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異世界の乙女たちは、社長と一緒に笑っていたい  作者: まあく
第一章 黒い瞳と黒い髪
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クレア

 太陽が沈み始めていた。二人のいる公園に子供の姿はなく、足早に通り抜けていく人が何人かいるだけだ。

 その視線が、クレアに注がれる。それは、間違いなく好意的なものではなかった。


「とりあえず、私の宿に行こう。今夜はそこで眠るといい」


 ミナセは、立ち上がってクレアの手を取った。事情を聞くのは落ち着いてからの方がいい。ミナセはそう判断していた。

 ミナセをちらりと見上げたクレアが、うつむく。


「どうした?」

「……何でもない」


 ミナセの問いに、クレアはそう答えた。

 何かあるとは思ったが、それも合わせて後で聞くことにして、ミナセは歩き出す。クレアに合わせてゆっくりと歩く。

 クレアは、おとなしく手を引かれてミナセについていった。


 通りを歩く二人に、帰宅途中の職人が怪訝な顔を向ける。買い物かごを下げた主婦が、眉間にしわを寄せて立ち止まる。

 いたたまれなくなったミナセが、とある店の看板を見ながらつぶやいた。


「とりあえず、服だな」


 ミナセは、閉店準備をしていた服屋に飛び込んで、最初に目に留まった子供用のワンピースを買った。

 金額を言われて驚くが、クレアを見る店主の視線が気になって、別のものを選び直そうという気は起きなかった。

 本当は靴も買った方がいいと思ったのだが、服と違ってボロボロさがそれほど目立たない。

 それに。


 お金がない


 給料日まであと何日だろうか。

 そんなことを考えながら店を出る。その場で着替えさせる訳にもいかないので、クレアがついてこられる程度に足を早めて、とにかくミナセは宿屋へと向かった。そして、正面ではなく裏手に回り、勝手口から中に声を掛ける。


「すみません、お世話になっているミナセです。ちょっと井戸をお借りしてもいいでしょうか?」

「どうぞ」


 主人の許可をもらったミナセは、クレアを井戸に連れて行った。


「顔と、手を洗うんだ。そうしたら、着替えて中に入ろう」

「うん」


 クレアは、ここでもおとなしく従った。

 バシャバシャと手を洗い、バシャバシャと顔を洗う。


 すでに太陽は沈んでいて、見上げれば空に星が瞬いている。明かりのない井戸端はかなり暗くて、ちゃんときれいになったか確かめることはできなかったが、少なくとも多少はましになったはずだ。

 ハンカチで手と顔を拭いてあげて、ミナセが言う。


「じゃあ、服を脱いで」

「……うん」


 少し躊躇った後、クレアはゴソゴソと服を脱いだ。

 下着一枚になったクレアの体が、暗がりに青白く浮かび上がる。


「?」


 ミナセは、クレアの体に何かを見たような気がした。だが、それは一瞬。

 新しいワンピースを頭から被って、クレアが言う。


「お洋服、ありがとう」

「ああ、気にするな」


 軽く答えて、ミナセはクレアが脱いだ服をつまみ上げる。


「この洋服は、捨ててもいいか?」

「……うん」


 少し残念そうにクレアが答えたが、洗ってきれいにしたところで、さすがにこれをまた着させる訳にはいかなかった。


「すまないな」


 そう言って、ミナセはボロボロの服を丸め、そこにあったゴミ箱に入れようとして……やめた。

 捨てることをやめた訳ではない。クレアの目の前でこれを捨てるのはやめよう。そう思っただけだ。

 剣の修行に明け暮れ、強くなることだけを求めてきたミナセが、今は少しだけ優しい気持ちになっていた。


 追加料金は払うからと主人に言って、ミナセはクレアを部屋に連れて行った。


「お腹空いてるだろ? 飲み物と、適当に食べ物を持ってくるからちょっと待っててくれ」


 宿屋の食堂はいつも混んでいる。落ち着いて話ができる環境ではない。部屋で食事をしながら話をしようとミナセは思っていた。

 しかし。


「お腹、空いてない」


 クレアが、うつむいて言った。


 体調が悪いのか?

 それとも、まだ緊張しているのだろうか?


「そうか。じゃあ、私も食事は後にしよう」


 健康なミナセにとって、夕食抜きは結構きつい。だが、今は我慢だ。

 ミナセは、食堂で水だけをもらってきて、お腹が鳴らない程度に少しずつ飲みながら質問を始めた。


「クレアは、どこから来たんだ?」

「お山の向こう」

「エルドアってこと?」

「……分からない」


 最初に出会った時の質問でも、クレアは南にある山を指さした。山の向こうはエルドア王国だ。

 あの山と森を越えて来たとは考えにくかったが、クレアの答えは一貫している。


「一人で来たのか」

「うん」


 これも、最初の時と答えは同じ。


「クレアは何才なんだ?」

「……分からない」


 ちょっと驚いたミナセは、それでも質問を続けた。


「ご家族はいないのか?」

「家族?」

「お父さんとかお母さんとか、兄弟とか」

「……分からない」


 ミナセは黙り込んだ。

 よほど特殊な環境で育ったのか、それとも記憶が……。


「でも」


 クレアが言った。


「お姉ちゃんは、いたと思う」

「お姉ちゃん?」

「うん」


 クレアの顔は、少し嬉しそうだ。仲のいい姉か、姉のような存在がいたということなのだろう。

 いたと思う、とは曖昧な答えだが、クレアのことを知る手掛かりにはなるかもしれない。


「ところで、私と初めて会ったあの時、なんであの場所にじっとしていなかったんだ?」


 ミナセが商隊を助けてクレアの元に戻ってくるまでに、それほど長くは掛からなかったはずだ。


 せっかくパンをもらってきたのに……


 ミナセの表情が、少し固くなった。恥ずかしい出来事を思い出して、それをごまかそうと無表情になる。

 それに反応してか、クレアが下を向いてしまった。そして、小さな声で、申し訳なさそうに答えた。


「顔が、怖かったから」

「……そうか」


 ミナセが顔をしかめる。

 クレアに声を掛けた時、ミナセは焦っていた。意識の半分は魔物の群の動向に向いていた。

 突然現れたミナセのその表情は、子供を怯えさせるのに十分だったに違いない。


「それにしても」


 気を取り直して、ミナセが続ける。


「最初に会ったあの場所から、この町までどうやって来たんだ? 結構距離があると思うけど」


 ミナセがクレアと出会ったのは、イルカナ南東の国境近く。ここアルミナの町からはだいぶ離れている。そして何より、あれからずいぶんと日が経っていた。


 この子は、その間どうやって生きてきたのか?

 この子は、あそこからどうやって町に辿り着いたのか?


 クレアが黙り込んだ。

 うつむいたまま、視線が落ち着きなく辺りをさまよっている。何かを迷っているようだった。


「あのね」


 やがて、クレアが口を開く。


「ケガが、治らなくなっちゃったの」

「ケガが、治らなくなった?」

「うん」


 意味が分からなかった。

 少し考えてから、ミナセが聞いた。


「どこをケガしたんだ?」

「足の裏」

「見せてみろ」


 ミナセが、イスから下りてしゃがみ込む。

 その目の前で、クレアが靴を脱ぐ。

 そしてクレアは、それをミナセに見せた。


「これは!?」


 無意識だった。

 無意識にミナセは叫んでいた。


 クレアの右の、足の裏。そこには、何かが突き刺さったような傷があった。靴に開いた穴はそう大きくない。鋭い木の棘か何かを踏んだのだろう。


 だが、その傷は足の甲まで完全に貫通していた。


 傷口がふさがっている訳ではない。治り掛けということでもなかった。

 それなのに、その傷口からは血が一滴もこぼれていない。血が固まった痕もなければ、化膿してもいない。


「痛くないのか?」


 青ざめた顔でミナセが聞く。


「痛くない」


 平然とクレアが答える。


 ミナセは、クレアと出会った時から気付いていた。

 クレアの魔力が、普通の人間よりも強いこと。

 そして、その流れが普通の人間と違うこと。


「あのね、私、ケガしても、すぐに治っちゃうの。でもね、このケガはぜんぜん治ってくれなくて」


 自分の足を見ながらクレアが話す。


「それでね、ケガを治してもらおうと思って、先生を探したの」

「先生?」

「うん」


 クレアの話では、クレアはずっと、その”先生”と一緒に暮らしていたらしい。窓のない部屋をあてがわれ、時々先生に呼ばれては”実験”をさせられていた。

 その家には、ほかに人はいなかった。クレアが話をするのは先生だけだった。


 昔のことをほとんど覚えていないクレアにとって、先生とその家がすべて。

 そんなクレアにも、かすかに残る記憶があった。


 お姉ちゃんと一緒にご飯を食べたこと。

 お姉ちゃんと一緒に、一つのベッドで眠ったこと。


 それは、断片的で不確かな記憶。

 それは、暖かくて懐かしい記憶。


 クレアにとって唯一の楽しい思い出。

 クレアにとって唯一の、心の拠り所。


 先生からは、きつく言われていた。


「この家から絶対に離れないこと。ここでしか、きみの体は維持できないのだから」


 意味はよく分からなかった。だが、クレアはそれに従った。

 拘束されている訳ではなかったので、家の外にも時々出てみたことはあったが、クレアがそこを離れることはなかった。


 だけど。

 ふと甦るお姉ちゃんの記憶が、クレアに決断をさせる。

 クレアは、どうしてもお姉ちゃんに会いたくなって、先生の目を盗んでそこから逃げ出した。


 森を抜け、山を越え、また森を抜けて、クレアは歩く。

 不思議なことに、獣に襲われることはなかった。不思議なことに、魔物が近くにいても、クレアが襲われることはなかった。


 ミナセと出会い、ミナセから逃げた後もクレアは彷徨い続ける。お姉ちゃんを探して、森を、平原をクレアは彷徨い続けた。

 そして、落ちていた木の枝で足を踏み抜いてしまう。


 いつもならすぐに治るケガが、ぜんぜん治ってくれないことに不安を覚えたクレアは、先生の家に帰ろうと思った。

 だが、もはや自分が越えてきた山がどこにあるかも分からない。

 かと言って、知らない人と会うのも怖い。


 迷った末に、クレアは野営をしていた商人たちの馬車に忍び込む。先生の家に、時々馬車が来ていたことを思い出したからだ。


 もしかしたら、あの家に戻れるかもしれない


 子供らしい発想、子供らしい期待を抱きながら、ひっそりと荷物の間に隠れ続け、そしてクレアは、このアルミナにやって来た。

 荷物を下ろそうとした商人が目をまん丸くする目の前で、同じく目をまん丸くしたクレアは、慌てて馬車から飛び降りる。


 人混みに怯えながら歩いていると、町の子供たちに捕まった。

 そして、ミナセと再会した。



 クレアは、自分の冒険を一生懸命話した。何も言わず、ただ黙って聞いているミナセを時々気にしながら、精一杯の言葉で話をした。

 そんなクレアに、ミナセが言った。


「大変、だったんだな」


 そんなありふれた言葉しか、ミナセは言うことができなかった。


 気が付けば、夜もだいぶ更けている。

 何も分からず、ただ混乱するのみのミナセが、まるで現実を逃避するように言った。


「今日はもう遅い。明日になったら、一緒に先生を探しに行こう」

「ほんと?」


 あまり感情のこもっていないミナセに、クレアが嬉しそうに言う。


「ああ、本当だ。一緒に先生を探してやる」


 クレアは笑っている。

 嬉しそうに笑っている。


「あのね」


 クレアが言った。


「ミナセさんのこと、お姉ちゃんって呼んでも、いい?」


 恥ずかしそうに言った。


「ああ、いいぞ」


 ミナセが答える。


「お姉ちゃん」


 クレアが、ミナセをそう呼んだ。

 ミナセが、ぎこちなく笑ってクレアの頭を撫でた。


 ミナセは、もはや正常な思考ができる状態ではなかった。


 分からない。

 何もかもが分からない。


「もう寝よう」


 現実を断ち切るように、ミナセが言った。

 だが、そんなことはやはりできなかったようだ。


「あのね、お姉ちゃん」


 クレアが言う。


「私、眠れないの」

「眠れない?」

「うん。私、先生の家にいた時から、ずっと眠ってないの」

「……そうか」


 ミナセの思考は止まっていた。

 もはや、クレアが何を言っても驚くことはなかった。


「クレアには悪いが、私は寝かせてもらうぞ」

「うん、いいよ」


 クレアは素直に頷く。

 だが、すぐに、もじもじしながらクレアが言った。


「あのね、お姉ちゃん」

「なんだ?」

「えっとね、お願いがあるんだけど」

「……言ってみろ」

「あのね、お姉ちゃんと一緒に、寝てもいい?」

「……ああ、いいぞ」


 ミナセがベッドに入った。

 その横にクレアが潜り込んでくる。


 ミナセの腕に、クレアが抱き付いてきた。

 その顔は、とても嬉しそうで、とても幸せそうだ。


 ミナセは、その夜あまり眠ることができなかった。

 クレアから、悪意や害意は感じない。戦いで磨いた本能が危険を知らせることもない。

 そこにいるのは、無邪気で可愛らしい女の子だ。


 だが、自分に抱き付き、肩に頬をすり寄せるクレアからは、温もりを感じない。すぐ横に人がいるというのに、ミナセは、その体温をまったく感じることができなかった。


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