?」
ミナセは繰り返す。
マークの言葉を、マークを見ながら繰り返した。
「思い出してください。その子の表情と、その子の声を」
マークが言った。
「切り分けてください。事実と、ミナセさんの反応を」
強くマークが言った。
「その子は怒っていましたか?」
ミナセは見つめた。
「その子は、泣いていましたか?」
自分に語り掛けるマークを、ミナセは黙って見つめていた。
やがてミナセが目を閉じる。目を閉じて、クレアの記憶を辿る。
マークが続けた。
「ミナセさんをお姉ちゃんと呼んで、ベッドに潜り込んできた」
甦るクレアの表情。
「ミナセさんの頭を一生懸命撫でてくれた」
甦るクレアの声。
「ミナセさんと一緒に歩いて、ミナセさんと一緒にコロッケを食べた」
ミナセは思い出す。クレアと過ごした時間。
ミナセは思い出した。クレアの、嬉しそうな笑顔。
「その子が望むことを、ミナセさんはできていなかったかもしれない。その子にとって一番いい選択を、ミナセさんはできていなかったかもしれない。でもね」
マークの声が、和らいだ。
「最期の瞬間、ミナセさんに抱かれていたその子が、ミナセさんを恨んでいたとはとても思えません」
ミナセが目を開けた。
「その子がミナセさんに感謝をしていたと解釈したって、誰も文句は言わないと思いますよ」
マークがミナセを見つめている。
ミナセの瞳に涙が溢れていく。
「事実はね、得になるように解釈する方がいいんです。それは、都合のいいように解釈するってことじゃあない」
マークが語る。
「ミナセさんが前を向けるように、ミナセさんが成長できるように解釈するっていうことなんです」
ミナセが聞く。
「今回の出来事は、一生ミナセさんの心に残り続けることでしょう。時が経って、記憶や感情が薄れていったとしても、ふとした拍子にその子のことを思い出してしまうんだと思います」
ミナセが頷いた。
きっとそうだ。私は、クレアのことを決して忘れない。
「だからこそ」
マークが言った。
「今回のことから逃げず、その子から逃げず、それに向き合ってほしいと、俺は思います」
真っ直ぐにミナセを見つめて言った。
「その過程が、そのすべての経験が、糧となってミナセさんを成長させるのですから」
そう言ってマークが微笑む。
そして、きれいな空を見上げた。
「いつの日か、今回の出来事が、ミナセさんにとって得になるように解釈ができるといいですね」
涙を拭いて、ミナセも一緒に空を見上げた。
見上げてミナセは思った。
いい天気だな
そう思った自分に自分で驚く。
青空に浮かぶ白い雲。暖かな日差しと穏やかな風。
「いい天気、ですね」
ミナセは、口に出してみた。
何だか気持ちが軽くなったような気がした。
声を聞いて、マークがミナセを見る。
ミナセもマークを見た。
マークの、優しくて暖かな微笑み。
その微笑みに、ふと、忘れ掛けていたもう一つの微笑みが重なった。
「いやなことから逃げず、人から逃げず、それに向き合いなさい。そのすべての経験が、糧となってお前を成長させるのだから」
懐かしい声。
優しいまなざし。
暖かな手のひら。
それは、故郷にいた頃の記憶。大好きだった人の記憶。
ミナセの記憶が、さらに時間を遡る。
ランプの灯火に揺れる影。
母の言葉と、その微笑み。
父の言葉と、その微笑み。
幼い胸に刻まれた、一生忘れることのないであろう光景。
悲しい出来事のはずなのに、それはとても穏やかで、とても厳かな光景に見えた。
そうか、私は……
ミナセは気が付いた。
唐突に、何の前触れもなく、ミナセの心に答えが落ちてきた。
ミナセが傍らの愛刀を握り締める。
そして。
「社長!」
突然大きな声を上げて、ミナセが立ち上がった。
「はいっ!?」
びっくりして、マークも大きな声を上げる。近くにいた人たちが何事かと振り向いた。
「私は未熟でした。人としてあまりに未熟でした。それに、今気が付きました」
驚いているマークにも、周りの視線にも構うことなくミナセが言った。マークを見つめるその顔は、真剣そのものだ。
「今の私に悩みなんて解決できない。過去を清算することなんて、今の私には絶対にできない」
顔を上気させ、何かに突き動かされるようにミナセが語る。
「私、分かったんです。私に必要なのは、剣の修行なんかじゃない。今の私に必要なのは」
そこまで言って、ミナセが止まった。
ミナセがマークを見つめる。
強くマークを見つめる。
「お願いがあります!」
ミナセが愛刀を両手で握った。
それを、捧げるようにマークに差し出す。
「これは、父と母の形見です。これを預かっていただけないでしょうか」
マークが目を見開いた。
「とてもよい刀です。何度も私の命を救ってくれました。でも、今の私にはふさわしくありません。今の私では、この刀を使いこなすことなんてできないんです」
ミナセが言う。
「私は未熟です」
愛刀を握り締める。
「人として、もっと修行を積まなければいけないと思うんです」
マークの目を見る。
「ここでなら、この会社でなら成長していけると思うんです」
そして言った。
「改めてお願いします。これからもこの会社で、社長のもとで、修行をさせてください!」
言い切った。
愛刀を差し出したまま、深く頭を下げ、束ねた髪を揺らして言い切った。
あまりに突然。
あまりに一方的。
でも、ミナセは思ったのだ。
自分が追い掛けるべき背中はここにあった。
ミナセは確信していた。
自分を導いてくれる光は、私の目の前にある。
だから言った。
自分の決意を、自分の願いをマークに伝えた。
マークは何も言わない。
急にそんなことを言われて戸惑っているのだろうか?
急にそんなことを言われて呆れているのだろうか?
ミナセは待つ。
マークの返事を、頭を下げたまま、愛刀を掲げたままでじっと待った。
沈黙、のち。
「何を言っているのか分かりませんね」
静かな声と共に、マークが立ち上がる。
ミナセの肩が、ビクッと震えた。
その肩を、マークが掴む。
そして。
「当たり前じゃないですか! ガンガン仕事をしてガンガン成長して、一日も早く会社のエースになってもらわなきゃ困ります!」
力強い言葉が響く。
「何たって、ミナセさんはうちの自慢の社員なんですから」
肩を掴むマークの手が暖かい。
暖かくて、大きな手のひら。
「いろいろ苦労させると思いますが、これからも、よろしくお願いします」
「はい……。よろしく、お願いします」
ミナセは答えた。答えてミナセが顔を上げる。
目の前のマークは、やっぱり笑っていた。
ミナセは感じる。不思議な気持ち。よく分からない気持ち。
こんな気持ちは久し振りのような気がした。
こんな気持ちは、初めてのような気がした。
でもそれは、とても心地よい気持ちだった。
だからミナセも笑った。
旅に出てから初めての、心からの笑顔で、ミナセはマークを見つめていた。
エム商会一人目の社員、黒髪のミナセ。
その人生を大きく変える第一歩を、ミナセは今、踏み出した。
「本当にそんなことがあるのか?」
「酒場にいた冒険者の話が事実なら、可能性はあると思います」
部屋の鍵を開けながら、衛兵が後ろの男に話し掛ける。
「まあ、手掛かりが何もないからな。解決の糸口になるんだったら、我々としては助かるんだが」
そう言って、衛兵が部屋の奥へと歩いていく。部屋の中にはたくさんの棚が設置されていて、ラベルの貼られた大小様々な物が雑然と置かれていた。
その中から、衛兵が一つの箱を取り上げた。
「これが、その魔石だ」
ふたを開けて、男に中身を見せる。
男が、それをじっと見つめた。
「手に取っても?」
「ああ」
許可をもらった男は、とても慎重に、両手でそっと、箱から魔石を取り出した。それをまたじっと見つめる。
その目が、優しく微笑んだような気がした。
その時。
ドン!
突然部屋の扉が音を立てる。
「何だ!?」
驚いた衛兵が扉を振り返った。
だが、扉はそれ以上音を立てることもなく、静かにそこにあるのみだ。
「荷物でもぶつけたのか? まったくもう」
ブツブツ言いながら、衛兵が視線を戻す。
その衛兵に、男が申し訳なさそうに言った。
「すみません、どうやら違ったようです。私の知っている魔石の特徴が見られません」
男が、箱に魔石を戻す。
「そうか、残念だ」
「すみませんでした」
もう一度謝って、男は丁寧に頭を下げた。
「仕方がないよ。ほかに何か思い付いたら、いつでも来てくれ」
「分かりました」
穏やかに笑って、男は部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、衛兵がつぶやいた。
「魔石に人の魂を移し替えるなんて、できっこないさ」
建物を出た男は、大股で歩き出した。休むことなく歩き続けて、そのままアルミナの町を出る。人影がまばらになったところで、男はさりげなく街道を外れて森の中へと入っていった。
そこにある倒木に腰掛けて、ポケットにそっと手を入れる。
「予備の魔石を持ってきて正解だったよ」
つぶやきながら、右手で慎重に、魔石を取り出した。
「お姉さんの村に行ったのかと思ったら、まるで違う方角に向かっていたなんて」
その目が優しく微笑んでいる。
「まったく、きみは世話が焼けるね」
男が、両手でそっと魔石を包みこんだ。しばらくの間、そのまま黙って目を閉じる。
やがて。
「そうか。いい人に出会えたんだね」
嬉しそうに男が笑った。
「ミナセさんか。また会えるといいね」
愛おしそうに魔石を撫でる。
「大丈夫だよ。ちょっと時間は掛かるけど、体はちゃんと元に戻してあげるから」
そう言って、男は鞄から箱を取り出すと、そこに魔石を丁寧に納めた。ふたをしっかりと閉め、鞄にそっとそれを戻して、ゆっくりと立ち上がる。
そして。
「みんな。すまないが、僕たちを家まで送っておくれ」
誰もいないはずの森に語り掛けた。直後、その体がふわりと宙に浮き上がる。
鞄をしっかりと抱え、微笑みながら、男が言った。
「さあ、うちに帰ろう、クレア」
穏やかな表情のまま、男は上昇を続ける。
オレンジ色に染まり始めたきれいな空を、南東に向かって、男は静かに飛び去っていった。
第一章完結です。お読みいただいた皆様、ありがとうございました。
異世界物なんだけど、ちょっと変わったものが書いてみたい。そんな野望を抱いて書き始めたのがこの作品です。お約束のシーンやストーリーをなるべく避けて、独自路線を歩むことを目指しています。ただキャラクターの設定は……お約束が多いかもしれません。
そんな作品の第一章は、読者の皆様にどう映ったでしょうか?
この章のメインキャラクター、ミナセは、一番の先輩社員として今後も何かと活躍します。そのミナセも、章を重ねるごとに少しずつ成長していきます。それは、これから入社してくる社員たちも同じです。
レベルとかスキルとかではない、キャラクターたちの成長や変化をお楽しみいただけたらと思います。
次章もよろしくお願いいたします。




