第8話 旅費は不要
「ポールの拠点は、
ここから二百キロほど北だ。
犬の優れた方向感覚があれば、
迷うことなく辿り着けるだろう」
ギルドマスター・ジョンの言葉に、
俺は一瞬、思考を停止させた。
二百キロ。
現世なら、新幹線+宿泊を考える距離だ。
なら、まず考えるべきは――
概算旅費の前払い請求だ。
これを怠れば、
一時的とはいえ自腹を切る羽目になり、
給料日までの俺の生活資金繰りに、
確実な悪影響が出る。
……と。
(違う違う違う)
俺は軽く首を振った。
今はそんな局面じゃない。
そして――今の俺には、
旅費という概念そのものが、必要なかった。
「走って行きます」
「……何?」
「今の俺とペロは、
とんでもない速さで走り続けられるんです」
ジョンの眉が、ぴくりと動く。
「単純計算ですが、
今の速度なら……
一時間もあれば着くと思います」
沈黙。
数秒後、ジョンはゆっくりと息を吐いた。
「……凄すぎるな。
君のスキルは」
ペロが胸を張る。
「でしょ!
ハジメも私も、すっごく速いんだから!」
ロウが、俺の肩に降り立った。
「……行こう」
ジョンは短く言った。
「だが、今日は偵察だけだ。
絶対に深入りはするな。
……気を付けて」
「分かっています」
俺は頷いた。
「行こう、ロウ」
---
ギルドの外に出て、
北の方角を確認し、一息つく。
「ロウ!
しっかり掴んでろよ!」
そう声をかけて走り出した瞬間、
世界が一気に“迫ってきた”。
風が壁になる。
木々が、弾丸のように横をすり抜ける。
だが――
見える。
すべてが、はっきりと。
飛び出す枝。
地面の隆起。
小さな岩。
……必死の形相でしがみつくロウの顔。
ペロから引き継いだ動体視力が、
世界をスローモーションに変えていた。
「……避けられる」
身体が、勝手に最適解を選ぶ。
跳び、ひねり、かがみ、
踏み込み、かわす。
ペロは、隣で楽しそうに笑っている。
「ハジメ、楽しそう!」
「いやいや、全然楽しくないから!」
だが、恐怖はなかった。
ただ、速い。
ひたすら、速い。
そして――
一時間も経たないうちに、
目の前に巨大な壁が現れた。
「……これが、そうか」
とんでもない高さの塀が、
視界の左右いっぱいに続いている。
これが入口側の防壁だとしたら――
「……規模が、おかしい」
この時点で分かる。
中は、相当な広さなはずだ。
「ロウ、すまない」
俺は静かに言った。
「ここからは頼む。
上から構造を見てきてほしい。
……でも」
俺は祈るような気持ちで続けた。
「相手に飛べる獣人がいたら危険だ。
無理はするな」
ロウは、こくりと頷いた。
「見つかったら、すぐ戻ってきてくれ。
その時は――一緒に逃げよう」
ロウは小さく鳴き、羽を震わせ、
音もなく空へ舞い上がった。
要塞の上を、
自然に、まっすぐに通り過ぎるように飛ぶ。
旋回しない。
怪しまれない自然な飛び方だ。
――賢い。
俺とペロは、壁の影で、
ロウの帰りを待った。
心臓の音が、やけに大きい。
だが要塞の中は静かで、
今のところ、誰もロウを警戒していないようだ。
しばらくして、ロウが戻ってきた。
「どうだった?」
「……屋根はない。よく見える。
……でも、凄い広さ。
……東西南北、それぞれ三百メートル以上。
……周囲は全部、高い壁で囲まれてる」
俺は、思わず息を呑んだ。
……ロウが、こんなに喋った?
……いや、そこじゃない。
三百メートル四方だって?
周囲の環境など完全無視で、
木々を好き勝手に切り倒し、
壁を築いて、
要塞を建設。
……なあ、ポール。
国土利用法って、知ってるか?
――いや、イギリス人だったな。
でも、イギリスにも似たような規制あるだろ?
しかも全部、壁で囲ってるだって?
どれだけジャックを酷使してるんだ。
一日の労働時間は?
休日は?
三六協定はどうなってる?
……もはや即・立ち入り検査案件だ。
――だが。
今日は、偵察だけ。
俺は歯を食いしばり、
その怒りを飲み込んだ。
ロウが、続ける。
「……獣人、中に十人くらいいる。
……でも、ポールとジャックは見えなかった。
……もう一回、見てくる」
「あ、ロウ待っ――」
言い終わる前に、
ロウは再び空へ飛び上がった。
その瞬間。
「誰だぁぁぁあああああ!!!!」
空気を引き裂く怒号が、
要塞の奥から叩きつけられた。
次の瞬間――
地面が揺れた。
足元の石が跳ね、
砂がざらりと崩れる。
「ジャックおじいちゃんだ!!」
「なんだって!?」
これが――
ジャック?
叫んだだけで、地面が揺れる。
冗談じゃない。
怒号に煽られたのか、
ロウがふらつきながら高度を下げてくる。
俺は飛びつくようにロウを掴み、
ペロの手を引いた。
「逃げるぞ!!」
次の瞬間、
俺たちは一目散に走り出していた。
背後から、
低く唸るような声が響く。
――追ってきてる?
振り向くと、
何か巨大な"何か"が遠くから、
こっちに向かってきているのが見えた。
どんどん近づいてくる。
恐ろしい速さ。
さっきまで“点”だった影が、
もう“形”になっている。
きっとあれが――ジャックだ。
背中が凍りつく。
ペロも気づく。
「ハジメ!ジャックおじいちゃんが追ってきてる!」
「ペロ!もう振り向くな!全力で逃げるぞ!!」
圧倒的な存在を前に、
絶望を胸いっぱいに抱えながら――
俺たちは、ただ前だけを見て走った。




