ぼやけている世界
某所にて提出したことのある作品。
風が吹いていた。光りが降っていた。白と水色が滲み合い、ぼやけた景色を創りだし、それら全てを巻き上げるようにして天空へと続く道が見えた。緑の草も真っ白なスカートも黄色の帽子も、全てが天空への道しるべに見えた。風と光と時間と音と匂いと。そんなものたちが、そこには閉じ込められていた。閉じ込めることのできない、おおよそ全てのものたちがそこに閉じ込められ、息づいていた。私はそれを、少し離れたところから見つめる。いつまでもいつまでも。恋人が「早く次に行こう」としびれを切らして私の手を引くまで、彫像のように動きを停止して見つめていた。見つめていれば、その世界を理解できるような気がしていたから、もう目を逸らさねばならないことを残念に思った。
* * *
カチャリ、と陶器の擦れ合う音が響く。いや、響いたのは私の中だけだ。雑音溢れるここでは、私より離れたところにいる者に、その音は聞こえない。目の前に座る彼にも、聞こえてはいないだろう。彼は、自分の手元を見たまま声をかけてくる。
「食べないのか?」
ここはファミリーレストラン。談笑と食器音と礼儀正しい声が響く、休日の午後三時。
「食べてるよ」
黒蜜たっぷりのクリーム白玉あんみつを突きながら、私は応えた。カチャカチャと、スプーンが器と触れ合う。たまにさくりとアイスを一刀両断する音も私だけには聞こえる。口に運べば、甘くて冷たいバニラがスッと溶けていく。名残惜しむように、舌で唇と口内を舐めとり、再び感じた少し薄くなった甘みを堪能する。目の前の彼をちらりと上目遣いで見れば、彼は視線を下に落とし、キリキリと丸いピザの切断に専念していた。視界でその様子を捉えた瞬間、芳ばしい生地の香りと、食欲をそそるトマトとチーズの匂いが私の鼻を刺激する。甘いデザートを現在進行形で食しているにも拘らず、お腹が鳴りそうになって、そうならないように、少しだけ身をかがめた。切断したピザをかぷりとほおばっている彼は、そんな私の動作に気づかない。
私は彼のピザを視界からしめ出すように下を向いて、またカチャカチャとスプーンを動かした。餡子と溶けはじめているアイスを絡め、さらに底に沈んでいた寒天をスプーンに乗せ、ゆっくりと口元に運ぶ。ぱくりといく前に、ちろり、と餡子にかかっていた黒蜜だけを舐めてみる。喉がひりつくほど渇いた。さらに渇かせるように餡子とアイスと寒天の乗ったスプーンをくわえ、味わいながらごくりと飲み込むと、普段潤っているはずの喉は咳き込みたくなるほど水を求めはじめた。テーブルの隅に置かれたグラスを意識してゆっくりと持ちあげる。口まで入っていた水を思うままに飲み干せば、半分以上が消えていった。ふぅ、と小さく息をついた。
ふと顔を上げれば、彼がそんな私を無言で見ていた。いつの間にこちらを観察していたのかと思う。私は一瞬合った目を少しずらして、彼の肩口あたりに視線を留めた。
「ドビュッシーだな」
言葉を発したのは彼の方だった。「ドビュッシー?」と視線をずらしたままオウム返しすれば、「この曲だよ」と返事が返ってくる。
ああ、と今まで気にも留めていなかった天井から降ってくる音に耳を傾ければ、確かに聞いたことのある曲だった。
眠くなるほどのんびりした旋律。激しい音の変化がなく、ゆるやかに、凪いだ水面のようなそれは、ここファミリーレストランでかかっているのが不自然に思えた。例えばここが、静かな喫茶店あたりであればマッチしていたのだろうけれど。ここは忙しい時間の流れ方をする処。音楽に耳を傾ける者はほとんどいない賑わいの場所。
「よく気づいたね」
「普通に聞こえるだろ」
なんでもないことのように言いながら、彼はいつの間にか最後の一切れとなっていたピザを手に取っていた。物欲しげに見つめる私の視線に、彼は気づかない。
「ほとんどの人は気づかないよ」
「なんでだ?」
「お話するのと食べるのに夢中だから」
ピザに視線を落としている彼を、私はじっと見つめた。消えていく最後のピザごと彼を見つめながら、食べ終わるのを待って、グラスに手を伸ばしたところで、聞いてみた。
「タイトル、なんだっけ?」
「『月の光』」
言って、ごくりと水を飲む。口まであったそれは、まだ半分以上を残した状態で、テーブルに置かれた。
スッと彼がこちらを見る。私はほとんど水の残ってないグラスを手で弄びながら、暇であることを彼に示した。通じたのかたまたまなのか、彼から言葉が飛んできた。
「どうだった?」
主語も目的語もない問いかけの意味を、私は正確に読み取れた、と思った。
「短かった」
「そうじゃない」
「……よく分からなかった」
「そうか」
「でも、多分、綺麗だった」
「ああ」
訪れた沈黙を、居心地が悪いと思わないのは、周囲に満ち溢れている人の声と食器の音のせいだろう。ざわつく店内で、私たちの沈黙は、まるで意味を成さない、と私は思う。
「どれが一番良かった?」
再び口を開いたのは彼の方だった。普段あまり自分からは話しかけてくれない彼だから、驚きながらも、聞かれたことには応える。
「『散歩、日傘をさす女性』」
「モネか」
「多分」
顔を上げれば、彼は私と同じようにグラスを弄んでいた。いつもと変わらない顔に見えるけれど、何かを探しているようにも見える顔だった。
今度は私が訊いた。
「どれが良かった?」
「『ピアノに寄る娘たち』」
「えーっと、……ドガ?」
「いや、ルノワール」
「ふーん」
室内か、と私が呟けば、「何か言ったか?」と聞き返してくる。何でもない、と返して、私は席を立ち上がった。その動作を彼が目で追う。グラスをひらりと掲げて、「水」と言えば、「いってらっしゃい」と彼が言った。
「止みそうにないね」
水のお代わりをして、彼の座る席の後ろから戻ってきたことを知らせる為にそう声をかければ、少し振り返って私のグラスを見た後、彼はすぐ横の窓から外を眺めて「ああ」と応えた。
窓の向こうは雨がしとしとと降り続く。小雨ではなく、豪雨でもなく、その中間の、中途半端な雨。はっきりとしない、ムカつくような、落ち着くような、そんな天候。
ぼんやりと外を見つめる彼を見て、私は思わず問いかける。
「好き?」
「なにが?」
「こういう雨」
「どうかな……」
こちらに視線をくれもしない彼に、私はホッとし、同時にムッとする。一心不乱、とは少し違うけれど、じっと見つめるその視線に、先ほどの美術館での彼の様子を思い出した。私が促さなければ、いつまでも足を止めていただろうその視線の先にあったのは、一枚の絵画。
ねぇ、と声をかける。
「本当に、一番好きなのはルノワール?」
ゆっくりと、雨から目を離して、私の目を見る。
「なにが?」
「ルノワールの、『ピアノに寄る娘たち』が一番良かったの?」
「さっきそう言っただろう。嘘だと思うのか?」
頷く代わりに、私はちびりと水を飲む。
「『散歩、日傘をさす女性』」
呟かれた言葉に、私は顔を上げて、彼の視線と自分の視線を絡ませた。
彼はちょっと笑った。
「――だと思ったのか? あそこで随分留まってたから?」
苦笑されて、私はなんだか気恥しくなった。ふい、と窓の向こうの雨の世界を眺めるふりをすれば、何故かますます彼の視線を意識した。
「アレは好きっていうか、気になったんだ。見てれば、理解できる気がした」
「……何を?」
「世界観、かなぁ……」
彼の言うことは、いつも半分だけ分からない。半分は同じ世界を見て共有できるのに、もう半分は共有できない。共有できないその半分は、彼がもっている別の世界。
自分の恋人なのに、共有できていない部分があるのがなんとなく面白くなくて、その不満を埋める為に、今日は彼と一緒に美術館に行ったのに、埋まらなかった。それどころか、余計、共有できない世界があることを強く感じた。
「なぁ、あの絵のどこが良かった?」
ぼんくらな質問に、私はぎゅっと口を引き結んだ。
「あの絵が一番良かったんだろ?」
彼が足を止めていた絵画。私が「早く次に行こう」と手を引っ張らなければ、いつまでも彫像のように足を留めていただろう作品。モネの『散歩、日傘をさす女性』。
別に、飛び抜けて良かったわけじゃない。惹かれたわけでもない。ただ、彼があの絵の前でだけ動かなかったから、好きだと思ったのだ。彼が、あの絵を好んでいると思ったのだ。だから、私も同じものを好きだ、とそう示したかっただけなのだ。
純粋な問いかけに、私は腹立たしさを感じた。別に喉が渇いているわけでもないのに、水をぐいと飲んで、少し強めに、ゴツンとテーブルに置く。しかし彼はそんな些細な音には気づかない。店内にかかるメロディーには気づくくせに。
「別に。一番覚えているのを言っただけ」
つーん、とそっけなく言えば、彼は「そうか」と納得して興味を失くしたように私から視線を外す。
そんな彼を盗み見る。まるで、私がどの絵画も好きだと感じないのを当然のように思っているようで、気に食わない。心がささくれ立つ。
「そろそろ行こうか」
「まだ降ってるよ。小雨にもなってない」
伝票を取って立ち上がろうとする彼にそう言えば、彼は外を見ながら応える。
「どうせ止まないよ。小雨にもならないだろうし」
一定のリズムで降り続く雨を眺めやりながら、彼は私が立つのを待っている。私は緩慢な動きで立ち上がった。
会計を済ませている彼を後ろから眺めながら、私は耳を澄ます。さきほど彼の言っていた曲は既に終わり、別な曲がかかっていた。今度の曲は、テンポが早くなったり遅くなったりと忙しい曲調だ。私は、こちらの方が聞いていて楽しい。先ほどのように、同じようなメロディーが繰り返されても退屈なだけだ。
充満する食べ物の匂いと人の熱気、甲高い笑い声と騒がしい鳴き声。賑やかなお店に私は名残惜しさを感じる。雨が止むまで、何時間でもここにいたって私は平気なのに。
「終わった。出よう」
会計を済ませた彼は、私の手を引く。ありがとうございました、というホールスタッフの声をバックに、私たちはドアを開けて、雨の世界へと入った。
「春雨、かなぁ……」
またよく分からない思考回路から発せられた言葉に、しかし私は反応しなかった。代わりに、別のことを口にする。
「ねぇ、今度もまた誘ってね」
見上げるようにして言えば、彼の驚いた顔が私を覗き込んだ。
「美術館。ひとりで行くくらいなら、誘ってね」
「なんで? 今日、つまらなかっただろう?」
そういうところはしっかり見ているのだな、と思いながらも、私は正直に頷いた。
「うん、あんまり面白くない。……でも、誘ってね」
わけが分からないといった風に混乱する彼の顔を見れば、少し溜飲が下がった。ちょっと微笑んで、彼より先に傘をさし、歩き出す。
彼がその後を追ってくる。まだ私の言葉で悩んでいるだろう彼は、私に問いかけたくとも、雨と傘が邪魔でそれができない。私はわざと顔を傘で隠し、一定のリズムで歩いた。
「誘ってね」
どしゃぶりでも霧雨でもない雨の中で念を押せば、彼はよく分からないながらも「分かった」と返事をしてくれた。傘をそっと少しずらして彼を見れば、私と同じように、顔を隠すようにして、傘を前のめりにさせていた。
* * *
彼女は、よく分からない。好きでもないものを好きと言ったり、楽しくもないことにまた誘ってくれと言ったり。私には理解できない思考回路をしている。なんとなく、そんな彼女とだらだら付き合っている。革命の起きる気配すらない凡庸とした毎日。この雨のような。店でかかっていたメロディーのような。美術館で見た絵画のような。激しく心を揺さぶることのない、一定のリズムの世界。私は確かにそんな世界が好きだけれど、たまに破り捨てたくなるくらいにイラつく。彼女もまた、そんな感じ。はっきりとしない、いかようにもとれる存在。ならば、私が勝手に解釈してもいいのだろうか。意味づけをしてもいいのだろうか。あの絵画のように、あの曲のように、この雨のように。
目元を覆っていた傘を少し上げれば、彼女も傘を少し上げてこちらを見ていた。視線が合ったと思った瞬間、彼女の顔はまた傘で隠れてしまう。よく分からない彼女の態度。
――それは、私の自由に解釈していいのだろうか。
秋雨の中、春雨を思い出しながら、私はゆっくりと歩を進める。山も谷もない平坦な道程を、ゆっくりと味わいながら歩いていく。雨のせいで、音と景色が滲み、溶け合う。
ぼやける景色に彼女を含めながら、私は静かに感動していた。
……読んだことある方、いらっしゃいます?