第1話 有給申請を出してない
「ワンワン!」
……ああ。 聞き覚えのある、
やたら元気な鳴き声。
どんなに時が流れても、
間違えるわけがない。
……これは、ペロの鳴き声だ。
学校から帰ると、
あいつは必ず玄関まで走ってきてくれた。
――もう、ずいぶん前の話だ。
やがて、その鳴き声は遠ざかって、
聞こえなくなっていった。
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……ん? ここは、どこだ。
木々が青々と茂る森。
澄んだ青空と、差し込む光。
近くには、小さな池。
どうやら、俺はここで夢を見ていて、
今、目を覚ましたらしい。
しかし――
この場所には見覚えがない。
俺――佐倉 肇は、
どこにでもいる事務員だ。
独身。三十二歳。
毎日、判子を押して書類をファイリングし、
予算のズレを一円単位で修正する。
そんな刺激のない毎日を積み重ねてきたはずだった。
昨日は確か、会社からの帰り道。
猛烈なビル風が吹いた瞬間、
頭上で嫌な音がしたんだ。
ふと目をやると――
路地裏のゴミ捨て場にいた一匹の野良猫。
ふらふらと歩いていたその猫めがけて、
老朽化したビルの看板が、
剥がれ落ちてくるところだった。
「危ない!!!」
体が勝手に動いていた。
運動なんてろくにしていないのに。
あの時は自分でも驚くような速さで、
猫を突き飛ばしていたんだ。
――ガシャ、という重い音。
(あ、明日の有給申請出してないな……)
それが、俺の頭の中に残っている、
最後の「タスク」だった。
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「……ということは……
俺、死んだのか」
そう思っても、
心は、ひどく静かだった。
それほど現代に、
未練を残してこなかったのだろう。
その事実が、
ほんの少しだけ、むなしい。
ちょっとセンチメンタルになった、そのとき。
がさり、と正面の茂みが揺れた。
「うわっ!?」
情けない声が、勝手に漏れる。
そして、現れたのは――
二十歳前後くらい? の若い女性。
……っていうか。
犬? みたいな耳と尻尾、ついてるんだけど?
……コスプレ?
でも――
尻尾も耳も、ブンブン動いてるし。
普通は、作り物であんな動き、
できるわけないような……
「あっ!」
その女性が、動きを止めた。
こちらをじっと見つめている。
その瞳が、みるみる潤んでいく。
「あああああああーーーーー!!」
次の瞬間、ものすごい勢いで駆けてきた。
「ハジメ!」
「え? ちょ――うわっ!?」
そして、その女性は俺に飛びつき――
べろっ。
俺の顔を、遠慮なく舐めた。
(えぇぇぇぇぇえええええ!?)
「ちょちょちょ、ちょっと待って!!
距離感がおかしい!
コンプラ的にアウトだろ!!」
慌てて振り払おうとして、
顔に手をやる。
その指先が――
思わず、耳に触れた。
……あれ?
(温かい……?)
そこには、確かな体温があった。
しかも、耳がピクッと動いた。
やっぱり、被り物じゃ……ない。
(マジか……)
「あ、ごめんね」
そう言って、ようやく俺から離れたが、
混乱で、 頭がまったく追いつかない。
「なんで……俺の名前……」
その女性は、少し照れたように笑った。
「ハジメ。やっと会えたね。
アタシ、ペロだよ」
――えっ?
ペロ?
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
俺が小さいころに飼ってた――
あの、ペロ?
「わけわからなくて当然だよね」
その女性――いや、ペロは言う。
「ここはね、 飼われてた動物と、
その飼い主が生まれ変わる世界なんだ」
言葉が、口の中で止まる。
「私は先に死んだあと――
それから、
ずっとここでハジメを待ってた」
俺は口をポカンと開けて、
話を聞いていた。
『ずっと待ってた』
……待って。
ペロが死んだのは、確か――
俺が小学校を卒業する春。
あれから、もう二十年。
……二十年だぞ。
俺が学校で勉強してる間も、
就職して、毎日判子を押してる間もずっと?
(そんなに、待ってたのか……)
飼われてた動物が、
飼い主を天国の前で待っている。
そんな話は、聞いたことがある。
でも――
こんな姿になってるなんて、 聞いてない。
この女性がペロだなんて、
全然、信じられないけど。
でも……よく見れば、 クリンとした瞳。
グレーがかった耳の毛色。
短い毛並み。
そして、何より。
俺を見るなり、顔を舐める癖。
"ペロ"って名前の由来。
……もう、
間違いないんだと、 思ってしまった。
「……ホントに、ペロなのか?」
「うん!」
全身で喜びを爆発させて、
ペロはまた俺に飛びついてきた。
二十年も待たせたなんて――
残業代なんて、
とても払えないくらいの長い時間だ。
そう思うと、もう抵抗する気にもなれず、
俺はそのまま顔を舐めさせる。
満足したペロが離れたところで、
俺はようやく、口を開いた。
「この世界で生まれ変わった動物は……
みんな、ペロみたいに人の姿なの?」
「うん。そうだよ。
みんな人の姿で、
動物のときの特徴も残ってるの。
この世界では、獣人って呼ばれてるんだ」
次から次へと、新しい驚きが押し寄せてくる。
……本当に、ゲームの世界みたいだ。
ふと、気になったことを聞いてみた。
「……そういえばさ。
なんで俺、ペロの言葉がわかるんだろう?
ここだと、皆、言葉が通じるの?」
「ううん。
獣人同士なら通じることが多いけど、
人間は、わかる人とわからない人がいるの。
その理由は、ワタシにはよくわからないんだけど……」
ふと、ペロの声が真面目になる。
「ハジメ。ついてきて」
「……え?」
「私、うまく説明できないから――
ハジメに、会わせたい人がいるの」
「……うん」
俺は、わけもわからないまま、
ペロの後をついていくことにした。
この世界での俺の物語は――
二十年待っていてくれた相棒に、
見つけてもらうところから始まったんだ。




