1話
暗い暗い、光の届かない海の底。そこに住む生物、人魚というものがいました。
人魚は人目に触れぬよう、深い深い海の底で、ひっそりと。海藻を食んで生きていました。
「…なんてくだらない」
「何、どうしたのさいきなり」
ひどく冷めた声がその場に響いた。海の底のまた底、魔女の住み処と呼ばれる場所にいるのはふたりの人魚だ。
「決まってるじゃないですか、里に残る悪しき風習のことですよ。やれ海面に出てはいけないだ、やれ地上に興味を持ってはいけないだ…やれやれ、そういう抑圧が余計に若者の好奇心をくすぐるということをわかっていないのですよ、あの老いぼれ共は。そうは思いませんか、カズマくん」
「言っとくけど、そう思っているのはキミくらいなものだよ、リョウ」
呆れたように、淡い紫色の髪と鱗をもった人魚が溜め息をつく。ふっくらとした唇に大きな瞳、少し丸い鼻。まるで可愛らしい女性のような風貌だが、カズマと呼ばれた人魚、彼はれっきとした男性である。
たっぷりとしたウェーブのかかった髪をユラユラと揺らしながら、棚の中にあるたくさんの小瓶を整理している。作業しながらの会話、しかも自分の意見が否定されたことが不満なのかリョウと呼ばれた人魚はムッと顔をしかめた。長い黒髪に真っ青な鱗。鱗と同じ色の瞳は、彼女の整った顔立ちと相まって内面の冷たさを表しているようだった。
「意味がわかりません。里の老いぼれ達はわかっていないんですよ。ユラユラと揺れて反射する光がキラキラと輝く水面、空の青さ、空を映す海面、日の光の暖かさ。憧れることをやめるだなんて、出来るわけがないじゃないですか」
「まーた海面に出たね、リョウ。里の人魚達にバレたらどうするのさ」
「ばれませんよ。カズマくんが言わなければ、ですけど」
悪びれもせずにリョウはそう返す。カズマはまた、呆れて溜め息をついた。
「それに、キミは言いたくたった誰にも言えないでしょう」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさ」
リョウは里に住む人魚だが、カズマは違う。彼は、人魚の里を追放された身だ。
昔の話になるが、カズマも里で暮らす人魚のひとりだったのだが。彼は薬を扱うことを得意としていた。中には劇薬、毒薬、果てには中毒性の高い危ないお薬もあり、里の者達からは煙たがられていた。本人はいたって気にせず過ごしていたのだが、事件は起きた。
“人魚の里劇薬散布事件”である。
カズマは、なんというか、ドジで間の悪い奴だった。ある薬を作ろうと、大鍋で薬を作っていたところだった。誤って鍋にぶち当たりそうになった魚を止めようとしたら自分がぶち当たり、鍋の中身があたりに散らばった。運悪く家のドアが開けっ放しになっていたので、里中に散らばる劇薬。その正体は、かなり協力な毛生え薬だった。外出していた人魚はみるみるうちに毛むくじゃら。どうしてこんな薬を作ったのだと責め立てる人魚達。依頼の品であったことを伝えても、誰も信じやしない。挙げ句の果てには、依頼した人魚(長老)ですら、カズマを里に災いをもたらす魔女だと罵声を浴びせる始末である。
「誰が魔女だ僕は男だこの野郎!」
そう捨て台詞を吐き、長老の頭皮に、わずかだが残っていた希望に、脱毛薬をぶっかけ文字通り根こそぎ奪っていったことが決め手となったのだろう。
こうしてカズマは人魚の里を追放され、海の魔女と呼ばれるようになった。ちなみに本人はこう呼ばれると激昂し、物理攻撃に出てくるので注意が必要である。
余談であるがこの日、リョウは海上に行っていたため被害にはあっていない。カズマの武勇伝を他の人魚から聞いて、長老の荒野を見て爆笑した。よくやったとすら思ったし言った。ひどい話である。
「いくら僕だって、リョウのやってることに賛成なんて出来ないよ。はい、リョウ。里の掟言ってみて」
「覚えていません」
「嘘おっしゃい!ほら、言う!」
「…海面に出ない、地上に興味をもたない、人間に見つかってはいけない」
「わかってるじゃないのさ」
不服そうな顔で目をそらしながらも答えたリョウに、カズマは満足げに笑う。薬棚の整理に戻ったカズマは、こう続けた。
「まぁ、前者二つはまだ許すとして後者だけは破らないようにね。人間なんてロクなもんじゃないよ」
あ、やべぇこれ使用期限近いや。薬に目を向けているカズマは気づかない。
リョウがとても気まずそうに、目をそらしたことに。
リョウには、海の世界で唯一無二の友人であるカズマにでさえ秘密にしていることがあった。
リョウが海面に上がり、地上に憧れる最大の理由。
リョウには、人間の友人がいた。