第9話 今日は残業
「待て! 貴様らぁぁああ!!!」
ジャックの怒号が、
背後から何度も追いすがってくる。
だが、その声は――
少しずつ、確実に遠ざかっていった。
どうやら、純粋なスピードだけなら、
俺とペロのほうが、わずかに上らしい。
……やがて、
あの圧のある声も、完全に聞こえなくなった。
拠点から、これ以上離れるわけにはいかない。
そう判断したのだろう。
「……もう大丈夫だ。ペロ、ロウ」
「うん! よかったね、ハジメ!」
ペロはそう言って、にこっと笑った。
「……ホ、ホゥゥゥ……」
一方、ロウはというと……
白目を剥き、完全にぐったりしている。
「ロ、ロウ!?
大丈夫か!? しっかりしろ!」
どうやら、
あまりのスピードに耐えきれなかったらしい。
……まあ、時速二百キロの車の助手席に、
シートベルトなしで放り込まれたら、
俺だって、たぶん意識を失う。
俺たちは近くの木立に身を隠し、
少し休憩してから、ギルドへ戻ることにした。
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ギルドに到着したのは、16時50分。
もうギルドが閉まる10分前だった。
カウンターには、
受付の女性である人間の由香里と、
ジョンの姿があった。
そして――初めてここを訪れたときにも見かけた、
ふさふさの羽毛を持つ老人の獣人。
セキセイインコのセイコが、
カウンター前の椅子に座っていた。
ジョンが俺たちの姿に気づいて、
こちらに向かってきた。
「おお、ハジメたち!
心配したぞ。どうだった?」
「……不法建築。
労務管理の杜撰さ。
すべてが是正勧告の対象でした」
「……ん?」
――いかん。
俺は、出張で会社の支所に、
抜き打ち監査に行ったわけじゃない。
気を取り直して、
要塞の規模、捕らえられていた獣人たちの存在、
そして、ジャックに見つかったこと。
偵察で得た情報と経緯について、
順を追って説明した。
「そうか……やはり、ジャックは……」
ジョンは、愛犬がまだ操られている現実を、
改めて突きつけられたのだろう。
ほんの一瞬だけ、
ギルドマスターではなく、
「飼い主」の顔になった。
「叫び声だけで地面が揺れるなんて……
正面からぶつかるのは、やはり無理です」
俺は、はっきりと言った。
「あの力は、異常です。
でも……一つだけ、分かったことがあります」
ジョンが、顔を上げる。
「追われているとき、確認できました。
スピードだけならおそらく、
俺とペロのほうが上です」
「……なんだと?」
「だから、戦うんじゃない。
ジャックを“引きつける”ことができれば……」
「その間に、獣人たちを逃がす、か」
ジョンは、すぐに理解した。
だが――
「しかし……どうやって?」
そう、問題は……そこなんだ。
俺が答えに詰まった、
そのとき。
「あの爺さん……本当に情けないね」
突然、低い声が割って入った。
振り向くと、
カウンター横にいたセイコが、羽を逆立てている。
「あの爺さんとは古い付き合いだけど……
あんな簡単に操られちまうなんて……
あたしまで、情けないよ」
口調は怒っているが、
その奥にあるのは、どうしようもない悔しさだった。
「この前まで
『全部俺に任せておけ! ハッハッハ!』
なんて言ってたくせにさ……」
その口調。
声色。
ジャックを真似したのだろうか。
「わー!
セイコおばあちゃん、上手!
ジャックおじいちゃん、そっくり!」
ペロが目を輝かせた。
……そっくり?
「ペロ。
今の声、ジャックに似てるのか?」
「うん!
セイコおばあちゃんね、
何回か話したことある人の声なら、
すぐ真似できるんだよ!」
何回か、話したことがある人なら――
誰でも真似できる?
……なるほど、インコの能力か。
その時、俺の頭に浮かんだ一つの閃き。
……コレだ!
胸の奥で、
歯車がぴたりと噛み合う音がした。
俺は、顔を上げる。
「ジョンさん」
「……なんだ?」
「もう、ギルドは終わりの時間だと思いますが……
今日は少し、残業してください」
ジョンが、目を瞬かせる。
「作戦会議です」
――ここからが、本番だ。




