第11話「魔物。初めての戦闘」
門が崩れた。
目の前で起こった事が理解できず、俺は呆然と立ち尽くす。崩れた門の先から、緑色が溢れだした。
思考停止しかけて、ぼんやりとした頭が、その緑色の物体を見、一つの単語を弾きだした。
ゴブリン、と。
背丈は5才児の自分よりも大きい。体格的には10才児そこそこか。しかし、盛り上がった筋肉は、到底貧弱には見えない。
逃げないと、いけない。本能が、そう警告してきた。が、身体はわずかに震えただけで、動かない。動けない。恐怖を前に、目を逸らす事すらできなかった。
『アルド!!』
がん、と頭に響く念話。頭の横で、二つに分かれた銀糸のようなツインテールが視界に入る。必死な形相で、魔力まで使って、アリシアは俺の身体を強く揺さぶった。
『逃げるの! 早く!』
俺は、なされるままに揺さぶられ、それでも何とか頷く。身体は強ばっていたが、動く。
「クリス! 逃げるぞ!」
俺は、俺と同じように固まっていたクリスの手を取る。彼女は状況を理解できていないようだったが、俺に手を引かれるがままに走りだした。
「ゲ、ゲギャギャ!」
一体のゴブリンが、逃げ出す俺たちに気づき、声を上げた。さっき見たときは、三体。それが破れた門から、卵の殻をを突き破り出てくる雛のように出現していた。
俺は振り返らない。振り返り、足が止まるのを恐れ、萎縮し、その足がもつれるを恐れた。
クリスの手を強く握りながら、俺は足を動かす。しかし、クリスは違った。
「きゃっ」
小さい悲鳴があがる。俺の手に手にがくんと重さがかかる。クリスは、背後が気になっていたらしく、走る事に集中できず、結果、石に足を取られて転倒した。
クリスの手を強く握っていた俺は、一緒になって転びかけ、それでもなんとか転ばずにすんだ。
ゴブリンが迫る。俺は、クリスを助け起こしながら、奴らの姿を見る。
4匹。一体増えた。耳障りな声を上げ、走る速度は、俺たちよりも早い。奴らが手に持つ小剣、その錆すら見えてくる。汚く汚れた牙を剥く、醜悪な顔がよく見える。
奴らとの距離が迫る。逃げきれない。そう思った。
「あっ……」
助け起こそうとしたクリスが、上手く身体を起こせない。恐怖から、足が震えてしまっていた。
転倒した痛みか、恐怖からか、潤んだ瞳をしたクリスと目が合う。縋るような目。
一瞬、彼女を見捨て、走り去るべきではないのか。酷く冷酷に、俺に囁くような思考が生まれる。彼女の手を振りきって、逃げる。腰を抜かした彼女は、ゴブリンに襲われるだろう。その隙に、距離を稼ぐ。
それは、酷く合理的な考えに思えた。自分の命には代えられない。小を犠牲にして、大を生かす。彼女は運が無かっただけ……
「くそっ!」
俺は、クリスの手を振りきった。
さっきまで考えていた、クズな自分の思考と共に。
クリスの手を取る代わりに、俺は、腰に隠していたナイフを握り、引き抜く。最近毎日触っているナイフの感触にほんの少し、安堵する。
「クリス! なんとか俺の家まで行って、母さんを呼んで来てくれ!」
俺はとっさにそんな事を口にしていた。考えあっての事じゃない。だが、母さんなら、こんなピンチを悠々と切り抜けてみせる。そんな確信だけがあった。
「あ、アルドは!? どうするの!?」
「俺がここで時間を稼ぐ……だから早く!」
何とか立ち上がった彼女の姿を横目に、ゴブリンに向き直る。4匹のゴブリンは、小さなナイフを構える俺をあざ笑うように声をあげた。
「ゲギャギャギャ!」
いや、事実笑っていた。震える俺の姿に、格下の相手に。
だが、黙ってやられてやる気は無い。
俺の魔術に攻撃用の物は存在しない。これまでそういった魔術を試せるような場所がなく、また必要性がなかった。それに、間違ってでも暴走させれば、大惨事になる。おいそれとはできなかった。
だから、俺には直接的に攻撃できる、RPGなんかでよくある「攻撃魔法」を持っていない。
だけどそれは、攻撃手段を持っていない、という訳じゃない。
「アプリケーション《マリオネット》モーション02、01を連続起動」
魔術式が起動する。淡い光を灯す文字が、俺の全身で踊る。たった一つの動作を再現する為だけに、演算領域で目まぐるしく数値が変動し、恐怖で強ばっていた俺の身体が、動作に最適な身体に、強制的に変異させられる。
「……っ!」
以前、母さんが見せた、ローパーへ距離を詰めた疾走。構えたナイフに隠れるようにして、俺は一体のゴブリンに迫る。迫る俺に、ゴブリンが声をあげる。
「ゲギャッ!」
それは怒りに満ちていた。格下だと嘗めていた相手、それが、噛みつかんと牙を剥いたのだ。目の前にいる格下に、格の違いを教えてやる。そんな傲慢さが見えた。ゴブリンが、手にした小剣を、振り下ろす。
俺は、あの日見た母さんの姿そのままに、ナイフで弾き、更に一歩、俺のナイフの間合いに入る。
しかし、俺の魔術は止まらない。
「はあっ!」
未だに一振りしかできない振り下ろしの一撃。剣を弾かれ、中途半端に体を開いていたゴブリンの脳天に、吸い込まれるようにしてナイフが閃く。
がきっ、と頑強な頭骨に、ナイフが侵入する手応え。だが、ナイフはゴブリンの頭を鼻の辺りまで割った所で、ぽきりと折れる。
赤黒い血が吹き出し、俺の身体を頭から汚していく。
手に残る喪失感。気持ち悪い、そう思う暇すらなかった。それに、ナイフにばかり気を取られている暇はない。使っていた武器はなくなった。なら、代わりを用意しなければならない。
一太刀で仲間をやられたゴブリン達が棒立ちになっている間に、今殺した一体の手から、錆の浮く小剣を奪う。
「クリスっ! 俺は大丈夫だ! 早く母さんを呼んで来てくれ!」
俺は横目で、ぽかんとしてこちらを見ているクリスに怒鳴る。
クリスは、何度か目を瞬いて、俺がゴブリン相手に戦える事を理解すると、何度も頷いて、俺の家の方に向かって走っていった。
「頼むぜ……」
なんせもう、限界だからな。俺は、額を流れる冷汗を拭う余裕もなく、ゴブリンを睨み続ける。
ゴブリン達は、クリスが走っていくのを忌々しそうに眺めていたが、俺が小剣の切っ先で牽制すると、露骨に警戒してくれる。
『アルド……』
『……心配しないでくれ。時間稼ぎ、するだけなんだからさ』
アリシアの悲痛なまでの念話が聞こえてくる。遠くなりかける意識を、彼女の念話で繋ぎとめる。
カタ、カタ……
今、こうして立てている事自体が、奇跡だった。これ以上はもうない。俺にできるのは、この膠着を一分、一秒で良いから伸ばすことだ。
カタカタカタ……
さっきから、何の音だ? 俺は、ゴブリンが何かしかけてくるのかと冷や冷やしながら、鋭く視線を走らせる。目に映るのは、こちらを警戒し、俺の動きを見逃さんと固まっているゴブリンの姿だけ。何か鳴っているものなんてない。
カタカタカタカタ……
音は、段々とひどくなる。そこで、気づいた。
「はは……」
その音は、震える俺の手が、小剣を固定しきれずになる音だった。作りの悪い剣、その手元が俺の手の震えに応じてカタカタカタ、俺をあざ笑うかのように音を立てている。そして、それは時間を置く程に大きくなる。
俺の手は、もう切っ先を固定するのも難しい程、疲労していた。そして、俺は今の今までその疲労に気づけない程、疲弊していた。
「ゲギャギャギャ!」
ゴブリン達が、騒ぎ立て始める。俺が限界だと、そう気づいたからだ。その態度には、怒りすら滲んでいた。それはそうだろう。限界で、指一本まともに動かせない相手にビビり、餌となる人間を1人、取り逃がしたのだ。
苛立ち紛れに、一匹のゴブリンが、前に出ながら俺に向かって剣を振り上げる。
「くっ……!」
鈍い光を返す、小剣が迫ってくる。当然、俺は回避しようと身体を動かす。が、疲労を自覚したためか、身体はまともに動かない。
「あっ……!」
結果、俺は尻餅をついた。
小剣が空を切る。しかし、それは偶然の産物だ。偶然は、そう何度も起こりはしない。
『アルド! ……アルドは、私が守る……!』
『アリ、シア……』
アリシアが、ゴブリンの前に立ち塞がる。彼女の姿が見えないゴブリンは、当然気にも留めない。俺は、アリシアと、再度剣を振りかぶるゴブリンを、茫然と眺めた。
次の瞬間、アリシアの周囲、つまり、俺の前方に魔力が集まり始める。
「ギャ……!?」
ゴブリンが、異変を感じ、俺から離れようとしたが、俺はその時に感じ取った。
遅い──と。
すでに臨界まで高まった魔力が、世界に形を成す。アリシアの突き出した両手、その前方に魔術式が現れ、円環を作る。
『我、この存在を持ってこの地に刻まん。颶風の刃≪ウィンドスラッシュ≫』
顕在化した魔力が、風の刃となって、目の前にいたゴブリンと、その後ろにいたゴブリン一体を切り裂く。
ぼとり、とゴブリンの上半身と下半身が泣き別れた。
初めて見る──アリシアの魔術。彼女は俺の魔術の師だったが、これまで魔術を使った事はなかった。念話、俺に対する悪戯に、少し魔力を使ったが、その程度だ。
何故なら、彼女の扱う魔力は、命そのもの。その身体を構成する物質そのものだったからだ。俺はそれを理解していたから、魔術を使わせた事はなかった。
『アリシア!』
今度は、俺が叫ぶ番だった。文字通りに、己の命を削った一撃。アリシアは、透けて見えるその身体に、疲労と、苦痛を表しながら、俺に向かって気丈に微笑む。
『大丈夫、だから。アルド。あなたは私が守ってあげるから』
ダメだ。そんなの。何のために、俺が、ここまで頑張っていると思ってるんだ。
『生きてね、アルド』
そんな、遺言みたいな言葉、俺は認めない。許さない。
俺が、ここまで、命を張って頑張ったのは、俺のためだ。
俺が、この異世界に来て、初めて得た繋がり。それを無くしたくなかったからだ。
俺だけ助かってもダメだった。だからクリスを助けた。クリスが居なくなって、日常が壊れるのが嫌だった。だから、俺は、必死になって時間稼ぎした。それなのに、それなのに。
アリシアが、消えたら意味がない。
この世界で、最も長く一緒にいる彼女が消えたら意味がない。
『アリシアッッ!』
俺は、もう声を出せない程に疲弊していた。だから、力いっぱいに念話で、アリシアの気を引こうとした。
『……』
そんな俺に、アリシアは儚く微笑みを返す。
アリシアは、ゴブリンを睨みつける。そんなアリシアの姿が見えた訳ではないだろうが、残ったゴブリンは、新しい脅威、魔術の前に狼狽えていた。
しかし、腹を決めたのか、ゴブリンは聞くに堪えない声を上げながら、俺の方に向かって走り出した。
アリシアが、魔術を唱え始める。
『我、この……』
「どうやら、間に合ったみたいね」
しかし、アリシアの魔術が完成するよりも早く、金色の風が吹き荒れ、ゴブリンの首が飛んだ。
「母、さん……」
母さんは、長い金髪を左手で払いながら、右手に持った剣を一振りし、剣についた血を振り落す。そして、剣をしまって俺に近づきながら、優しく微笑んだ。
「アルド。良く、頑張ったわね。偉いわ」
「かあ、さ、う、うあぁぁぁぁっ!」
膝をつき、俺を胸に抱いてくれた母さんに、俺は思い切り母さんに抱き着き、大声で泣き喚いた。
「こわ、かった、怖かったよ……」
「よしよし。クリスちゃんも無事よ? ちゃんと女の子を守れたわね。さすが、私の子だわ!」
母さんが俺の頭を撫でるに任せて、俺は泣き続け、落ち着いた所で、母さんに助け起こされながら立ち上がる。
「アルド、一度家に帰りなさい。オリヴィアちゃんが居るから。彼女と合流して、上層街に行きなさい」
「母さんは……?」
「私は、まだやる事があるわ」
やる事、というのは恐らく壊された門の事だろう。母さんが心配になり、引き止めようかと迷ったが、そんな心配はしても無駄なのだろうとも思う。
「……解った」
俺は、涙を拭いながら、母さんの指示に従う。母さんは俺の頭を一撫ですると、来た時と同じように、金髪をなびかせながら門の方に向かって走りだした。
一人、残された俺は、家に向かう前に、アリシアに向き直った。
『アリシア』
『アルド、無事で、良かった』
『全然良くない! 無事なんかじゃなかった!』
『アルド……』
『なんで、自分を犠牲にしようとしたんだよ! それじゃ、ダメなんだよ! アリシアが、アリシアがいなきゃ……』
それ以上は、言葉にならなかった。自分でも、何が言いたいのか解らない。言葉にできないもどかしさを感じているし、さっき自分を犠牲にしようとしたアリシアに、酷く腹がたった。
『アルド……ごめんね?』
『……もう、あんな無茶、しないでくれ』
『アルドも、だよ……私も、すごく、心配だったんだよ……』
よく見たら、アリシアの目にも、涙が浮かんでいた。たった数年の付き合いだが、初めてみる彼女の涙に、動揺する。
『わかった。俺も、無茶しないから』
『ん。約束』
そう言って、何とか2人で笑い合う。
俺は、助かったんだと、ようやく心からそう思えた。




