2話
あれは、リョウが海面に出て、空を泳ぐ生き物を追いかけていた時だった。
魚のようにエラやヒレがない。口先は鋭く尖っていて、鱗ではない無数の柔らかなものに包まれた、アレはなんという名前なのだろう。
夢中になって追いかけて、たどり着いた先は岩場だった。潮の満ち干きで現れる洞窟のようだ。干いていた時で、潮は洞窟の奥まで満ちておらず、這い上がらなければよく見えそうもない。誰も見てはいないだろう、そう思い両腕を駆使し這いずった。
そこには、あの空を泳ぐ生き物の巣なのだろう、ピィピィと鳴く、フワフワとした小さな生き物がいた。きっとあの生き物の子だ。
魚の腹とはまた違った柔らかさをもっていそうなソレに、どうしても触れてみたくなって手を伸ばしたときだった。
「さわるな!」
突然の大きな声に、リョウはビクリと肩を震わせた。こんな海面の、そのまた上まであがってくる酔狂な人魚など、自分の他にはいないだろう。ならばこの声の主は。
「どうしてこんなところに私以外の人が…ヒト…?」
声の主の語尾がどんどん弱くなっていく。下半身を見れば明らかだった。鱗に包まれているはずのところが二つに避けている。ソレで地を踏みしめているモノの正体は、案の定人間だった。
「…ぁ…」
「にん…ぎょ…?」
リョウは里の人魚達に散々言い聞かされてきたことを思い出していた。その昔、あまり交友があったわけではないが、人魚は普通に海面から出たりもしていたらしい。
しかし、人間に乱獲された時代があった。なんでも人間の間には、人魚の血肉は不老不死の妙薬だの、万能薬になるだの、とんでもない伝説が流れたとか。
見たところ、リョウより小さい体つき。恐らく子供だろうが、油断はできない。捕まるのも食べられるのも御免だ。すぐさま海に逃げるように這い出す。しかし、人間はそれを許してはくれなかった。
「待ってくれ!」
人間に手首を掴まれた。ひどくあたたかい。海中の世界にはまずない温度に驚いた。
しかし、驚いているだけでは駄目だ。死ぬのは御免だ。振り払おうとするが、人間は手をはなさない。
「はなしなさい、人間!海に引きずり込むぞ!」
「すごい!言葉が通じた!」
「まったく会話になってませんけど!」
人魚と人間の言語が同じであることはわかったが、相手はまったくこちらの話を聞いていなかった。敵意を込めて睨んだというのに、その人間はキラキラとした瞳でリョウを見つめている。
「なぁ、お前の名前はなんというんだ?私はな…」
「別に聞いていないし、名乗る義理もありません。はなしなさい!」
「人魚なんて初めて見た!とても、とてもキレイなんだなぁ…!」
感激しているような声。素直な褒め言葉に、リョウがたじろぐ。
何なのだ、この人間は。
「ここ、いい場所だよな。他の人はなかなか来ないし。お前もよく来るのか?」
「いえ、初めて来ました…けど…ハッ!」
何を普通に会話しているんだ。あちらのペースに乗せられてたまるか。
リョウはムキになって人間の手を振り払う。そのままの勢いで海に飛び込んだ。
「あっ、待ってくれ!」
リョウに続いて、その人間も海中へ飛び込んできた。馬鹿か!と、リョウは叫びたくなった。ここの潮の流れは決して緩やかではない。話に聞く人間とは、エラを持たず水中では呼吸が出来ず、ひどく泳ぎが遅いと認識していた。その人間が、海中では最速を誇る人魚に追い付けるわけがないだろう。
呼吸が出来なければ動くこともままならまい。泳ぐスピードを上げたリョウ。それでも、人間はより深く深くを目指してきた。
馬鹿だろう。死ぬ気か、あの人間。
リョウが焦り始めた時だった。その人間が、口からゴポゴポと空気の玉を吐き出した。海中でもがいている。
馬鹿めが。そのまま海面に出て存分に悔しがるがいい。
ニヤリと笑って、その人間が海中から逃げていく様を見ようとしたリョウだったが、一向に浮上する様子がない。ついにはもがくことすらやめてしまった。
呼吸が出来ない、ということは。生命活動の維持が出来ないということだ。より簡潔に言えば、死。
それに気づいたとき、リョウは慌てて人間の首根っこを掴み上げ、海面へと引き上げた。
「馬鹿か!お前は本物の馬鹿か!阿呆か!」
「…」
「呼吸をしろ、呼吸を!」
どうしていいかわからず肩をつかみとにかく体を揺さぶる。そうしているうちに、人間が口から海水を吐き出した。
「ゴホッゲッホ…はぁ…苦しかった…」
「当たり前だー!!!」
渾身の叫びだった。今度は胸ぐらをつかみ思いきり揺さぶって、声を張り上げた。
「死ぬ気だったんですか!阿呆ですか!ああそうでしょうねこの阿呆!そんな幼いうちに死んで親がどう思うとか考えないのですか!?反省なさい!」
「…ハハッ」
「何が可笑しいんですかこの阿呆!」
「いやぁ、お前、いいやつだなぁと思って」
「はぁ!?」
ニコニコと笑う人間の子とは対照的に、リョウは顔をしかめている。怒りなどおさまっていない様子だが、構わずにその子は続けた。
「お前と、ともだちになりたいんだ。私はアキ。お前の名前を教えてくれないか?」
アキと名乗った人間の子が、無邪気な笑顔で右手を差し出す。怪訝な目で見ているとみるみるうちに、親においていかれた迷子のような、そんな顔をする。
その顔をやめてほしい。そう思ってしまったリョウの負けだった。
「リョウ…です…」
恐る恐るアキの右手を握る。そうするだけで、アキは花が咲いたように笑った。
仕方がない。里の老いぼれ達が言っていた人間と、今目の間にいるアキとで違いがありすぎるのがいけない。だってこんなにも可愛らしいのに、払い除けられるわけがないじゃないか。
こうして、リョウに人間の友達ができたのだった。