【酔払神話】世界を救ったヒーローの得物は一升瓶!? ~其の者、英雄に非ず。ただの酔っ払い也~
「世界が滅びるのではないか」
その言葉は、もはや安っぽい映画の惹句ですらなかった。三年前、空を穿つ「穴」から溢れ出した異形。それは既存の物理学を、叡智を、人類の全てを笑い飛ばすかのように蹂躙した。
地図の上から街が消える。
消しゴムで消されたのではない。そこには確かに「生活」があった、「歴史」があった、「日常」があった。そのはずなのに、今はただ、「空白」が地図に描かれているだけだ。
しかし、僕が今、喉元に突きつけられている絶望は、そんな高尚な人類滅亡の危機ではない。
カメラのレンズ越し。新宿の摩天楼を、墓石に変えていく巨獣の群れが跋扈している。
それは自衛隊の使う、最新兵器の直撃すらも「無傷」として処理する化け物たち。
人の過ち――人類の生み出した猛毒が意味をなさない。
まさしく悪夢の行軍。
だが、だが、僕が今、喉元に突きつけられている絶望は、専門家の語る危機ではない。
ビルを砕き、戦車を踏み潰し、気軽に散歩をするかのように一歩が踏み出されるたびに、終末のカウントダウンが刻まれていく。
絶望の群れへと、フラフラと歩み寄るひとつの影があった。
(……やめて)
僕は祈った。
それは神への祈りではない。ただ、平穏という名の「薄氷の日常」が粉砕されることへの拒絶。無様な生き方の結実。
画面の中、爆炎と土煙を切り裂いて進むのは男。
纏うのは、最新技術で作られた戦闘服などではない。神話から登場した英雄が着る輝く鎧でもない。誰もが見慣れた――そう、ビジネススーツを纏っていた。なお、安物。
頭を守る物も、特撮ヒーローが着けるようなヘルメットではない。正義の怪盗が顔を隠す仮面でもない。誰もが見慣れた――いや、それを見れば、そういう風に使う物じゃないと心の中で誰もが思うだろう。頭にはネクタイが不格好に巻き付けられている。なお、安物。
そのビジネススーツの皺は仕事帰りの証。頭に巻いたネクタイは、宴会の終わりを告げている弔旗。
(終わった。僕の世間体が――終わった)
確信した。
世界が終わるより先に、僕の「佐藤カナタ」としての社会的な人生が、高校生活が、いま、この瞬間をもって終焉を迎えたのだと。
英雄の登場に歓喜する世界。
だが、僕の目に映るのは、今朝お小遣いを母にせがんでいた矮小な中年男の、情けなくも圧倒的な背中だけだった。
救世主など、いるものか。
誰でもただの人間だ。悲しむこともあれば、痛みに悶えることもある。そう――今の、僕の心のように!
なぜ、お父さんが背負うべきものを、僕が背負っているのだろう?
再びニュースを見る。
やはり、そこにいるのは、ただ一升瓶を握りしめた「最悪の酔っ払い」。人類にとっての希望、もしくはモンスターたちにとっての災害、僕にとっての酔っ払い。
それは、もはや戦闘と呼べる代物ではなかった。
この宇宙を定義する物理法則。作用反作用の法則、熱力学の諸要素。それら「世界の理」全てが、根底から侵食されている。酔っ払いサラリーマンが体内に取り入れた、アルコールという名の神話(安物)によって。
理論は、あまりに狂気的だ。
知性とは何か。理性とは何か。それらは人間が人間であるために、脳という回路に張り巡らせた「リミッター」に他ならない。
「くはーー」
お父さんが、一升瓶に口を付ける。
そして「ゲフっ」と、喉から汚い濁音が漏れた。
人間の脳に張り巡らされたリミッターが外れる。大吟醸『魔王殺し改』(なお改は手書き)の猛烈な酒気が喉を焼き、意識の表層を融解させ、文字通り正気を蒸発させた。
【アルコール・ブースト】。
それは細胞が、現代科学の及ばぬ異世界の魔力と共鳴を起こす禁忌の術理。お父さんの千鳥足は、カオス理論における「予測不可能な不規則性」として、一種の儀式となりこの世の法則を歪める。
振り下ろされたモンスターの巨腕に潰されると確定した未来であっても、千鳥足という神秘は、ふらりと体を揺らすだけで「なかったこと」へと因果そのものをずらす。
そして、その手に握られた一升瓶。
元々は、ただのガラス容器でしかない。だが、今は違う。
今は、お父さんの膨大な魔力という名のストレスが宿っている。日々の業務、上司への殺意、満員電車の憂鬱といった「カタルシス」が変換され、高密度のエーテルが注ぎ込まれているのだから。さらに人類の歴史と、酔っ払いの理が合さるだけに留まらず、安いビジネススーツと、数多に巻いたネクタイという、宴会帰りの正装が、一升瓶の神話を強固なものとしている。
そう、あの一升瓶はもはや安酒を詰めたガラス瓶ではない。
もはや対象の「硬度」や「耐久性」といった物理法則を無視し、強制的に【破砕】という結果を叩き込む概念武装。さらに刻印された改という文字が概念武装の神格を高め、この世の理もろとも粉砕するまでに至っている。
すなわち【超酔器 一升瓶】なのだ。
一撃。
新宿のビル群を紙細工のようになぎ倒した巨獣の頭蓋が、ただの超酔器によって、地面に叩きつけられた熟れすぎた果実のごとく飛び散る。
この一撃を認識できた者が、どれだけいるのだろうか?
いや、お父さんと同じ酔っ払いであるのなら――。
彼らなら、このように考える。
あまりにも自然すぎる動きは、脳が当たり前の光景であると認識してしまう。しかも、あれはただの自然すぎる動きではない。千鳥足という神秘なのだ。
目の前で起こっていることは、自然すぎる動きという言葉すら生ぬるい秘奥に他ならない。お父さんの動きを、世界そのものが「正当な事象」であると錯覚しているのだから。
もう、誰にも止められない。
今、世界の監視を逃れた千鳥足は、ついにカオス理論によるランダム性をも支配したのだ。
お父さんの体が、ゆらりと揺れた瞬間、高層ビルよりも高い場所にあるモンスターの頭上に、千鳥足のごとき揺らぎが生じた。
それは他次元転移のごとき所業。
モンスターの頭上に現れたお父さんは、超酔器を振った。
空気が殴打される。
剛撃により、地面へと叩きつけられたモンスターの断末魔の叫びは、地面が砕けることで代わりとなって叫んだ。
ここまでが、先程の一撃が行われるまでの顛末。
気付けた人間は、酔っ払いだけだろう。
なぜなら、これは酔っ払いが共有する共有幻想――【酔払神話体系】の一幕なのだから。
だが、この場にいた酔っ払いがお父さんだけだったのは救いだったかもしれない。
なぜなら酔っ払いが集まれば、それは宴会芸の始まりとなってしまうからだ。そうなれば、世界の理とて彼らを縛れなくなってしまう。
もしも彼らを縛れる者がいるとすれば、酒代の支払いくらいか。
……お母さんの代わりに、支払いに行ったときは恥ずかしかったな。レジでの「いつものことなので気にしないでください」というフォローが特に。
お父さんは、歩きながら、一升瓶の中身を減らしていく。酒が減るたびに、超酔器は力を失っていく。
少しずつ――少しずつ――減っていく。だが怪物たちは、理解していた。
一升瓶の中身が減れば、確かに超酔器としての力も失われていく。
しかし、飲むたびに「アルコール・ブースト」のギアは上がり、お父さんのリミッターが一つずつ外れていっていることを。
飲むほど、呑まれる程に、酔っ払いの意識を深淵へと沈ませ、代わりに、この世の誰にも制御できない「酔拳的超能力」の出力が、無限大へと加速していく。
救世。
それは、アル中にとって、近所のお姉さんにウザ絡みをして通報され、翌日になって我に返った酔っ払いが土下座謝罪するていどの、定められた結実だった。
しかし、この程度で済んでよかった。
アル中が持つ最終奥義を、お父さんが発動させなかったのだから。
あれだけは使ってはいけない。
己の身とお店の人を犠牲にし、全宇宙の因果を反転させる酔っ払い最終奥義――ゲロだけは……。
――そして、夜が明ける。
お父さんは、自室という名の「固有結界」の中で泥のように沈んでいた。
抱きしめているのは、ラベルの一部が怪獣の返り血――異界の多次元血液によって赤茶色に汚染された、空っぽの一升瓶。
部屋に充満するのは、安酒の酒精と獣臭が混ざり合った、生理的な嫌悪を催す異臭。それは古い動物園の檻の中で、誰かが安い合成酒をぶちまけたような種類の人間的尊厳にかかわる酒臭さだった。
いつまでも、この臭いの中にいたくはない。すぐに、僕は廊下へと出て部屋の扉を閉めた。
考えてみれば、お父さんが昨日いたのは行きつけの居酒屋からの帰宅経路だ。
場末の居酒屋の裏路地を通り、酔っ払った勢いでちょっと世界を救った――酔っ払いの帰宅経路に、世界の終わりが転がっていた。
そう、すなわち酔っ払いの帰宅経路と、世界の救済は、同じ位相にあったということだ。
キッチンでは、お母さんが朝のしじみ汁を錬成していた。
テレビの向こう側で起きた、新宿の崩壊も、夫がしでかした宴会芸も、彼女にとっては「朝の占い」や「トーストの焼き加減」という名のマクロな宇宙に比べれば、観測するに値すらない瑣末な事象に過ぎないのだ。
しかし、現実というのは、どこまで残酷なのだろうか。僕の目は、視界の端に映った、新聞の紙面に書かれた真実を固定していた。
『一升瓶の救世主、現る。』
宴会帰りのサラリーマンが纏う神装である、ビジネススーツという聖衣(皺だらけ)と、ネクタイという名の冠――そして右手には「超酔器 一升瓶」
世をしのぶ仮の姿であり、他の姿がないためそれが真実の姿となっている、我が家の「万年係長」が、泥酔した顔で巨獣を撲殺する雄姿(無様)が人類の希望として一面を飾っていた。
「……ああ、おはよう」
背後から響いたのは、凱旋した英雄の声であった。二日酔いの濁った声は「アルコール・ブースト」の自業自得だ。
昨日、新宿を蹂躙した絶望を、一方的に蹂躙して「なかったこと」にした右拳が、今はただ、情けなく後頭部を掻くのに使われている。
(……ああ、ダメだ)
この人には、記憶がない。
世界を救ったという傲慢だけでなく、「アルコール・ブースト」を行ったという記憶もない。
ただの酒飲み(アル中)として、いつも通りの生活を始める――。
「うん?……見ろよ。俺にそっくりだぞ」
新聞に写ったのが自分であると気付かず、大笑いをしている酔っ払い。
それを「そうね」と、軽く受け流す絶対強者。
二人のやり取りを眺めながら、しじみ汁をすする僕。
――朝起きたら、しじみ汁を啜り、新聞を悠長に読んでいたら、遅れそうになりながら慌てて満員電車という名の戦場へと急行する。
そのあまりにも強固な「日常」は、例え「アルコール・ブースト」を使っても逃げられない牢屋だ。
特対本部や報道を、この佐藤家という聖域へ引き寄せる重力になる。
そして、近所のおばさんが「お父さんには、世界を救って頂き……ぷふふっ」などと、賛美することだろう。
さらには、SNSで黒い線を目元に入れただけで投稿をして「プライバシーに配慮しましたが、なにか?」と身元を隠す方が難しい僕の画像が散乱することもありえる。
「……お父さん、お母さん。僕、決めたよ」
僕は、喉元まで出かかった嗚咽を、生存本能という名の理屈で飲み込む。
「遠くの街の高校に、行く。……今すぐ。今日からでも」
たとえ世界が再び滅びに向かおうとも、この世の理がねじ曲がろうとも――譲れないものがある。
僕は僕の「平穏」を、この無慈悲な英雄の影から、光速で引き剥がさなければならない。
さらば、最強の酔っ払いよ。さらば、しじみ汁よ。
ごめん。僕は二人を見捨てることにするよ。
なぜなら――これ以上は、僕の魂の輪郭を保てない。この「羞恥」は、すでに許容量を超えているのだから。
●ごあいさつ
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