伏して花笑む春を待つ
青褪めた月がさえざえと輝く夜、わたしはあなたを埋めた。
折しも早春のことであった。綻びかけた梅花が一輪、闇夜にほの白く浮かび上がっていた。研ぎ澄まされた氷刃のような光が裸の木々を染め、わたしたちに零れ落ちていた。
もの言わぬあなたを傍に横たえ、わたしは一心に土を掻く。おろしたてのお召が汚れるのも厭わずに膝をつき、結い上げた髪を乱しながら。
埋める場所は、桜の根元にした。あなたが桜をこよなく愛でていたからだ。もう一月と少しすれば、この場ははらはらと落つる薄紅の衣に彩られる。その中で眠るあなたの姿は、例えようもなく幽玄であろう。
厳しかった冬の名残で湿った土は固く、爪を立てるたびに刺すような痛みをもたらした。つきつきと指先が痛むのを堪えて、わたしは顔を歪める。まばたきを忘れた眼からつうと生温かい雫がしたたる頃には、その痛みに愛おしささえ感じた。
ああ早く、早く埋めなければ。
誰かがあなたを探しに来る前に。わたしからあなたを引き離そうとする前に。
ただ一心に、わたしは土を掻く。
わたしは妾であった。幼いころ、故郷の貧しい村に生まれ、口減らしにと売られた。紡績工場で女工として働いていたが、わたしがあまりにも幼かったためか、それとも業績が悪かったためか、気づけば禿となっていた。
禿とは、遊廓に暮らす童女のことである。長じたわたしは遊女として見世に上がるようになり、やがて水揚げをした男に身請けされた。男はさる華族の当主であり、わたしは妾となった。
男はわたしよりもふたまわり以上も年嵩であった。二十歳をひとつふたつすぎたばかりのわたしは男の劣情を一心に受け止めねばならず、本妻はわたしに嫉妬と憎悪の眼差しをむけた。わたしは西洋風の屋敷の片隅で与えられた着物を身につけ、ひっそりと縮こまって暮らした。
しかれども、それもつかの間のことであった。
男は酒を好んだ。浴びるように酒を飲み、したたかに酔うことがあった。酒をしこたま飲んだ男はある時、ぱたりと倒れ伏し、帰らぬ人となったのだ。
男の後を継いだのは、男と本妻の間に生まれた息子であった。彼はわたしとそう年の違わぬ、もの静かな青年であった。
彼と出会った日のことを、わたしは今も鮮明に覚えている。
男の背後に、影のようにひっそりと佇んでいた彼は、ふしぎな眼差しをしていた。炎のような熱と氷のような冷たさを、同時に宿していたのだ。
わたしはその眼差しにどうしようもなく惹かれた。
分かたれたものがひとところに収まるように、あるいはたぐり寄せた糸の先を見つけたように。ごくごく自然に、彼に惹かれたのだ。
わたしが彼に惹かれたように、彼もまたわたしに惹かれたようであった。
ある夜、さえざえとした月の下で、彼はぽつりとささめいた。月光に濡れた彼の姿がひどく艶かしかったことを、わたしは覚えている。
彼の言の葉は男がわたしにぶつけた劣情に似て、けれども心をとろかすような甘さを帯びていた。時を置かずして秘めやかな関係に至ったわたしたちに本妻はきつく当たったが、いつしか何も言わなくなった。男の後を追うように、ほろろとその命を散らしたのだ。
そうして彼は当主となり、わたしは――
指先に、ひときわ鋭い痛みが走った。
あっと声を漏らして手を引っ込めると、みっともなく捲り上げていた袖がはらりと落ちて地に広がる。
爪が欠けた手指を眺め、わたしは俯いた。穿ち続けた穴は、人ひとりを埋めるにちょうどよい大きさになっている。泥と土にまみれた手はもう感覚がなかったが、あなたを埋めるにはさほど問題がなさそうであった。
あなたの体に手を添え、力を込めて落とす。
あなたに次いで穴の中に降り立ったわたしは、あなたの乱れた袷をちょっと整え、髪をかきやった。ひんやりとした腕を苦労して持ち上げ、胸の上に置く。
あなたにいただいたこのお召も、一緒に埋めてしまおうか。
ふと思いつき、わたしは胸元に手を当てた。そうすればあなたは、この衣をよすがにわたしを想ってくれるやもしれない。
少し悩んだ末に、わたしは帯揚げに手をかけた。しゅるしゅるとまとっていたものを脱ぎ落とし、襦袢姿になる。脱ぎ捨てたお召を横たわるあなたに掛け、帯を畳み、頭の下に敷いた。穴の縁を崩しながら這い出て見下ろしたあなたは、寝具に包まれ、安らかに眠っているようだ。
そうして満足したわたしは、あなたに土を被せ始めた。
汚れてかじかんだ手で、掘り返した土を穴に戻していく。早くしなければ、あの婚約者が探しに来てしまう。
男が死に、本妻が死んだ。ようやく楽園を手にしたと思ったのに、わたしに平穏など訪れぬのである。
あなたには、婚約者がいた。林檎のように赤い頬をした、かわいらしい娘である。
純粋無垢な乙女のなりをした娘は、あろうことか、わたしからあなたを奪っていったのだ。
ずっと一緒にいたかったと、あなたはささめいた。その眼差しは熱が欠け落ち、ただひえびえとしていた。わたしを隠してしまいたいと告げたあの夜のとろけるような眼差しは、掌中から零れ落ちてしまったのである。
嗚呼、とわたしは呟いた。
嗚呼、あなたはいずこへ行かれるの。わたしのものであったはずであるのに。
わたしは隠さねばならなかった。
これ以上奪われる前に、あの婚約者から、あなたを。
青褪めた月の光が、あなたの額を染める赤を照らす。廊下に飾られていた花瓶を頭に力一杯叩きつけたのは、出かける間際の夕暮れのことであった。砕けた破片のひとつひとつも丁寧に集めて、一緒に埋めておく。あなたを見つけ出す鍵となるものは、ひとかけらたりとも見つかってはならない。
あなたの姿が見えなくなってきた。わたしは草履の裏でとんとんと地を踏みしめ、柔らかな土を固める。凹んだところにまた土を足し、踏みしめた。
足元を埋め、腹を埋めた。胸元に土を盛り、力を込めて踏み固める。
その時、地がかすかに揺らいだ。埋め立てたばかりの土がわずかに盛り上がり、そこから白い指先がのぞく。
わたしは指の上に土を盛り、黙って踏みつけた。足の下でぽきんと音がして、呻き声が聞こえる。
あらまあ、とわたしは声を上げた。
あらまあ、起きてしまわれたのね。
なにをするんだ、とあなたは喘いだ。荒い呼気が唇から零れ、焦燥もあらわな眼差しがわたしを貫く。
なにをするんだ、ですって? そんなの決まっているでしょう。あなたを隠すのです。
ついと首を傾げて答えると、あなたは言葉を失ったようであった。
わたしは微笑んで、あなたの顔を埋めにかかる。
あなたはなにか言おうとして口を開き、咥内に入り込んだ土に噎せた。口を開けているとお辛いですよと苦笑して、わたしはあなたを埋めていく。誰にも見つからぬよう、顔も隠してしまわねばならない。
やがてあなたの存在は、土の中に隠された。あなたの顔があった辺りをしかと踏み固め、わたしはふうと息をつく。これであなたは、誰にも見つからない。
ひらりと、花弁のようなものが落ちてきた。夜も更けて、冷え込んできたらしい。はらはらと雪片が落ち、くちびるから零るる吐息は白く凝る。
これは最後の雪だろうかと、わたしはぼんやり考えた。この冬はひときわ寒々しかった。桜が花笑むのは、少しばかり遅れるやもしれない。
しんしんと冷える土に寝そべり、わたしは耳を澄ました。
この下に、多分、あなたはいる。
あまりにも巧妙に隠しすぎて、目印がなければわたしにも見つけられないけれども。
あなたを隠して一月が経った。
あなたの愛した桜は今、蕾をつけている。
やがて花開いた花弁はあなたの血を啜り、わたしの想いに浸かったかのような色に染まっていた。