クレア
太陽が沈み始めていた。二人のいる公園に子供の姿はなく、足早に通り抜けていく人が何人かいるだけだ。
その視線が、クレアに注がれる。それは、間違いなく好意的なものではなかった。
「とりあえず、私の宿に行こう。今夜はそこで眠るといい」
ミナセは、立ち上がってクレアの手を取った。事情を聞くのは落ち着いてからの方がいい。ミナセはそう判断していた。
ミナセをちらりと見上げたクレアが、うつむく。
「どうした?」
「……何でもない」
ミナセの問いに、クレアはそう答えた。
何かあるとは思ったが、それも合わせて後で聞くことにして、ミナセは歩き出す。クレアに合わせてゆっくりと歩く。
クレアは、おとなしく手を引かれてミナセについていった。
通りを歩く二人に、帰宅途中の職人が怪訝な顔を向ける。買い物かごを下げた主婦が、眉間にしわを寄せて立ち止まる。
いたたまれなくなったミナセが、とある店の看板を見ながらつぶやいた。
「とりあえず、服だな」
ミナセは、閉店準備をしていた服屋に飛び込んで、最初に目に留まった子供用のワンピースを買った。
金額を言われて驚くが、クレアを見る店主の視線が気になって、別のものを選び直そうという気は起きなかった。
本当は靴も買った方がいいと思ったのだが、服と違ってボロボロさがそれほど目立たない。
それに。
お金がない
給料日まであと何日だろうか。
そんなことを考えながら店を出る。その場で着替えさせる訳にもいかないので、クレアがついてこられる程度に足を早めて、とにかくミナセは宿屋へと向かった。そして、正面ではなく裏手に回り、勝手口から中に声を掛ける。
「すみません、お世話になっているミナセです。ちょっと井戸をお借りしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
主人の許可をもらったミナセは、クレアを井戸に連れて行った。
「顔と、手を洗うんだ。そうしたら、着替えて中に入ろう」
「うん」
クレアは、ここでもおとなしく従った。
バシャバシャと手を洗い、バシャバシャと顔を洗う。
すでに太陽は沈んでいて、見上げれば空に星が瞬いている。明かりのない井戸端はかなり暗くて、ちゃんときれいになったか確かめることはできなかったが、少なくとも多少はましになったはずだ。
ハンカチで手と顔を拭いてあげて、ミナセが言う。
「じゃあ、服を脱いで」
「……うん」
少し躊躇った後、クレアはゴソゴソと服を脱いだ。
下着一枚になったクレアの体が、暗がりに青白く浮かび上がる。
「?」
ミナセは、クレアの体に何かを見たような気がした。だが、それは一瞬。
新しいワンピースを頭から被って、クレアが言う。
「お洋服、ありがとう」
「ああ、気にするな」
軽く答えて、ミナセはクレアが脱いだ服をつまみ上げる。
「この洋服は、捨ててもいいか?」
「……うん」
少し残念そうにクレアが答えたが、洗ってきれいにしたところで、さすがにこれをまた着させる訳にはいかなかった。
「すまないな」
そう言って、ミナセはボロボロの服を丸め、そこにあったゴミ箱に入れようとして……やめた。
捨てることをやめた訳ではない。クレアの目の前でこれを捨てるのはやめよう。そう思っただけだ。
剣の修行に明け暮れ、強くなることだけを求めてきたミナセが、今は少しだけ優しい気持ちになっていた。
追加料金は払うからと主人に言って、ミナセはクレアを部屋に連れて行った。
「お腹空いてるだろ? 飲み物と、適当に食べ物を持ってくるからちょっと待っててくれ」
宿屋の食堂はいつも混んでいる。落ち着いて話ができる環境ではない。部屋で食事をしながら話をしようとミナセは思っていた。
しかし。
「お腹、空いてない」
クレアが、うつむいて言った。
体調が悪いのか?
それとも、まだ緊張しているのだろうか?
「そうか。じゃあ、私も食事は後にしよう」
健康なミナセにとって、夕食抜きは結構きつい。だが、今は我慢だ。
ミナセは、食堂で水だけをもらってきて、お腹が鳴らない程度に少しずつ飲みながら質問を始めた。
「クレアは、どこから来たんだ?」
「お山の向こう」
「エルドアってこと?」
「……分からない」
最初に出会った時の質問でも、クレアは南にある山を指さした。山の向こうはエルドア王国だ。
あの山と森を越えて来たとは考えにくかったが、クレアの答えは一貫している。
「一人で来たのか」
「うん」
これも、最初の時と答えは同じ。
「クレアは何才なんだ?」
「……分からない」
ちょっと驚いたミナセは、それでも質問を続けた。
「ご家族はいないのか?」
「家族?」
「お父さんとかお母さんとか、兄弟とか」
「……分からない」
ミナセは黙り込んだ。
よほど特殊な環境で育ったのか、それとも記憶が……。
「でも」
クレアが言った。
「お姉ちゃんは、いたと思う」
「お姉ちゃん?」
「うん」
クレアの顔は、少し嬉しそうだ。仲のいい姉か、姉のような存在がいたということなのだろう。
いたと思う、とは曖昧な答えだが、クレアのことを知る手掛かりにはなるかもしれない。
「ところで、私と初めて会ったあの時、なんであの場所にじっとしていなかったんだ?」
ミナセが商隊を助けてクレアの元に戻ってくるまでに、それほど長くは掛からなかったはずだ。
せっかくパンをもらってきたのに……
ミナセの表情が、少し固くなった。恥ずかしい出来事を思い出して、それをごまかそうと無表情になる。
それに反応してか、クレアが下を向いてしまった。そして、小さな声で、申し訳なさそうに答えた。
「顔が、怖かったから」
「……そうか」
ミナセが顔をしかめる。
クレアに声を掛けた時、ミナセは焦っていた。意識の半分は魔物の群の動向に向いていた。
突然現れたミナセのその表情は、子供を怯えさせるのに十分だったに違いない。
「それにしても」
気を取り直して、ミナセが続ける。
「最初に会ったあの場所から、この町までどうやって来たんだ? 結構距離があると思うけど」
ミナセがクレアと出会ったのは、イルカナ南東の国境近く。ここアルミナの町からはだいぶ離れている。そして何より、あれからずいぶんと日が経っていた。
この子は、その間どうやって生きてきたのか?
この子は、あそこからどうやって町に辿り着いたのか?
クレアが黙り込んだ。
うつむいたまま、視線が落ち着きなく辺りをさまよっている。何かを迷っているようだった。
「あのね」
やがて、クレアが口を開く。
「ケガが、治らなくなっちゃったの」
「ケガが、治らなくなった?」
「うん」
意味が分からなかった。
少し考えてから、ミナセが聞いた。
「どこをケガしたんだ?」
「足の裏」
「見せてみろ」
ミナセが、イスから下りてしゃがみ込む。
その目の前で、クレアが靴を脱ぐ。
そしてクレアは、それをミナセに見せた。
「これは!?」
無意識だった。
無意識にミナセは叫んでいた。
クレアの右の、足の裏。そこには、何かが突き刺さったような傷があった。靴に開いた穴はそう大きくない。鋭い木の棘か何かを踏んだのだろう。
だが、その傷は足の甲まで完全に貫通していた。
傷口がふさがっている訳ではない。治り掛けということでもなかった。
それなのに、その傷口からは血が一滴もこぼれていない。血が固まった痕もなければ、化膿してもいない。
「痛くないのか?」
青ざめた顔でミナセが聞く。
「痛くない」
平然とクレアが答える。
ミナセは、クレアと出会った時から気付いていた。
クレアの魔力が、普通の人間よりも強いこと。
そして、その流れが普通の人間と違うこと。
「あのね、私、ケガしても、すぐに治っちゃうの。でもね、このケガはぜんぜん治ってくれなくて」
自分の足を見ながらクレアが話す。
「それでね、ケガを治してもらおうと思って、先生を探したの」
「先生?」
「うん」
クレアの話では、クレアはずっと、その”先生”と一緒に暮らしていたらしい。窓のない部屋をあてがわれ、時々先生に呼ばれては”実験”をさせられていた。
その家には、ほかに人はいなかった。クレアが話をするのは先生だけだった。
昔のことをほとんど覚えていないクレアにとって、先生とその家がすべて。
そんなクレアにも、かすかに残る記憶があった。
お姉ちゃんと一緒にご飯を食べたこと。
お姉ちゃんと一緒に、一つのベッドで眠ったこと。
それは、断片的で不確かな記憶。
それは、暖かくて懐かしい記憶。
クレアにとって唯一の楽しい思い出。
クレアにとって唯一の、心の拠り所。
先生からは、きつく言われていた。
「この家から絶対に離れないこと。ここでしか、きみの体は維持できないのだから」
意味はよく分からなかった。だが、クレアはそれに従った。
拘束されている訳ではなかったので、家の外にも時々出てみたことはあったが、クレアがそこを離れることはなかった。
だけど。
ふと甦るお姉ちゃんの記憶が、クレアに決断をさせる。
クレアは、どうしてもお姉ちゃんに会いたくなって、先生の目を盗んでそこから逃げ出した。
森を抜け、山を越え、また森を抜けて、クレアは歩く。
不思議なことに、獣に襲われることはなかった。不思議なことに、魔物が近くにいても、クレアが襲われることはなかった。
ミナセと出会い、ミナセから逃げた後もクレアは彷徨い続ける。お姉ちゃんを探して、森を、平原をクレアは彷徨い続けた。
そして、落ちていた木の枝で足を踏み抜いてしまう。
いつもならすぐに治るケガが、ぜんぜん治ってくれないことに不安を覚えたクレアは、先生の家に帰ろうと思った。
だが、もはや自分が越えてきた山がどこにあるかも分からない。
かと言って、知らない人と会うのも怖い。
迷った末に、クレアは野営をしていた商人たちの馬車に忍び込む。先生の家に、時々馬車が来ていたことを思い出したからだ。
もしかしたら、あの家に戻れるかもしれない
子供らしい発想、子供らしい期待を抱きながら、ひっそりと荷物の間に隠れ続け、そしてクレアは、このアルミナにやって来た。
荷物を下ろそうとした商人が目をまん丸くする目の前で、同じく目をまん丸くしたクレアは、慌てて馬車から飛び降りる。
人混みに怯えながら歩いていると、町の子供たちに捕まった。
そして、ミナセと再会した。
クレアは、自分の冒険を一生懸命話した。何も言わず、ただ黙って聞いているミナセを時々気にしながら、精一杯の言葉で話をした。
そんなクレアに、ミナセが言った。
「大変、だったんだな」
そんなありふれた言葉しか、ミナセは言うことができなかった。
気が付けば、夜もだいぶ更けている。
何も分からず、ただ混乱するのみのミナセが、まるで現実を逃避するように言った。
「今日はもう遅い。明日になったら、一緒に先生を探しに行こう」
「ほんと?」
あまり感情のこもっていないミナセに、クレアが嬉しそうに言う。
「ああ、本当だ。一緒に先生を探してやる」
クレアは笑っている。
嬉しそうに笑っている。
「あのね」
クレアが言った。
「ミナセさんのこと、お姉ちゃんって呼んでも、いい?」
恥ずかしそうに言った。
「ああ、いいぞ」
ミナセが答える。
「お姉ちゃん」
クレアが、ミナセをそう呼んだ。
ミナセが、ぎこちなく笑ってクレアの頭を撫でた。
ミナセは、もはや正常な思考ができる状態ではなかった。
分からない。
何もかもが分からない。
「もう寝よう」
現実を断ち切るように、ミナセが言った。
だが、そんなことはやはりできなかったようだ。
「あのね、お姉ちゃん」
クレアが言う。
「私、眠れないの」
「眠れない?」
「うん。私、先生の家にいた時から、ずっと眠ってないの」
「……そうか」
ミナセの思考は止まっていた。
もはや、クレアが何を言っても驚くことはなかった。
「クレアには悪いが、私は寝かせてもらうぞ」
「うん、いいよ」
クレアは素直に頷く。
だが、すぐに、もじもじしながらクレアが言った。
「あのね、お姉ちゃん」
「なんだ?」
「えっとね、お願いがあるんだけど」
「……言ってみろ」
「あのね、お姉ちゃんと一緒に、寝てもいい?」
「……ああ、いいぞ」
ミナセがベッドに入った。
その横にクレアが潜り込んでくる。
ミナセの腕に、クレアが抱き付いてきた。
その顔は、とても嬉しそうで、とても幸せそうだ。
ミナセは、その夜あまり眠ることができなかった。
クレアから、悪意や害意は感じない。戦いで磨いた本能が危険を知らせることもない。
そこにいるのは、無邪気で可愛らしい女の子だ。
だが、自分に抱き付き、肩に頬をすり寄せるクレアからは、温もりを感じない。すぐ横に人がいるというのに、ミナセは、その体温をまったく感じることができなかった。




